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七笑の心に、あらためて怒りが込み上げてきた。
「でも、いくら元アスリートだからって七十歳の人を突き飛ばすなんて。それに、久保田先生以外の方も被害に合ってるんですよね。本当に許せません!」
だがなぜか、司は意外な顔をしている。
「え? 久保田さん以外も?」
「ええ」
答えた七笑の方が、おや? となった。
「先生だけじゃなくて、元メダリストさんばかり狙った同じような事件が、先月から起きてるじゃないですか。まさか司さん、出版社の人なのに知らないんですか?」
「ああ、そういえばそんなニュース、テレビで見たな」
「…………」
大丈夫なの、このおっさん?
眉間にしわを寄せる七笑を見て、いつの間にか定食を食べ終わっていた司は不服そうに言い訳してきた。
「俺の専門は、パソコンやIT関連なんでね」
「いや、普通に一般ニュースとして、それこそパソコンでもスマホでも見れるじゃないですか」
「知らないものは知らないんだから、しょうがない。君に責められる筋合いはない」
タメ口になってきたばかりか、七笑のことも「君」呼ばわりである。ここまでの印象が良ければ距離が縮まったと喜んでもいいところだが、この男の場合はまったく逆だ。
「……開き直るところじゃないと思いますけど」
「いいだろ。なんにせよ久保田さんご本人から連絡を頂いて、こうしてすぐお見舞いに伺ったんだし」
やる気がないくせに、変なところで律儀だったりするらしい。よくわからない人だ。わざとらしくため息をついてみせた七笑だが、司は案の定、そんなものどこ吹く風である。
すると満足そうにセットのアイスコーヒーを飲み干した彼が、「ああ、そうだ。スマホといえば――」と、何かを思い出した表情になった。
「?」
「君も、アリーを使うのか?」
「は?」
めずらしく向こうから話を振られたことで、ぽかんとなってしまった。少しはやる気になってくれたのだろうか。
「アリー?」
「なんだ。そっちこそ、アスリートのくせに知らないのか?」
「む……」
前言撤回、という四字熟語が七笑の頭にぱっと浮ぶ。
上から目線の失礼なおっさんには、別にやる気を出してもらわなくても結構です。
心の中でつぶやきつつ、じろりと嫌そうな顔もしてみせる。
「ほっといてください。あたしは、スマホ依存症とかじゃないんで。機種だって古いままですし」
だが、司のリアクションは予想外のものだった。
「ああ、それはいい」
「え?」
なんと司は、大きく頷いて軽く笑みまで浮かべている。しかもそのまま、熱弁を振るい始めた。
「スマホ依存の症状は、薬物中毒と同等の状態という研究報告もある。道具はあくまでも道具だ。自分の用途に応じて、賢く使い分けることが大切なんだ」
「はあ」
「どうせメールと電話、ネットぐらいしか使わないくせに、十万円もする最新型をファッション感覚で二年ごとに買い換えるようなアホな真似はしなくて正解だよ。通信キャリアがやる〝実質0円〟なんていう謳い文句の、あこぎな分割払いのカモにされるだけだしな」
「あの……パソコン雑誌出身なのに、そんなこと言っちゃっていいんですか?」
「専門にしているからこそだ。電子機器はみんな、それなりの値段がする。だからこそ過剰な情報に踊らされず身の丈に合ったもの、目的に応じた商品をチョイスすることや、そのためのアドバイスが大切なんだ。君たちアスリートだってそうだろう? 自分の身体の状態や、目的に合ったトレーニングが大事なはずだ。みんなやってるからとか、格好いいからみたいな安易な理由でよくわからないもの、ときには身を滅ぼす恐れのあるものにまで手を出すから、人は痛い目を見るんだ」
じっとこちらを見つめる鋭い眼差しから、強い光が発せられている。初めて目を合わせたときに、七笑が感じたのと同じものだ。
視線を逸らさずに、司は続けた。
「いい例が、原発だろう」
「あ! はい」
その言葉を聞いた七笑の脳裏に、実家の風景が甦った。福島県いわき市。名産のいちごやトマトのビニールハウスが立ち並ぶのんびりした町並みは、今でこそ復興の道を着々と歩んでいるが、やはり東日本大震災当時は大きな被害を受けた。幸い鈴野家は家族全員が無事だったし原発事故の避難地域にもならなかったが、県外に引っ越していった同級生や知人も沢山いる。
胸の内に想いを馳せたのを、読み取ってくれたのだろうか。司の声が少しだけ、柔らかくなったように感じた。
「まあなんにせよ、自分に合った道具を見つけて、愛着を持つのはいいことだよ」
「どうも」
この人、ほんとはちょっと優しいのかな。
なんとなく上目遣いで司の顔を見つめると、わざとらしい咳払いとともに彼は自分のスマートフォンを取り出した。皮製の手帳型カバーを着けているのが、なんだか記者っぽい。
「それはさておき、彼女がアリーだ」
カバーを開いた司が、《ALL》とロゴが入った真っ赤なアイコンをタッチする。
と、一秒と経たないうちに、スーツを着た女性秘書のようなシルエットが画面一杯に現れた。顔の部分は背景色と一体化しているので、音楽プレイヤーか何かのお洒落な広告みたいにも見える。
「イージー・ヘヴン社が今日から提供している、AI搭載のスポーツ・セクレタリーだ。例えば、彼女に――」
スマホに顔を近づけた司が、話しかけた。
「アリー、ここのところ運動不足なんだが」
するとなんと、シルエットの女性が生きているかのように動き始めた。小さな手ぶりや軽く首を傾けたりする程度だが、逆にそれがやけにリアルに感じる。
同時に、涼やかな声も聞こえてきた。
《こんにちは、健さん。ご質問ありがとうございます。ここのところ、とのことですがスケジュールや登録情報から察するに、健さんは常に運動不足気味だと思われます。お仕事柄、生活習慣も不規則になりがちかもしれませんから、せめてご自宅でストレッチくらいはしてくださいね。やりやすい簡単なものを、いくつかご紹介させて頂きます。動画も合わせてご覧になりますか?》
「ああ。じゃあ、お願いするよ」
《かしこまりました。こちらになります》
女性の画像が小さくなり、画面の大部分にはストレッチのイラストや、動画へのリンクが次々に表示されていく。
《とりあえず、合わせて十個ほどのストレッチ・エクササイズをご紹介しておきます。ぜひ試してみてください。他にも何かございますか?》
「いや、大丈夫だ。助かったよ。ありがとう」
《どういたしまして。それでは、また》
微笑みながら軽く一礼したシルエットの女性は、穏やかな返事とともにふっと消えていった。
そう。口などないはずなのに、どう見ても彼女は微笑んでいた。そのことに七笑が気づいたのは、数秒後のことである。
「凄いですね、これ! セクレタリーって、秘書さんて意味ですよね?」
「ああ。スポーツ関係専門のね。俺の場合は記者という職業を登録してあるから、プロファイルに合わせてこういう内容を提示してくれたんだ。君たちトップアスリートならもっと細かく、公式試合のスケジュールや故障のリハビリ、コンディションづくりに関係したものを出してくれるはずだ。たしか強化指定選手には、専用IDも発行するとか言っていたぞ」
「へえ。あたしも使ってみようかな」
「無料のサービスだし、さっきも伝えたとおり本当に自分に合っているかどうかを、気軽に試してみればいいんじゃないか? そのうえで必要だと感じれば続ければいい。まあ女性は機械オンチも多いから、どこまで使いこなせるかはわからないが」
「あ、あたしは大丈夫です! ……多分」
自信なさげに付け加えつつ、ちょっと優しいかも、などと思ってしまったこともまた、七笑は心の中で撤回しておいた。いずれにせよ、ALLとかいうアプリはとても便利そうだ。
「ありがとうございます。教えてくださって」
それでも素直に礼を伝えると、司はまたしても変わった生き物を見るような目で、こちらを見つめていた。
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