第二章  アリー

 翌日の午後。


 ドーン! という大きな音が、国立アスリートサポートセンター=National Athlete Support Center、通称「NASC」のトレーニング体育館に響き渡った。プラットフォームと呼ばれるウエイトリフティング専用の床で、豪快に落とされたバーベルが弾んでいる。 


 よしっ!


 七十五キロのバーベルを一気に頭上へと持ち上げることに成功した七笑は、軽く頷いてプラットフォームを降りた。


 ウエイトリフティング競技は、この「スナッチ」種目ともう一つ、いったん肩にバーベルを乗せてから再度頭上に挙上する「クリーン&ジャーク」種目、二つの合計挙上重量で競われる。それぞれ三度ずつの試技が許されているが、どちらかで三度とも失敗してしまえば記録なし、つまり失格となってしまう。だからと言って安全パイな重量でばかり勝負していては記録が伸びないので、試合中はセコンドと相談しながらライバルたちがどれだけの数字を上げてくるか、自分はそれに対してどれくらいで勝負するか、という駆け引きも非常に重要になってくる。


 まあ、駆け引きは、久保田先生にお任せすれば間違いないけど。


 幸い七笑は、常に久保田がセコンドについてくれるので、そのあたりの心配はいらない身である。だからこそ、こうして苦手なスナッチの安定感はもちろん、記録そのものも伸ばして、東京オリンピックの切符を掴みたいところだった。


「やっぱり、八十まではいきたいなあ」


 ボトルの水を飲みながらひとりごちていると、遠くから、「七笑!」と自分を呼ぶ声が聞こえた。


「あ、ワニちゃん! お疲れ様!」

「お疲れ様。そっか、今日はこっちでトレーニングなんだ」


 七笑に「ワニちゃん」と呼ばれた女子選手が、笑顔で近づいてくる。ポニーテールが似合う小さな顔と黒目がちの瞳は、どこかのアイドルのようだ。


「うん。週に二日は、NASCでやらせてもらってるの。うちの大学のトレ室、狭いしね」

「ああ、そうだよね。練習試合で行ったとき、トレーニングルームを覗いてびっくりしたもん。七笑が練習してるのって、こんなに普通のところだったんだって」


 彼女、鰐淵わにぶち亜美あみは七笑の友人で、女子サッカー日本代表『なでしこジャパン』の選手である。年齢は同じ二十二歳。高校時代から年代別の代表チームに選抜されてきた、いわばサッカーエリートだが、それを少しも鼻にかけない明るい性格と何よりもこのキュートなルックスで、「ミスなでしこ」としてメディアでも大人気のアスリートだ。だが、決して人気先行というわけではなく、前回のワールドカップには最年少メンバーとして出場したし、最近では海外移籍の噂も報じられている。そしてその裏には「見た目だけの選手」と言われたくないという本人の強い気持ちと、真面目な努力があることも七笑はよく知っている。


 チャーミングな笑顔のまま、亜美は続けた。


「でもいいなあ。あたしも女子大生、やってみたかったな」


 そう語る彼女自身は、持ち前の才能から高校卒業後すぐに、女子サッカーリーグ『なでしこリーグ』の選手としてプロ契約を果たした身だ。


「なーに言ってんの。ワニちゃんたち社会人が税金を納めてくれるから、うちみたいな公立大学は成り立ってるのです。だから、もっともっと働いてくださいな」


 友人をからかいつつ七笑は「税金」という単語に、昨日もそんな話をしたっけと思い出した。同時に、やる気があるのだかないのだかわからない、変わった記者の顔も頭に浮かぶ。


「どうしたの?」


 七笑の冗談に可愛らしく唇をとがらせていた亜美が、少し怪訝な顔をした。


「あ、ううん。ワニちゃんも今からトレーニング?」

「うん。明日からNASCで合宿だから、前乗りさせてもらったの」

「さすが。ミスなでしこは、意識が高いですなあ」


 気を取り直した七笑がふたたびからかうと、亜美は「やめてよ、もう」と答えてから、ぺろりと舌を出した。


「ていうか、ここのお風呂が好きなだけなんだけどね」


 彼女が語るとおり、NASCにはアスリートたちに好評の大浴場がある。ジャグジーや水風呂はもちろん、小さいながら露天風呂もあるので、七笑もここでトレーニングする日は、それがささやかなモチベーションになっているほどだ。


「また合宿が重なって、一緒に入れるといいね」

「うん!」


 亜美の言葉に、七笑もにっこりと頷いた。NASCでは複数の競技団体が、同時に合宿することもある。彼女と知り合ったのも、そもそもそれがきっかけだった。


 半年程前に行なわれた、ウエイトリフティング連盟主催の合宿トレーニング。夜間に一人で自主トレしていた七笑は、「すみません、ウエイトリフティング選手のかたですよね?」と突然話しかけられたのだ。


「あの、ジャンプ力やダッシュ力を鍛えるのに、ウエイトリフティングが大事ってトレーナーさんに教わったんですけど、どうしても上手くいかないところがあるんです。お時間があるときに、教えていただいてもいいですか?」


 遠慮がちに、けれども真剣な眼差しで自分を見つめるアイドルのような女の子が、同時合宿中のなでしこジャパンの選手、それも「ワニちゃん」こと鰐淵亜美選手だというのはすぐにわかった。だが七笑はそれよりも、亜美がウエイトリフティングをトレーニングに取り入れようとしていることがとても嬉しかった。意外に知られていないが、トップアスリートでも筋トレ嫌い、バーベル嫌いはざらにいるからだ。ましてや彼女は、マスコミに取り上げられることも多い有名選手である。


 にもかかわらず亜美は真剣な顔で、一人のアスリートとして、見ず知らずの七笑に頭を下げてまで自分を高めようとしていた。


 この子、あたしとおんなじだ。


 おたがいに、そう感じたのだろう。二人はすぐに「七笑」、「ワニちゃん」と呼び合う仲になり、あっという間に連絡先も交換して二時間後には一緒に入浴までしていたのだった。その後も何度も、NASCでトレーニング時間が合えば夕食や入浴をともにする仲である。


 これだけでも、ウエイト選手になった甲斐があったかも。


 胸の内でつぶやいて、七笑は思わず笑いそうになった。あの鰐淵亜美と一緒にお風呂に入っているなんて知られたら、世の多くの男性から刺されるかもしれない。


 七笑のそんな様子には気づかず、亜美は無邪気に訊いてきた。


「ね、あとで時間あったら、またクリーンのキャッチのところを教えてもらっていい?」

「うん、もちろん。ていうか、今からでも大丈夫だよ。ちょうど一段落ついたところだし」

「ほんと? やった! ありがとう!」


 でもやっぱり、可愛いのよね。


 大きな瞳を輝かせる姿に、今度は本当に笑みがこぼれた。男子じゃなくても、このままデートに誘ってしまいたくなる。


「じゃあ前みたいに、ビデオを取りながらフォームチェックしよっか」

「うん、ありがとう。七笑に撮ってもらうと凄くわかりやすいの。さすが専門家だね」

「そこはほら、久保田先生直伝ですから」

「そっか。ワールドクラスの先生だもんね。いいなあ」

「なでしこの監督さんだって、世界的有名人じゃない。バロン・なんとかをもらってるんでしょう?」

「バロン・ドールね。まあ、あの人は現人神あらひとがみみたいなもんだから」


 キュートなルックスから「現人神」などという単語が出てきたのがおかしくて、七笑の顔がますますほころんだ。そういえば亜美は読書家としても知られており、文芸雑誌にコラムも連載しているんだとか。


「あ、そうだ。七笑もこれ、入れた? アリーさん」


 自身のもので撮影してもらおうと、持っていたデイパックから亜美がさっそくスマートフォンを取り出す。向けられた画面には、昨日司に教えてもらったスポーツ・セクレタリー、アリーを呼び出すためのアプリ、ALLがあった。


「ああ、AIの秘書さんでしょ」


 律儀に「さん」づけで呼ぶなんて亜美らしいと微笑んだ七笑だが、気がつけば自身もそうなっていた。アリーにはたしかに、そうさせるだけのリアリティがあったように感じる。ただ、同時にやる気のない記者の顔もふたたび思い出してしまったが。


「む……」

「どうしたの?」

「あ、ううん、ごめん。あたしはまだアプリ入れてないけど、とっても便利なんだよね?」


「うん。サッカー協会が代表選手用のIDを用意してくれてたから、さっそくそれで登録したんだ。でもこれ、ほんとに凄いよ。怪我の経歴とか、食べ物の好き嫌いなんかも登録しておくと、遠征や合宿の時のコンディショニングアドバイスまでしてもらえるんだって。本物の秘書さんか、マネージャーさんがついたみたい」 


 目を輝かせて語る亜美は、実際にアプリをタップして「こんにちは、アリーさん」と丁寧に話しかけた。


《こんにちは、亜美さん。昨日の朝食に関するアドバイスはどうでしたか?》


 司が見せたものと同じように、画面の中にシルエット型の女性が現れ、まるで生きているかのように小さく動いている。違うのは、司のアリーが七笑と似た感じのショートカットだったのに対し、亜美のものは大人びたロングヘアーということくらいだ。


「うん。ちゃんと今朝、タンパク質を多めに取りました。ありがとう」

《どういたしまして。なでしこジャパンは明日から国内合宿、再来月にはオランダ遠征が予定されています。オランダの食文化についても調べましょうか?》

「あ、そこまでは大丈夫です。ありがとうございます」

《いえ、こちらこそ。では明日からの合宿、頑張ってくださいね》


 やはり昨日と同じように、確実に微笑んでいると感じられる仕草と声音で挨拶すると、アリーは画面から消えていった。

 一連のやり取りに、やはり七笑は感心するしかない。


「ほんとにマネージャーさんみたいだね」

「うん。こうやってスケジュール管理もしてくれるの。七笑も使ってみれば? あ、でも七笑はあんまり、流行りものに踊らされない人だっけ?」

「ううん。これはたしかに便利だと思う。今日か明日にでも始めてみようって、あたしも思ってたんだ」

「アリーさん、日本語以外にも英語とかフランス語にも対応してるんだって。才色兼備だよねえ」


 あんたが言うか、とつっこんでやりたい気持ちで七笑が苦笑していると、亜美はふたたび世の多くの男性を魅了する笑顔を向けてきた。


「協会からマニュアルももらったから、もしわかんないことあったら連絡して。と言っても、あたしも専門家じゃないけど」

「ありがとう。一応、そっち方面の知り合いもいるから大丈夫だろうけど、何かあったら連絡するね」


 使い方がわからなかったら、司さんに聞いてみようかな。


 答えた七笑は、心の片隅で素直にそう考えた。


 あのおっさん、メールならいい人みたいだし。


 昨日の別れ際、「一応」と無造作に渡された名刺のアドレスにこちらも一応のつもりでメールを送って昼食のお礼を伝えると、夜のうちにすぐ返信が届いたのだ。

 そこには、


《鈴野七笑 様  こちらこそ本日はありがとうございました。あらためて調べさせていただいたところ、鈴野さんがいわき市出身ということを知りました。デリカシーのない発言をしてしまい、大変失礼いたしました。もしお気に触られたなら、心よりお詫び申し上げます。今後とも何卒よろしくお願いいたします。  マイナースポーツ・マガジン編集部 司健》


 と丁寧に記されていた。直接顔を合わせているときとのあまりの違いに、それこそ秘書か誰かが代筆しているのでは、と一瞬疑ったほどである。

 いずれにせよ、紳士的であるに越したことはない。彼の顔をもう一度思いだして軽く肩をすくめた七笑は、友人を元気にプラットフォームへと促した。


「じゃあ、始めよっか。アップは大丈夫?」

「うん! よろしく!」


 このときの七笑には、予想できるはずもなかった。

 翌日も亜美とNASCで、それもお見舞いという形で会うことになろうとは。

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