「鈴野さん、昼食は?」

「い、いえ、これからです」


 いかにも社会人、という感じの男性と並んで歩き、しかも食事に誘われるなど初めての経験なので、七笑は思わず声が詰まりそうになった。


 司の方は慣れているというか、何も考えていない様子で「じゃあ、飯でも食べながらにしましょうか。奢りますよ。経費でですけど」と、最寄り駅に向かってのんびり隣を歩いていく。


 七笑はあらためて、彼の姿を盗み見た。

 やはり、肩が自分の頭くらいの位置にある。といっても司が特別大きいわけではなく、七笑が小さいだけの話だが。女子ウエイトリフティングにおいて最軽量の階級である四十九キロ級の選手は、多くが百五十センチ前後と小柄なのだ。いずれにせよ司は、日本人男性の平均くらいは間違いなくあるだろう。


 ルックスも、まあまあ……かな。


 最初にも思ったが、意志の強さを秘めていそうなきりっとした目が印象的だ。ショートヘアの黒髪は、ファッションではなく無造作に刈ったのが伸びてきただけという感じだが、うっすらと無精ひげを伸ばしたシャープな顔には、むしろ似合っている。ジャケットの袖をまくっているのがなんだか昭和という感じだが、すらっとした体躯だし、別に違和感があるほどでもない。


 ふーん。


 いつの間にか、堂々と観察してしまっていたらしい。立ち止まった司が、怪訝な顔でこちらを見下ろしてきた。


「? 何か?」

「あ、いえ、なんでもないです! ごめんなさい」


 あわてる七笑の様子に、めずらしい生き物を見るように小首を傾げた司だが、一つ肩をすくめると数メートル先を指差した。


「あそこでいいですか? 味は悪くないので」

「え? あ、はい」


 司が示したのは、それこそ昭和からやっていますという感じがする、「中華食堂」と呼ぶのがぴったりのさびれた店だった。


「…………」


 勝手に緊張していたのを少しだけ後悔しつつ、七笑も彼に続いて色あせた暖簾をくぐった。




「ええっと、何からお話すればいいでしょう?」


 彼に倣って日替わりランチを注文したあと、間を持たせるためにもと思い、七笑は自分から口を開いた。久保田からは「ちょっと話を聞かせてあげなさい」とざっくりした指示しか受けていないし、たしか司本人もインタビューを頼みたいときはあらためて、みたいに断ろうとしていたはずだ。


 ……しかもさっきは、仕方がないからとか言ってたし。そもそも女性を取材するのに、場末の中華食堂ってどうなのよ。


 見た目は小ざっぱりしているくせに、少なくとも自分に対してはやる気や積極性があまり感じられない目の前の記者を見ながら、七笑はさり気なく頬をふくらませた。


「ああ、別になんでもいいです。語りたいことがあれば、ご自由にどうぞ」

「は?」

「久保田さんにも伝えたけど、インタビューを頼みたいときは正式なルートでお願いしますんで。仮にも鈴野さんは、強化指定選手なんでしょう?」

「ええ、まあ一応」

「国を代表するアスリートとして我々の税金を使っているんだから、メディア対応もそれがオフィシャルなものかどうか、しっかり吟味した方がいいと思いますよ」


 悪気はないのかもしれないが、なんで逆にメディア対応のレクチャーを、しかも微妙に上から目線でされなければいけないのか。


「私はウエイト連盟の強化指定なんで、お金は全然もらってません!」


 威張ることではないが、思わず強い口調で七笑は言い返していた。

 世間では誤解されがちだが、強化費が支給されるのはあくまでもJOA=日本オリンピック協会が認定する「国の強化指定選手」である。当然ながらそのハードルは高く、メダルの可能性が高い個人種目、つまり体操や水泳、レスリングといった競技の選手が多い。マイナー競技のウエイトリフティングで、しかも国際大会ではまだなんの実績もない七笑は、あくまでもウエイト連盟が独自に認定しているだけの、言わばローカルな(?)強化指定選手なのだ。


 競技によってはそれでも強化費を支給してくれる連盟や協会はあるが、ただでさえお金のないウエイト連盟が、メダリストならともかく単なる代表候補の一人にそんなものを景気よくくれるわけがない。トップアスリート専用のトレーニング施設、NASCナスクこと『国立アスリート・サポートセンター』の使用許可など、ちょっとした便宜を図ってくれるだけでも、ありがたいと思わねばならないのが実状だった。


「え? お金のもらえない強化指定選手なんて、いるんですか?」


 やはり司も、そのあたりはよくわかっていないようだ。眉を上げて、不思議そうな顔をしている。


「います。目の前に」


 七笑は、ややむっとした顔で頷いてやった。


 ていうか仮にもスポーツ雑誌の記者なら、それぐらいは勉強しときなさいよ。


 だが司は、さらなる興味など欠片もない感じで、「へえ」と言ったきり質問を続けてこない。ここに至って七笑は、この男が本当にやる気のないことを確信した。


 ……なんなのよ、このおっさん。


 頭の中限定とはいえ、あっという間に「おっさん」呼ばわりへと格下げである。


「あんまり興味なさそうですね、ウエイトに」


 揃って日替わり定食が届いたので、箸を両手で挟んで「いただきます」と口にしながら、そう続けてやった。ついでにあたしにも、とも言ってやりたいところだが、なんだか自意識過剰みたいなので我慢する。


 同じように律儀に「いただきます」をしていた司は、付け合せのサラダにさっそく箸を伸ばしつつ、しれっと答えてのけた。


「まあぶっちゃけ、そうですね。というか、スポーツ全般に対してだけど」

「え」

「もともと俺は、パソコン雑誌の編集部にいたんで」

「パソコン雑誌?」


 意外な言葉が出てきて、七笑は中華スープのレンゲを持ったまま訊き返した。やる気のないことを表すように、一人称も「俺」になっているが、とりあえずはこれも流しておく。


「『ITモード』っていう雑誌です。出版不況の時代ですけど、ビジネスマンの間ではまだそこそこ売れてます……つっても、わからないか」


 またしても、さり気ない上から目線。七笑は乱暴にスープをすすることで、「悪かったですね」というひとことをなんとか飲み込んだ。


「それが社長の鶴の一声というやつで、いきなりマイスポに異動です。意味がわからない」


 マイスポとは、彼の語っていたマイナースポーツ・マガジンという新媒体のことだろう。それにしてもパソコン雑誌からスポーツメディア、それもマイナー競技専門とは、畑違いもいいところである。


 しかも社長命令?


 会社で何かやらかしたのか、それともよっぽど優秀なのか。だがこのちょっと、いや、かなり失礼な男が、優秀な記者だとは思いたくないところだ。


 悔しいけれどたしかに味は悪くない酢豚をつつきながら、もう一度彼の顔を見つめた七笑はあることを思い出した。


「あれ? じゃあなんで、久保田先生と知り合いなんですか?」

「ああ、ふぉれふぁ――」


 ご飯を口に入れながら、喋るな。


 顔をしかめる七笑の眼前で、美味しそうに白米を飲み込んだ司は、これまた意外な単語を口にした。


「『ザ・マター』繋がりです」

「えっ!? 久保田先生もザ・マター、やってたんですか?」


 ザ・マターとは、百五十字程度の短文を「ひとりごと」としてタイムライン形式で投稿できるSNSである。ひとりごとという呼ばれ方をしているが、それに対する返信や引用、相手と直接やり取りできるダイレクトメッセージといった機能も備えており、各国首脳や芸能人、有名スポーツ選手なども含めて世界中で愛用されている。


 たしかに久保田はあの世代にしてはIT機器を使える方で、スマホやタブレットも「慣れると便利だなあ」と言いながら喜んで使ってはいる。だが、ザ・マターまでやっていたとは。


「ITモード誌の公式アカウントを俺が担当していたんだけど、そこに初めてのタブレット選びについて、丁寧な質問をくださったんですよ。それがきっかけで、直接やり取りするようになって」

「へえ」


 そういえばいつだったか、久保田がタブレットを使っていることに部員みんなで意外な顔をしたとき、「型落ちのを安く買ったんだ。ネットにメール、あとはおまえたちのフォームをビデオでチェックするのがメインだから、これで十分役に立ってくれるぞ」とかなんとか、嬉しそうに語っていた。そこには司のアドバイスがあったということらしい。御年七十歳にもなるのに好奇心を失わず、常に現場で選手とともにあろうとしてくれる久保田のこうした姿勢は、七笑たちウエイトリフティング部だけでなく、帝都女子体大の生徒たち皆から尊敬されている。


 そんな恩師が二日前、卑劣な暴漢に怪我を負わされてしまったのだ。

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