「ちょ……!」


 目をむく七笑にかまわず、司は淡々と説明を続ける。


「めちゃくちゃ有名ですよ。コンドームの国内シェアでは断トツのナンバーワンです。たしか、一部上場もしてるんじゃなかったかな。コンドーム以外にも使い捨てカイロとか、人工皮革も生産しているそうですが、やはりコンドームが代名詞です」

「…………」


 穴があったら入りたい、とはこのことだ。天真爛漫な七笑は大きな試合でもあまり緊張などしないタイプだが、さすがに今は恥ずかしかった。いや、恥ずかしがっている時点で、せっかく採用してくれた会社に対して失礼なのは重々承知しているが……。


 ……だからって女性の前で、それもわざとみたいに連呼しなくてもいいじゃない。


 赤い顔のままさり気なく司をにらんでいると、師匠が明るく笑ってくれた。


「へえ、そんなに大きな会社なのか。いいじゃないか。それにしてもコンドームの会社とは、なんというか七笑らしいなあ。はっはっは」


 一歩間違えばセクハラ発言のような気もするが、お陰で七笑は逆に落ち着くことができた。ひょっとしたら久保田の方も、狙ってそうしてくれたのかもしれない。ウエイトリフティングコーチは試合中もセコンドとして選手を支えるので、相手の表情や空気を読むことに長けている。ましてやこの人は、指導者としても世界中で知られる人なのだ。


「ありがとうございます。さっきもお伝えしたとおり、社長さんがウエイトのことをよくご存知の方だったんです」


 昨日、都内にあるタカモトゴムの本社を訪問したときのことを思い出しながら、七笑も微笑んだ。マガジン・スタンダード社をはじめ、いわゆる実業団選手としてアスリートを雇用している企業にいくつもメールや書類を送ったものの、不景気な時世もあって見事に全滅していたとき、


《鈴野七笑 様  弊社への所属契約のお問い合わせ、誠にありがとうございます。履歴書、競技実績等を拝見した結果、担当者が面接をさせていただきたく存じます。ご足労をおかけして恐縮ですが、東京本社までお越し願えますでしょうか。下記より、ご都合のよろしい日程を――》


 という返信を唯一くれたのが、タカモトゴムなのだった。



 

 勇んで面接へと赴いた七笑は、指定された会議室に入って驚いた。秘書らしき女性とともに出迎えてくれた《担当者》というのが、なんとタカモトゴムの二代目社長、高本英二たかもとえいじ氏自身だったからだ。


 だが高本社長は、五十代の気さくなおじさまだった。


「おお、本物の鈴野七笑選手だ! お会いできて嬉しいなあ。去年のレディースカップも、ネットで拝見しましたよ。優勝おめでとうございました」

「!? あ、ありがとうございます」


 レディースカップ、という大会名が出てくる時点で、ウエイトリフティングファンだということがわかる。しかも、七笑のこともよく知っているようだ。


「鈴野さんも、高校からウエイトを始められたんですよね。夏の全国女子選手権でいきなり二位デビューされたときは、二年生でしたっけ? これは期待できそうな子が出てきたなあ、って思いましたよ」

「ありがとうございます!」


 本当に詳しい。もちろん事前にプロファイルや自己アピール書類は送ってあるが、手元のそんなものには目も向けずにこにこと話を振ってくるので、七笑もすぐに「ありがとうございます」以外の言葉を発することができた。


「あの、高本社長もひょっとして、ウエイトのご経験が?」

「ええ。じつは私も、高校のときにやってたんですよ。大した選手じゃなかったので、大学で続けるまではしなかったんですけどね。これでも都大会出場選手です。といってもご存知のとおり、競技人口が少ないから最初から都大会ですけど。はは」

「そうだったんですね」


 ますますリラックスできた七笑は、気がつけば明るく続けていた。


「でも素敵だと思います。あの、こんなこと言ったら失礼かもしれませんけど、野球やサッカーじゃなくてウエイトを選ぶ男子って、なんていうか、面白いけど根は真面目っていう方が多いように感じます。マイナー競技だし、自分一人でバーベルを持ち上げるだけのスポーツだけど、だからこそ努力することを真剣に楽しんでる、みたいな」

「ありがとうございます。日本を代表する選手にそう言っていただけて、光栄だなあ。まあ私の場合はもっと不純な、というか子どもっぽい動機で始めたんですけどね」

「?」


 きょとんとする七笑を見て、高本社長は面白そうに続けたものである。


「だって私は、生まれたときからコンドーム会社の息子でしたから」


 その言葉で、なんとなくわかった。ウエイトリフティング経験者同士の、以心伝心みたいなものだったのだろうか。


「中学生くらいになると、コンドームっていうものがなんなのか、みんな知りますよね。で、案の定、私は家業のことをとても恥ずかしく思っていました。当然、それをからかうような同級生もいてね。まだ昭和の時代ですから、学校でのいじめやハラスメントも、今ほど厳しく取り締まってくれなかったですし」

「ああ、はい」

「でも気弱な私は、それに対して何もできなかった。ゴム男とか、コンドー君とか言われるのを、作り笑いで受け止めることしかできなかったんです。本当はすごく悔しくて、腹が立っていたのに。おかしいですよね。自身も恥ずかしがっていたくせに、でもどこかで製品へのプライドのようなものも持っていた。父親の仕事を馬鹿にされたってだけじゃなくて、タカモトゴムのコンドームをネタにされること自体に対しても、憤っていたんです」


 穏やかに微笑みながら、でもはっきりと語り続ける高本社長の顔を、何よりもその眼差しを七笑は知っている気がした。そうして、すぐに思い至った。


 ああ、試技するときの顔だ。


 ウエイト選手がプラットフォームと呼ばれる試技台に乗って、バーベルに手をかけたときの顔。そこに立つまでに自分がやってきたことを信じて、目の前の何かを越えようとする真剣な目。


「それでね、高校に入ったら強くなろうと思ったんです。もう愛想笑いでごまかすのはやめよう。大切なものを馬鹿にされたら、それを守れるような人間になろうって」


 七笑は無意識のうちに何度も頷きながら、この穏やかなおじさまの話に引き込まれていた。


「で、強くなるには筋トレだ! ボディビルだ! じゃあ、バーベルを持ち上げる部活に入ろう! って、何も考えずにウエイト部に入部したんです」

「え?」

「はは、そうなんですよ。私は最初、ボディビルと間違えて、ウエイトリフティングを始めたんです。気がついたのは、入部して一週間ぐらい経ってからだったかなあ。でも今さら、勘違いしてましたって辞めるわけにもいかなくてね。それにその時点で、クリーンやスナッチが上手くできたときの、あのバーベルがスッと上がってくる感じに快感を覚えるようになっていて」

「あ、わかります! バーベルに意志があるみたいに、スッときてくれますよね!」

「そうそう。しかも二ヶ月、三ヶ月と続けてたらボディビルほどではないにせよ、当初の目的どおり身体も大きくなるわけじゃないですか。で、そこからはすっかりウエイトのとりこです」

「へえ」


 素敵な話だと、七笑は心から思った。自分もこの競技をやっていて良かった、とも。


「バーベルにひたすら向き合ったお陰か、いつの間にか家業についても恥ずかしがらずに、堂々と向き合うことができるようになりまして。で、工業系の大学に進んでそのままここに就職、親父が亡くなったのに合わせて、ちゃっかり二代目の椅子に収まったというわけです」

「良かったですね。……って、す、すみません!」

「いえいえ、ありがとうございます。私自身、ウエイトリフティングというスポーツに、本当に救われたと思っていますから。むしろ、こちらこそすみません。鈴野さんの面接なのに、私の自分語りになってしまいましたね」


 もう一度にっこり笑った高本社長は、「というわけで、鈴野七笑さん」と言って、その場で宣言してくれた。


「採用です。あなたを弊社の社員としてお迎えします。もちろん、勤務形態は競技優先で構いません。その代わりといってはなんですが、他の実業団選手同様、弊社の広告活動や企業イメージアップにぜひお力添えください」

「はい! ありがとうございます!」


 七笑は思わず、試技が成功したときのようにガッツポーズを取ってしまっていた。もう一度、「本当にありがとうございます!」と頭を下げると、高本社長はさらに付け加えてくれた。


「それと会社のことをスポンサーのように考えて、必要以上に顔色を覗う必要はありませんからね。ウエイトリフティングもコンドームも、もっともっと世間で大っぴらに扱ってもらえるようになりたい、という点では共通しています。だから我々は、あなたを採用するんです。社長が元選手だからって、義理とか道楽で採用するわけじゃありません。あなたを仲間に加えることによってタカモトゴムのビジネスが加速する、広告面において立派な戦力を手に入れることができると、考えているからこそです。弊社の一員として、お世辞抜きに期待していますよ」


 そうして差し出された手を、七笑はしっかりと両手で押し戴いた。見ると、ずっと何も言わず傍らに控えていた秘書の女性も、にっこりと微笑んでくれている。本当にいい会社にめぐり合えたと、目が潤んできたほどだ。


「あ、ところで」


 最後に高本社長は、先ほどまでとはちょっと違う、いたずらっぽい笑みを浮かべた。


「はい?」

「送ってくださったエントリーシートですが、志望動機のところの最初の一文は、削除しておきますね」

「?」

「貴社製品にはユーザーとしていつもお世話になり、というくだりです」

「! あ、あのっ! それは、その、間違えてというか、いろんな企業さんに落っこちながら無我夢中で書いていたもので……! そんな経験、ほんとは一度もないんです! すみません!」


 真赤になった七笑は、ある意味失礼な言い訳をしてしまったのだった。




 二十時間ほど前の出来事を思い出して、七笑がふたたび頬を染めていると、病室に看護師さんがやってきた。ふくよかなおばさんで、見るからに「師長さん」といった感じの人だ。


「久保田さーん。MRIの空きが出たそうだから、今のうちに検査しちゃいましょうか?」

「お、そいつは良かった。じゃあ、お願いします」

「あら、教え子さん? こんにちは。ちょっと膝の検査をしたいんですけど、よろしいですか?」

「あ、はい」

「もちろんです。では久保田さん、僕はこれで。何かあれば、いつものようにお気軽に連絡してください」


 七笑と司もすぐにそう答え、揃って病室を辞去しようとしたが、ベッドから念を押すような声が届いた。


「七笑、きちんと司君の取材を受けてあげなさい。司君も遠慮せず、ウエイトの下調べだと思って三十分だけでも話を聞いてやってくれ。なんせ、ただでさえ友達がいない子なんでね。はっはっは」

「先生! そんなことありません!」


 とはいえ、師匠の指示を無視するわけにもいかない。ちらりと見ると、司も同じように思ったようで、軽く肩をすくめている。


「仕方ありませんね。では、どこかで少しだけ話を聞かせてください」

「はあ」


 仕方ない、というひとことが気にはなったものの、かくして七笑は初対面の雑誌記者と連れ立って病院をあとにすることとなった。

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