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週末。すっかり暗くなった帝都女子体育大学の正門付近で、ベンチに座る七笑に透き通った声が話しかけている。
《七笑さん、明日は日曜ですが練習もオフになっていますね。どうぞよい休日を》
「ありがと、アリー。別に予定はないけどね」
《近隣で上映中の映画情報など、お出ししましょうか? 二週間以内にリリースされたレンタル作品も、七笑さんのお好みに合いそうなものをご紹介できますが》
プロファイルの趣味の欄に、映画鑑賞と記してあるからだろう。律儀なアリーは、そんな提案までしてくれる。
「ううん、大丈夫。読んでない本もあるし、家でダラダラ過ごそうかなと思ってるの」
《かしこまりました。休養もアスリートにとっては大切ですから、いいお考えだと思います》
「ありがとう。じゃ、またね」
笑顔とともに、七笑はアプリを閉じた。毎度のことながらアリーの優秀さには感心させられるし、実際にとても助かっている。旧型とはいえ七笑のスマートフォンにも音声対応アシスタント機能は搭載されているが、今までは立ち上げたことすらなかった。だがアリーに関しては、ちょっとしたスケジュール確認でさえ彼女に訊いてしまう。温もりといったら大げさだが、血の通った、しかも仕事ができる実在の友人みたいなキャラクターが、そうさせるのかもしれない。
ほんと、凄いなあ。
笑顔のまま胸の内でつぶやいた七笑は、立ち上がってキャンパスを出た。
今日はNASCではなく、大学での練習日だった。先日受けたインタビューのときは司が送り迎えしてくれたが、それこそ秘書ではあるまいし頻繁に彼に頼るわけにもいかない。
その司からは例によって、
《鈴野様 お忙しい中、本日もありがとうございました。貴重なお話を沢山聞かせて頂き、大変参考になりました。インタビュー原稿も一週間以内にはお送りしますので、修正箇所等、どうぞご遠慮なくお申し付けください。引き続き、何卒宜しくお願い致します。 マイナースポーツ・マガジン 司健》
という丁重なビジネスメールが、当日の夜にすぐ送られてきた。いつもと変わらない文面だったし、挙動不審気味だった帰りの様子は気のせいだったのかもしれない。
「どんな記事、書いてくれるのかな」
大学から七笑の住むマンションまでは、徒歩で二十分ほどだ。キーボードを叩いていた彼の横顔を思い出しながら、住宅街の角を曲がったとき。
「!?」
背後から急激に迫る気配を感じ、七笑はとっさに振り返った。
「あっ!」
声が出たのと身を翻したのと、どちらが先かはわからない。いずれにせよ結果として、自分を突き飛ばそうとした影を、見事にかわすことに成功していた。
「!! あなた――」
振り向いた先、黒いマスクの下からチッという舌打ちの音が聞こえる。同じく真っ黒な毛糸の帽子と、ジャージの上下。間違いない、西から聞いたとおりの格好だ。
「犯人ね!」
久保田たちや亜美、そして先日は須藤悠里を襲ったとされるアスリート襲撃事件の実行犯がなんと今、目の前にいる。
帽子とマスクの間からわずかに覗く目と、七笑は真っ直ぐに睨み合った。が、それも二、三秒程度のことだった。
逃げる!?
顔をしかめたように見えた犯人が、くるりと背中を向けたのである。
瞬間、七笑の身体はふたたび反射的に動いていた。
「待てっ!」
叫びながら跳び上がった七笑は、すぐ脇にあるコンクリート塀を蹴りつけた。自慢のジャンプ力に反動が加わり、小柄な身体がムササビのごとく宙を舞う。顔だけ振り向いた犯人が、帽子とマスクの間でぎょっと目を見開くのが空中からわかった。
「こンのおっ!」
ガツン!
右足に、たしかな手応え。ただ、クリーンヒットしすぎたらしく、七笑の三角蹴りは走り出していた犯人を、さらに加速させる羽目になってしまった。
「あっ! ちょっと、こら! 待ちなさい!」
見事な着地まで決めつつ叫んだが、それで待つような相手ではない。本気の全力疾走に入った黒い背中が、あっという間に遠ざかっていく。
「ああ、もう! 逃がしちゃった!」
試技を失敗したときのように両手で太腿を叩いたところで、七笑はようやく我に返った。
「あ」
心臓が大きく、そしてかなり速く脈打っている。
「…………」
二度、三度と深呼吸を繰り返すが、ドキドキが治まらない。今さらながら、夜気のせいだけではない冷たい寒さも全身に感じ始めて、思わず七笑は両手で身体を抱きしめた。
「あたし……」
相手は何人もの元アスリート、そして現役アスリートを怪我させてきた暴漢だ。つまり暴行罪や傷害罪といった罪に手を染めてきた、れっきとした犯罪者である。そんな人間と対峙して、
「……あたし、無事だったんだ」
無我夢中だったとはいえ、一歩間違えば大怪我を負わされていてもおかしくなかった。まさか、本当に自分が狙われる羽目になるとは。
もう一度、ぎゅっと我が身を抱いた七笑は、無意識のうちにスマートフォンを取り出していた。ためらうことなく「君も気をつけろ」と、今のような事態を真剣な顔で心配してくれた人の電話番号を呼び出す。
いつかのように、呼び出し音が二回鳴ったところで電話が取られた。
「もしもし?」
「七笑です。司さん、夜分にすみません」
その声にほっとした七笑は、親しい人にするように、ファーストネームを名乗ったことにも気づかなかった。
「どうした? 大丈夫か!?」
司はすぐに、異変を感じ取ってくれた。むしろ彼の方が緊張した声で、無事を確認してくる。
「あ、はい。大丈夫は大丈夫なんですけど」
「襲われたんだな?」
「はい。ごめんなさい、気をつけるように言ってくれたのに」
「いや。犯人の都合ばかりはどうしようもない。それよりも、本当に無事なのか? どこも怪我はないな?」
「はい。むしろ、あっちが怪我したかも」
「え?」
「あ、いえ、なんでもありません。とにかく大丈夫です。ありがとうございます」
空手など習ったこともないのに、とっさに三角蹴りをして相手を捕まえようとしたなどというのは、とりあえず黙っておくことにした。武勇伝にはなるかもしれないが、真剣に心配してくれている司には、逆にお説教されてしまうだろう。
「君は今、どこにいる?」
「ええっと、家まであとちょっとのところです」
「そうか……」
一瞬、迷うような沈黙があったので、まさかと思った七笑はあわてて告げた。
「あの、もう五分もかからないですし、自分で帰れるから大丈夫ですよ」
「本当か? 暗い道とかはないか?」
「はい。住宅街ですけど、街灯も結構ありますから」
「でも、夜であることには変わりないだろう。俺は
「だ、大丈夫ですってば」
案の定、司は車で駆けつけようとしてくれている。しかも、意外と近くに住んでいるらしい。
「犯人がまだ、近くにいるかもしれないしな」
「まあ、たしかに」
心配そうに言われた台詞を、七笑も否定はできなかった。もう一度武力行使をして撃退できるかと言われれば、そんな自信もない。
「コンビニか何かは、すぐそばにあるか?」
「はい、すぐそこにありますけど」
二十メートルほど先を見つめて、七笑は頷いた。行き帰りにしょっちゅう利用しており、店員とも顔馴染みのコンビニが、街灯の先で煌々と看板を輝かせている。
「わかった。じゃあ、そこにいて場所をメールしてくれ」
「え」
「十五分で行く」
「ええっ!? ほんとに大丈夫ですってば!」
「俺が大丈夫じゃない。もしこれで、君がもう一度襲われて怪我でもしてしまったら、寝覚めが悪いどころじゃ済まなくなる」
「はあ」
「だから今夜も送らせてくれ。頼む」
「ありがとうございます。じゃあ、お願いします」
七笑は素直に、司の提案を受け入れることにした。今までで一番真剣な口調が本当は心強かったし、激しく脈打っていた心臓も落ち着いて、今は逆に胸のあたりがなんだか温かい。いつの間にか、感じる寒さも夜の冷気だけになっていた。
「本当にありがとうございます。それじゃ、待ってます」
落ち着いたからだろうか、もう一度礼を述べて通話を終えたタイミングで、七笑は目の端に映る何かに気がついた。
「あれ?」
よく見ると小指の爪ほどのごく小さな物体が、アスファルトに落ちている。場所的に先ほどの三角蹴りの衝撃で、犯人が落としていったもののようだ。
「! これって!」
その小さな物体がマイクロSDカードだということを理解した七笑は、拾い上げると同時にスマートフォンをもう一度取り出した。自分の機種にも、マイクロSDカードを挿入するスロットがあることを思い出したのだ。
本来なら、警察に届けるのが先かもしれない。だが、ふたたび湧き上がってきた犯人への怒りと、奴の尻尾を掴むことができるかもという興奮から、七笑は深く考えないままにカードをスマートフォンに差し込んでいた。
「?」
中にあったデータは、フォルダ分けもされていない数個のPDFファイルだけだった。ファイル名はいずれも、ここ最近の日付だけが記されている。試みに一番上、つまり直近の日付のファイルを広げてみる。
「メール?」
中身はどうやら、メールの文章をそのままPDF化したもののようだった。
《
どこかで見た文体だ、と思った。
《また、今後ですが以前のお話どおり、あと二、三件で一区切りとさせていただきたく存じます》
社会人らしいビジネスメール。
《私の方も本業の執筆や編集が忙しくなって参りましたので、ご理解くだされば幸いです》
丁寧な文章。
《引き続き、どうぞよろしくお願い致します》
最後に記された二文字の署名を、七笑は読みたくなかった。けれども視界から外すには、スマートフォンの画面は小さすぎた。
見開かれた目に、その名が飛び込んでくる。
《司健》
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