第一章 司健
1
【狙われる〝レジェンド〟たち?】
昨夜九時頃、都内の路上で
同様の犯罪は先月も起きており、一九八八年ソウル五輪の男子体操金メダリスト、
【イージー・ヘヴン、スポーツ支援事業を開始】
通信サービス大手のイージー・ヘヴン社は昨日、新たなコンテンツとしてスポーツ科学情報サービス、All Life Lighthouse for You、通称『ALLY(アリー)』を提供すると発表した。『アリー』 は最新の学習型AIと、擬似人格Ally Laurence(アリー・ローレンス)を搭載したプログラムで、専用アプリ『ALL(エイ・エル・エル)』からの音声・キーワード入力に応じて、インターネット上から該当するスポーツ傷害や、それらに対するリハビリプログラムを自動的に提示してくれる。また、JOA(日本オリンピック協会)と提携し、強化指定レベルのトップアスリートには専用のIDを配布、該当ユーザーには、より高度で専門的なコンディショニングプログラムも提案されるという。
◆◆◆
都内の大学病院。
病室のドアをノックすると、すぐに返事があった。
「はいはい、どうぞー」
「失礼します、久保田先生」
元気な様子にほっとしながら、
「おお、七笑か! わざわざ来てくれたのか? すまんなあ」
「いえ、大学からもそんなに遠くないですから。ご無事で本当に良かったです」
ショートカットが似合う小さな頭を軽く振って、七笑はにっこりと笑った。
本人の言葉どおり、二日前に暴漢に襲われたという恩師、久保田昇はタブレット端末を手にベッドの上でピンピンしていた。ベッド脇には自分と同じく見舞い客らしい男性が一人立っており、ちょうどその人と話し中だったようだ。もともと七十歳には見えないほど若々しい人だし、報道にもあったように左脚を怪我しただけ、それも軽く膝を打った程度で済んだとメールで本人も言っていたが、なんにせよ無事だったことが本当に嬉しい。
「こんにちは」
男性にも笑顔で頭を下げてから、七笑は持っていた紙袋を久保田に手渡した。
「先生。これ、お見舞いです」
「なんだ、気を遣わなくていいぞ。見てのとおり、全然元気だし」
そう言いながらも、久保田は素直に受け取ってくれる。
「お、チョコレートか! ありがとう、ありがとう。ちゃんと俺の好物をわかっているとは、さすがだなあ」
「あはは。二月十四日ですしね」
子どものように喜ぶ師匠の姿に、七笑は思わず笑ってしまった。知らない人には「坊主頭の、ちょっと体格のいいおじいちゃん」にしか見えないこの人が、かつてのオリンピックメダリストにして世界的コーチ、そのうえ体育学の分野でも名前を知られる、まさに〝レジェンド〟と呼ぶべき存在だとは、実際にウエイトリフティングの指導を受ける七笑自身も、たまに信じられなくなるくらいだ。過去の栄光や肩書きをひけらかすような真似を決してせず、「バーベルを持ち上げるのが、人よりちょっと上手かっただけだからなあ」と恥ずかしそうに笑う久保田のことを、七笑も心から尊敬している。
「なんか、MRIの予約が立て込んでるとかでな。午前中は検査できなかったし、どうせだから安全確保も兼ねて、二、三日入院していけって警察に言われちまったんだ」
「そうだったんですね」
久保田に答えつつ、七笑はベッド脇で立ったままの男性にあらためて会釈した。年齢は三十歳前後だろう。細身の身体にラフなジャケット姿が、なかなか似合っている。百五十センチぴったりの自分と比べて頭一つぶんほど背が高い感じなので、身長は百七十ちょっとといったところか。ただ、久保田の教え子だとすれば、ウエイトリフターどころかアスリートっぽさがまるで感じられない。
七笑の視線を察して、久保田がすぐに彼を紹介してくれた。
「こちらは、マガジン・スタンダード社の
「ワイファイですね」
「そうそう。それの繋ぎ方を、教えてもらってたんだ」
男性と久保田が、おかしそうに頷き合う。つまり教え子ではなく、年の離れた友人ということらしい。
顔に笑みを残したまま、司という男が七笑の方に向き直った。
「どうも。司です」
「あ、えっと、帝都女子体大ウエイトリフティング部の、鈴野七笑です」
彼の視線が思った以上に鋭かったので、七笑はちょっとだけ驚いた。目力が強い、とでも言えばいいだろうか。
出版社の人だからかな。
マガジン・スタンダード社は、七笑でも名前を知っている大手出版社だ。出版不況と呼ばれて久しいこのご時世でも、ウェブ媒体などに切り替えながらスポーツや音楽、パソコンなど様々なジャンルの専門誌・専門サイトを手がけている。じつは先日、そこの人事部からメールをもらったばかりでもあった。
「そうだ、七笑。折角だから、司君にちょっと話を聞かせてあげなさい」
「え?」
「大丈夫ですよ、久保田さん。インタビューをお願いしたいときは正式に――」
問い返した七笑とともに司も手を振るが、久保田はマイペースで続ける。
「司君は今度オープンする、マイカースポーツ・マガジンの記者さんなんだ。ネット限定だけど、我々ウエイトのことも取り上げてくれる貴重な媒体さんだぞ」
「マイカースポーツ・マガジン?」
「いえ、『マイナースポーツ・マガジン』です」
「ああ」
司の訂正を聞いて、七笑もすぐに納得した。そのままのネーミングだが、つまりはウエイトリフティングも含む、マイナー競技専門のウェブ雑誌ということだろう。
……でもそんなサイト、閲覧者がいるのかしら?
心の中で自嘲してしまったとおり、「ウエイト」ことウエイトリフティングはマイナースポーツの代表格と言ってもいい存在だ。誰もが名前は知っているものの、体験はもちろん観戦することもないまま、一生を終える人だって少なくないだろう。目の前の師匠をはじめ、オリンピックメダリストを何人も輩出している競技にもかかわらずである。
まあ、自分から何十キロものバーベルを持ち上げようなんて人、特に女子にはいないもんね。
かく言う七笑も高校のときに体操部からスカウトされて、ウエイトリフターになった口だ。だが、たまたま才能のようなものがあったらしく、競技人口の少なさも相まってなんと始めてから一年も経たずに、全国大会で表彰台に上ることができた。そのお陰で帝都女子体育大にもスポーツ推薦で入学、名コーチとして知られる久保田教授の指導を受けてさらに記録を伸ばし、あれよあれよという間に今やウエイトリフティング連盟の強化指定選手である。数ヵ月後に迫った東京オリンピックの有力代表候補の一人が、何を隠そう彼女なのだった。
そんな愛弟子を見て、久保田は目を細めている。
「この子は、まだまだ伸びしろがあるんだ。オリンピック本番だって、上手くいけばメダルを狙える可能性を秘めてるんだよ」
「へえ。それは凄いですね」
目を丸くする司を見て、今度は七笑が両手を振る羽目になった。
「せ、先生! よしてください! そもそも代表選考会だって、まだなんですから」
オリンピック代表選考会を兼ねた今年の全日本選手権は、五月の終わりに開催される予定となっている。本来は《国際ウエイトリフティング連盟が指定する大規模大会に複数回出場し、かつ世界ランキング十位以内》といった条件を満たせば代表になれたのだが、なんと七笑の所属階級である四十九キロ級には、該当選手が三名も出てしまい、
「ならば水泳を見習って、候補選手が被っている階級は全日本選手権の一発勝負で」
と、日本連盟が決定したのである。
そして今日は二月十四日。文字通りの人生を賭けた大一番となるその全日本選手権まで、あと三ヶ月ほどだ。もちろん七笑もしっかり練習に励んでいるが、ライバルたちの実力だって侮れない。師匠が褒めてくれるのは嬉しいけれど、決して油断できるような状況ではなかった。
「ところで、七笑。おまえさん、進路は決まったのか?」
「あ、そうだ! 今日は、それもお伝えしようと思ってたんです」
師匠の言葉で、七笑は軽く手を叩いた。大学卒業を控えた身なので、選手生活を続けるための所属企業を、ここのところずっと探していたのだ。
「お陰様で決まりました!」
「おお、そいつは良かった! おめでとう。で、どこの企業だ? やっぱりアーバン・ソックスか?」
「いえ」
「じゃあ、リンゴ証券か? まさか、七笑が警視庁ってことはないだろう?」
「ええっと、ですね」
にこにこと自分のことのように嬉しそうな師匠を前にして、だが七笑は困ってしまった。
「あの、あんまりご存知ないかもしれないですけど……」
少しだけ顔が熱い。ちらっと視線をずらすと、司と目が合った。
ああ、もう。なんでこんなときに、お客さんが来てるのよ!
仕方がない、と意を決して軽く息を吸い込む。まるで公式戦で試技をするときみたいだ、と場違いなことを考えながら、できるだけ冷静な口調で会社名を告げた。
「『タカモトゴム』っていう会社です」
「タカモトゴム?」
「はい。その、なんていうか、いわゆるゴム製品を取り扱ってる会社で、社長さんも高校のときにウエイトをやってたそうです。それで、私のことも知っててくださって」
「そうかそうか、良かったじゃないか。タカモトゴム、か。でも聞いたことないなあ。ウエイト以外の選手は、所属してないんだろう?」
「はい」
「じゃあアーバン・ソックスみたいに、スポーツ選手の雇用に力を入れてる企業さんってわけじゃないんだな。めずらしいなあ」
「そ、そうですね」
七笑はさり気なく、頬に手を当てた。頬どころか顔全体が熱い気がするし、早くこの話題を切り上げたい。
が。
「司君、知ってるかい?」
「ええ」
何気なく話を振られた目の前の男、それも七笑の就職活動をあっさりと断った出版社の記者が、これまた何気なく答えてしまった。
「コンドームの会社ですね」
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