「あ、西にしさん! こんにちは!」


 食事を終えたところなのだろう、すぐそばの返却口にトレーを返してから、細身の男性がこちらに歩み寄ってくる。


「ああ、ごめん。インタビュー中だったんだね。失礼しました」


 丁寧な口調で司に頭を下げる男性は、七笑と同じくジャージ姿だ。ただ、アスリートっぽくない体型だし物腰も柔らかなので、知らない人は一般人だと言われても信じてしまうだろう。


「いえ、大丈夫です。ちょうど今、終わったところですし。失礼ですが、ライフル射撃の西良太りょうた選手ですよね?」


 立ち上がった司が、にこやかに挨拶を返す。スポーツに興味はないはずだが、さすがに彼の顔は知っているようだった。

 西良太と呼ばれた優しげな青年は、にっこりと微笑んだ。


「はい。僕なんかのことも、ご存知なんですね。ありがとうございます」

「何言ってるんですか。オリンピックの銅メダリストなのに」


 笑って会話に加わりながら、七笑も立ち上がった。彼、西良太はライフル射撃の選手で、前回の東京オリンピックで見事銅メダルを獲得した人物である。ライフル射撃とはいえ基礎体力はやはり重要だそうで、ここNASCで何度か一緒になるうちに顔見知りになった。


「こちらの司さんは、マイナースポーツ・マガジンていう、新しく出る雑誌の記者さんなんです」

「マイナースポーツ・マガジン?」

「名前のとおり、世間ではちょっとマイナーな扱いをされてしまっている競技の専門ウェブサイトです。編集部の司健と申します」


 司の説明に西は、「なるほど」と何度か頷いた。


「だから僕の顔も、ご存知だったんですね」

「いえいえ、さすがに私もメダリストのお顔は存じ上げていますよ。他のメディアでもよく拝見してますから」

「はは。忙しかったのは、帰国して一、二ヶ月だけでしたけど」


 屈託なく西は語るが、事実でもある。水泳や柔道といった「お家芸」のメダリストはもちろん、メダルに届かなかったサッカーなどに比べても彼の扱いは地味だった。このあたりも、マイナー競技ならではの悲哀と言えるだろう。


 自嘲気味に笑ったまま、西は続ける。


「最近じゃライフル選手っていうより、須藤悠里の彼氏、って呼ばれることのほうが多いみたいですし」


 彼の言葉で七笑は、はっと思い出した。


「そうだ! 西さん、須藤さんはご無事なんですか!?」


 西はアスリート襲撃事件の新たな被害者、須藤悠里と交際中なのだった。数ヶ月前に写真週刊誌にパパラッチされたのだが、そのときの対応が二人とも堂々と、かつハキハキした、いかにもスポーツマン&スポーツウーマンらしいものだったので、「さわやかカップル」としてメディアではむしろ好意的に取り上げられていた。


「ありがとう。お陰様で大丈夫だよ。膝を擦りむいただけって書かれてたけど、本当にそうなんだ」

「良かった」


 自分のことのように、七笑は胸を撫で下ろした。須藤悠里と直接会ったことはないが、いつも穏やかに接してくれる西の恋人ということもあり、もちろん悪い印象は持っていない。


 それに、凄く綺麗だし。


 自分と同じく国際大会での目立った実績こそないものの、パリオリンピック代表を狙う美女アスリートとして、彼女はここのところメディアに取り上げられる機会が増えている。キュートな雰囲気の亜美とはまた違う、まさに「美人」と呼ぶに相応しいルックスの選手だ。


「それは何よりでした。ああ、よろしければどうぞ」


 司も微笑んで、西に空いた椅子を勧めた。記者の習性か、彼からもう少し話を聞きたいようだ。西も素直に「ありがとうございます」と彼の隣に腰かける。


「じつは彼女が襲われたとき、僕も一緒にいたんです」

「え!?」


 二人に倣って座り直した七笑は、目を丸くした。が、司はすぐに納得している。


「ああ、なるほど。お友達と一緒に歩いていたとありましたが、西さんのことだったんですね」

「はい。彼女の練習後に待ち合わせて帰るなんて、なんか高校生みたいで恥ずかしくて。といっても付き合ってることはオープンにしていますし、記事を読んだ人にはバレバレでしょうけど」


 西は照れ臭そうに苦笑するが、七笑は、「そうだったんですか」と目と口を丸くしていた。


「はは、七笑ちゃんは素直だから、文面どおりに受け取ってくれたみたいだね」

「素直というか、その手の機微に疎いだけでしょうけどね」

「ちょっと! 司さん!」


 わざとらしく肩をすくめてみせる司に、すかさず厳しい視線を送っておく。感じのいい対応は、やはりインタビュー限定だったらしい。


「西さんが言ってくれたでしょ。あたしは素直なだけです」

「ジャージで出歩く二十二歳の女が豪語しても、説得力がないぞ」

「練習に行くときと、家の近所だけです!」

「まあ、そういうことにしておこう」

「くれぐれも、余計なことは記事にしないでくださいよね」

「考えておく」

「ちょ……! 言ってることが、さっきと違うじゃないですか!」


 子どもじみたやり取りを見て、西がこらえきれずに吹き出した。


「あはは。お二人は仲がいいんですね。そういえば七笑ちゃん、インタビューとか苦手って言ってなかったっけ? でも、こちらの司さんならOKなんだ?」

「違いますよ。うちの先生の知り合いだから、仕方なく――」


 すると七笑の台詞をさえぎるように、司が西に確認した。


「須藤選手とご一緒だったということは、犯人を目撃されたんですか?」


 視線を戻すと、彼の目が鋭く光っている。


 あ、スイッチ入った。


 そう思ったので、大人しく会話を見守ることにする。


「ああ、はい。でもすぐに逃げられてしまって。上下とも黒いジャージでしかも同じ色のマスクと帽子までつけていたから、人相も全然わかりませんでした。それは警察にも話してありますけど」


 訊かれた西も真剣な面持ちだ。無事だったとはいえ、恋人を後ろから突き飛ばした相手に対する怒りが、温厚な彼からも滲み出ている。


「ただ」


 と西は続けながら、視線を斜め下に向けた。


「ただ?」 

「ただ不思議なのは、犯人が最初から悠里を狙っていた感じだったんです。もちろんそれは、ますます許せないことなんですが」

「え?」


 きょとんとして、七笑は正面の司を見た。だが彼の方は、例によってすぐに意味を汲み取ったらしい。


「それはたしかに、引っかかりますね」

「はい。僕も、あとから気がついたんですが」

「ええっと……つまり、どういう?」


 自分だけがわかっていないようなので、七笑はストレートに西に訊き直した。


「犯人は明らかに、僕のことは眼中になかった。少し後ろにいた僕を追い越して、わざわざ悠里だけを突き飛ばしたんだ」

「はあ……」


 それでも小首を傾げていると、司が呆れた顔を向けてくる。


「なんだ、わからないのか?」

「い、いいでしょ別に。ていうか、何か気づいたんなら教えてくださいよ」

「やはりバーベルばかり担いでいる女子は、気が回らないんだな」

「うっさいなあ、もう。要するに、どういうことなんですか?」


 憎まれ口を叩き合う二人に、西がふたたびおかしそうに教えてくれた。


「犯人が一連の事件と同じなら、オリンピックメダリストを狙うはずでしょう? こういう比べ方は好きじゃないけど、悠里はまだメダルを獲ったことがない。もっと言えば、オリンピックにも出たことはない。世間には、ちょっと顔を知られているけどね」

「あ!」

「そういうことだ。なぜ隣に西さんがいたのに、須藤選手の方を狙ったのか。そこが引っかかる」

「そっか、メダリスト狙いなら西さんこそ標的にされるはずですよね。見た目だって、全然鍛えてる風じゃないし……って、ご、ごめんなさい!」

「はは、そのとおりだから大丈夫だよ。種目が種目だしね」


 にこにこと答える西を見ていた司の目が、一瞬だけさらに強く光ったように七笑には見えた。だが彼は何かを言うわけでもなく、「それも警察には、お話されたんですよね?」と確認しただけである。


「ええ、もちろんです。警察は単純に、女性の方が体力的に狙いやすかったからじゃないか、という方向で見ているようですけど」


 司の反応はとりあえず脇に置いて、西の答えに七笑も頷いた。


「これまでの被害者も、高齢者と女性ばかりですもんね。久保田先生しかり、ワニちゃんしかり」

「ああ、そうか。七笑ちゃんも知り合いが被害に遭ってるんだよね。それも自分の監督と親友っていう、大事な人が二人も」

「ええ。でも私の方も、お陰様で両方とも無事でしたから」

「みたいだね。だけど本当に同一犯だとしたら、犯人は何をしたいんだろう……」


 そうして考え込むような眼差しになりかけた西だったが、「おっと、いけない」と、すぐ我に返った。


「すみません、お邪魔しちゃったうえに長々と。これから射撃練習なので、僕はこれで」

「いえ、こちらこそありがとうございました。西さんも、どうぞお気をつけて」

「ありがとうございます。機会があればライフル射撃も、ぜひ取り上げてください。七笑ちゃんも、トレーニング頑張って」

「はい、ありがとうございます!」

「じゃあ、失礼します」


 それぞれが立ち上がって挨拶すると、西は笑顔で手を振ってラウンジを出て行った。


「あの、司さん」


 揃ってもう一度席に着いてから、七笑はあらためて訊いてみた。やはりさっき、この人は事件に関して何か感づいたのではないだろうか。


 だが司は、かけられた声を別の目的だと思ったらしい。


「ん? ああ、そういえば写真がまだだったな。インタビュー中のスナップっていうイメージだから、ここで簡単に何枚か撮らせてくれ。スマホのカメラで充分だ」

「は?」

「できれば笑顔とちょっと真面目な表情と、2パターンで複数ずつ欲しい。まあ実際にサイトで使わせてもらうのは、そのうちの二枚程度だろうけど」

「……はあ」


 勢いに押される形で、気がつけば七笑はぎこちない笑みを、スマートフォンのレンズに向けていた。


 カシャッ、カシャッと何度もシャッター音が鳴っていく。

 それをBGMにするかのようにさらりと、だが優しい声が届いた。


「君も気をつけろよ」


 カシャッ。


「え?」

「アスリート襲撃事件だ」


 カシャッ、カシャッ。


「あ、はい。ありがとうございます。でもあたしはメダリストじゃないし、須藤さんと同じで、そもそもオリンピックに出たことすらないですから」

「いや。俺が思うに――」


 カシャッ。


 そこでいったん、司はスマートフォンを持つ手を降ろした。手帳型ケースの向こう側に、予想外の真剣な顔が覗いている。


「君もターゲットになる可能性は、じゅうぶんある。今日は帰りも俺が送れるからいいが、今後はますます気をつけて欲しい」

「え!? ……は、はい!」


 強い目力に押されるように、七笑はこくこくと頷くことしかできなかった。




 その夜、司は本当に七笑の練習が終わるまで待っていてくれた。

 NASC自慢の大浴場で汗を流してから、急ぎ足でラウンジへと戻ると、熱心にキーボードを叩く彼の姿が見えた。


「すみません、司さん! お待たせしました!」

「ああ、終わったのか。いや、全然待っていな――」


 顔を上げた司は、だがなんとも微妙な表情でわざとらしく目をそらしてしまう。


「どうしたんです?」

「……急いで来てくれたのか」

「はい、一応。ごめんなさい、やっぱり遅かったですか?」

「そうじゃない」

「?」

「髪だ」

「は?」

「いや、髪だけじゃないが……」

「髪?」


 きょとんとしながら、七笑は自分のショートカットに触れてみた。毛先がまだ、しっとりと濡れている。

 ちらりとこちらを確認した司は、パソコンをシャットダウンしながら、なぜか怒ったような口調で続けた。


「ぬ、濡れたままの髪と赤い顔で、しかもシャンプーの匂いまでさせながら、来ることはないだろう。ただでさえジャージ姿なんだし」

「え? 髪、もっと乾かしてきた方がよかったですか? あ、そっか! 車に乗せてもらうんですもんね。ごめんなさい、じゃあ背もたれにタオル敷きますね」

「そういうわけじゃない!」

「え?」

「……もういい。君に女性としての自覚を求めた俺が、アホだった。とにかく行こう」

「? はあ」


 駐車場までの短い間も、司は心なしか大きめに距離を取って歩こうとした。よくわからないまま、七笑はそんな彼を子犬のように追いかけたのだった。

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