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【なでしこジャパン鰐淵選手、暴漢に襲われ怪我】
昨晩七時頃、北区にあるコンビニエンスストア付近の路上で、女子サッカー選手の鰐淵亜美さんが、何者かに背後から突き飛ばされて怪我をする事件が発生した。鰐淵さんは現場からほど近い、国立アスリート・サポートセンター(NASC)に宿泊中で、コンビニエンスストアへ買い物に向かう途中だった。全日本サッカー協会や本人のSNSによれば、自力でNASCへ戻ってすぐにトレーナーの処置も受けられたので、大事には至っていないとのこと。
警察は先月から連続発生している元有名アスリート襲撃事件との関連も疑いながら、捜査を進めていく方針。
ニュースを見た七笑は、その日のうちにすぐNASCへと駆けつけた。併設されているアスリート専門クリニックに出向くと、なんと亜美は「打ったところ以外は元気だし、トレ体とかプールで、別メニューのトレーニングしててもいいですよね?」と、予定どおり合宿にも参加中だという。
「ワニちゃん!」
トレ体、すなわちトレーニング体育館に足を運ぶと本当に亜美がいた。ストレッチマットのところで、入念に身体を伸ばしている。
「あれ、七笑? どうしたの? 今日もこっち?」
「どうしたのじゃないよ! ニュース見て、びっくりしたんだから! 大丈夫?」
「あ、そっか。ありがとう。でも全然大丈夫だよ。軽く膝を打ったけど、打撲だけだって。ほら」
けろりと言って亜美は、短パンから伸びる脚を指差した。サッカー選手らしくしっかりと筋肉はついているが、しなやかで形のいい脚だ。だがその一部、左膝の上の方が見事な青あざになってしまっている。
「うわ、痛そう……」
「ほんとに痛いんだから、押したりしないでよ?」
おどける表情も、いつもの彼女だ。良かった。
「ごめんね、ワニちゃん」
七笑は、ぺこりと頭を下げた。
「え? 何が?」
「あたしがもうちょっと残って、一緒にコンビニに行くことができてたら……」
「ううん、七笑が気にすることじゃないってば。それに七笑があたしに教え終わったのって、五時ぐらいだったでしょ? あれ以上居残りしてたら、七笑までここに泊まる羽目になってたよ。一緒にお風呂も入れるし、あたしは大歓迎だけどね」
「うん。でも、無事で本当によかった。怖くなかった?」
「うーん。怖いっていうより正直、ムカついたかなあ。そのときは一瞬だから何があったか全然わかんなかったけど、誰かに突き飛ばされたんだってあらためてわかったら、やっぱり凄く頭にきちゃった。後ろからの危険なタックルはレッドカードだけど、おんなじことやって、ぶっとばしてやりたい気持ちかな。あはは」
いたずらっぽく、そして彼女らしくチャーミングに笑う姿が、ますます七笑を安心させた。この様子なら、変なトラウマなどを抱え込むこともないだろう。言葉からもわかるが、亜美はキュートなルックスの裏側にアスリートらしい勇気や闘争心も併せ持っている。何せ現役の、しかも世界と戦う日本代表選手なのだ。襲う相手を間違えてるわよ、と暴漢に言ってやりたいくらいである。
「念のために今朝、
「神宮寺先生?」
聞き慣れない名前を、七笑は繰り返した。
「うん。ずっとJOAのヘッドドクターを務めてる、T大のスポーツドクターさん。なでしこの海外遠征とかにも、たまに帯同してくれるの。NASCには滅多に来られないんだけど、今日はたまたまいて診てもらえたんだ」
「へえ」
「あ、そっか。七笑は全然、怪我しないもんね」
亜美が言うとおり、七笑は体操をやっていた頃を含めて捻挫一つしたことがない。運の良さもあるだろうが、丈夫な身体に生んでくれた両親には心から感謝している。
「それだけが取り柄ですから」
こちらも笑顔で返して「でも、ほんとに無事でよかった」と七笑はもう一度、亜美のそばにぺたんと座り込んだ。
「ありがとう。そうそう、アリーさんも心配してくれたの」
亜美は昨日のように、愛用のデイパックからスマートフォンを取り出した。
ALLアプリを立ち上げると、ロングヘアの彼女のアリーがすぐに現れる。
《こんにちは、亜美さん。打撲は大丈夫ですか? 膝には五本もの
「はい。ありがとうございます、アリーさん。でも他の箇所は、トレーニングしていいんですよね?」
《もちろんです。患部外トレーニングは、むしろ積極的に行いましょう。サッカー協会のデータによれば、亜美さんは上半身の筋力がまだ弱いので、休んでいる間もそういった箇所のウエイトトレーニングに励むことをお勧めします。エクササイズもご紹介しましょうか?》
「あ、いえ。NASCにいるし、そこは大丈夫です。ありがとうございます。頑張ります!」
《〝ピンチはチャンス〟という言葉もあります。この機会に、さらに強くなれるといいですね。では、また》
相変わらず、本物の秘書としているようなやり取りである。加えて七笑には、さらに驚かされたことがあった。
「アリーって、個人の体力データまで把握してくれてるの?」
「うん。でもこれは、あたしたち強化指定選手だけみたいだけど」
「へえ。じゃあ、あたしも聞けば答えてくれるのかな」
「JOAの強化指定じゃなくても、オリンピック種目ならほぼ大丈夫って聞いたよ。ていうか七笑もアリーさん、入れたんだ?」
「うん。ワニちゃんも勧めてくれたし、昨夜からさっそく。でもほんとに、人と話してるみたいだよね。面白くて、そのまま遅くまでいっぱい会話しちゃった」
答えた七笑は、自身もスマートフォンを出してアリーを立ち上げてみせた。語ったとおり、昨夜のうちにアプリをダウンロードして年齢や身長、スポーツ歴なども登録してある。感心したのは自分にもトップアスリート用のIDが用意されていて、名前を入力した時点で「鈴野七笑」が候補として表示されたことだ。どうやら各競技団体からも情報を集約して、自分のようなローカル強化指定選手にも、便宜を図ってくれることになっているらしい。
その七笑のアリーは、司のものと同じショートヘアのシルエットだった。ヘルプサイトを見たところ、ルックスについては自由には選べずランダムに割り振られるそうだ。
《こんにちは、七笑さん》
礼儀正しく両手を前に重ねたアリーが、明るく挨拶してくる。
「こんにちは、アリー」
《昨日は私へのご登録、ありがとうございました。何かご相談ですか?》
「あ、ううん、なんでもないの。ちょうどアリーの話をしてたから。ごめんね」
《とんでもありません。ご存知のとおり私はまだ新人ですし、皆さんが話題にしてくださるのは、とてもありがたいです。それがいい話題であるよう、頑張ります》
「大丈夫だよ。アリーは便利だし、凄いねって話してたんだよ」
《ありがとうございます。私のサポートなど微々たるものですが、プロファイルを拝見したところ七笑さんは、ずっと大きな故障もなく競技生活を送られています。
やはりウエイト連盟のデータベースも、しっかり参照してくれているようだ。無事是名馬という言葉に嬉しくなった七笑は、明るい声で画面に向かって答えた。
「どうもありがとう。アリーも、そこは認めてくれてるんだ?」
《もちろんです。でも七笑さんのいいところは、他にもありますよ。女子ウエイトリフティングが残念ながら、まだまだメジャーでないというのもありますが、トップアスリートにもかかわらずスキャンダラスな話題がまるで検索にヒットしません。週刊誌やネットでも、プライベートに関する話題は女子サッカーの鰐淵亜美選手と仲がいい、ということぐらいです》
「そ、それは喜んでいいのかな」
《私の個人的な予測ですが、七笑さんのスケジュールやGPSによる行動パターンから見るに、彼氏やボーイフレンドといった単語とともにヒットすることは、しばらくはないと思われます》
「……ありがと。じゃ、またね……」
引きつった笑顔とともにアプリを閉じる本人の隣で、「あはは! アリーさん、すごーい!」と、亜美が爆笑している。
「でも七笑、使い始めたばっかりなのに、すっかりアリーさんと仲良しだね」
仲良しという言葉は決して誇張ではなく、AIであるアリーは使えば使うほど、そのユーザーに合わせたコミュニケーションや話題のチョイスを学んでいくのだという。
「昨日も言ったかもしれないけど、七笑はいい意味で流行に流されない人だから、アリーさんはどうするのかなって思ってたんだ。だからちょっと意外っていうか、嬉しい驚きっていうか。もともと興味あったの?」
「ああ、うん。知り合いの記者にも勧められたから」
返事を聞いた亜美は、ますます意外そうな顔をした。
「あれ? 七笑が取材受けるなんて、それもめずらしくない? いつも、マイナー競技だし自分なんて可愛くないから、って避けてるじゃん。あたしが雑誌の対談相手に指名しようとしたら、全力で断られたぐらいだし」
「あのときはごめんね。でもやっぱり、そういうの苦手だから。その記者だって正式な取材じゃなくて、ちょっと話をしただけなの」
場末の中華食堂で、というのはさすがに黙っておきながら、七笑は司の顔を思い出していた。やる気のない態度と、スイッチが入ったときの鋭い目。あの男は普段、どちらの顔で仕事をしているのだろう。
「ふーん」
なんとなく探るような視線を亜美に向けられたので、七笑はわざとらしく付け加えた。
「うちの先生の知り合いだったのよ。だから仕方なく、ちょっとだけ」
「ふーん。仕方なく、ねえ」
「な、何よ」
「ちなみにその記者さんって、男性?」
「え? ああ、うん」
「取材を受けたのって、いつ?」
「一昨日だけど」
だから取材じゃないってば、と頭の中で抗議した途端、亜美が面白そうな顔になった。
「一昨日? 二月十四日なんだ? へえ」
「ちょ、ちょっとワニちゃん? 変な誤解しないでよ!」
言われるまで、七笑の方がすっかり忘れていた。そういえばあの日は、久保田のお見舞いに義理チョコを持っていったのだった。
ていうかバレンタインに中華食堂の日替わり定食って、やっぱりどうなのよ。
別に特別な関係でもなんでもないが、七笑は心の中であらためて司につっこんでしまった。
「でもやっぱり、めずらしいなって思うよ。そもそも礼儀正しい七笑が、知り合いの記者さんじゃなくて、記者呼ばわりしてるし。ね、ここだけの話、本当は親しい人とかじゃないの?」
顔はにやにやしたままだが、遠まわしに「親しい人」という言い方をしてくれるところに亜美の優しさが表れている。とはいえ、七笑にとってはそれどころではない。きっちり誤解を解いておかなくては。
「とんでもない! その日に初めて知り合ったんだし、むしろ直接会ったら感じ悪いんだから!」
「え?」
よくわからない否定の仕方に小首を傾げた亜美だが、一応は納得してくれたらしく、いたずらっぽい口調とともに頷いた。
「ふーん。了解。これ以上は、つっこまないでおいてあげる」
「あのねえ……」
呆れたリアクションをしながらも、七笑は亜美の顔を見てもう一度思った。このチャーミングな友人が無事で本当によかった、と。
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