第九話 三人だけの遠足

 チサトちゃんと、ミホ。二人がいる毎日は楽しかった。何があったかなんて覚えていられないような毎日だけど、楽しかった。そうこうしているうちに、五月の末になった。

 チサトちゃんは、黒板の前、ヒナミの目の前に立つ。

 四月以降、一度席替えをしたけれど、ヒナミは一番前の席。それは変わらない。

「じゃあ、遠足の班を決めたいと思います。」

 チサトちゃんは黒板に班の数だけ四角を書く。

 ヒナミは机の上に置いた遠足のしおりに目を落とす。学校集合で、貸し切りバスに乗って松山駅へいく。そこから、列車に乗って、下灘駅へ。漁港を見学させてもらうという行程が載っている。

 下灘駅。目の前がすぐ海になっている駅だ。とても景色が綺麗で、この前もテレビの旅行番組で紹介されていた。ヒナミも昔、連れていってもらったことがある。

「高浜さん、聞いていますか。」

 顔を上げると、チサトちゃんはニコリと笑った。委員長モードのチサトちゃんは恐ろしい。

「……すんません。」

 ヒナミは小さく頭を下げた。


 午前中、最後の授業は家庭科だった。

 家庭科室のホワイトボードには、スクランブルエッグの作り方が書かれている、のだけれど、ヒナミに関してはそんなのいらない。

 調理台に片手をついて体を支えて、もう片方の手だけで卵を割った。ボウルの中に、黄身と白身が落ちて、波打つ。殻は混ざっていない。成功だ。

「高浜さん、すごいね。」

 同じ班の人たちから、歓声が上がる。ヒナミは卵の殻を三角コーナーに投げ込んで、ブイサインをした。

 次に牛乳を入れる。一人どれだけ、と決められた量があるのだけど、ヒナミはこっそり多めに入れた。


 調理実習で作ったものは、給食と一緒に食べることになった。

 普段は、給食は班ごとに食べるのだけれど、今日は好きな席順でいいと、立花先生はいった。

 ヒナミの周りには、チサトちゃんとミホが来た。

「一緒に食べようよ。」

 ミホのスクランブルエッグは、どこかのホテルから持ってきたんじゃないかってくらいの見た目だ。

「ミホって、料理上手だったんだ。」

 ヒナミはつぶやいた。

「父子家庭だからね。」

 ミホはさらりといった。

「ヒナミさん、私も。」

 一方で、チサトちゃんのお皿に乗っていたスクランブルエッグはというと、卵そぼろモドキだった。チサトちゃん、料理苦手だったんだ。

 二人のスクランブルエッグを味見させてもらった。

 ミホのは、うん。素直にすごい。で、チサトちゃんのはというと、なんだろう、硬い物が入ってる。これ、卵の殻かな。歯に挟まった。

「遠足、楽しみですね。」

 チサトちゃんはいった。

「うん。チサトって海が好きで引っ越してきたんだっけ。」

 ミホは自分が焼いた卵を食べながらいった。

「ひゃあ、ひほなははひひほ。」

 ヒナミは歯の隙間に挟まった卵の殻を指で外しながらいった。

「なにをいいました?」

 チサトちゃんが首をかしげる。

 よし、外れた。ヒナミは口から指を抜き、ハンカチで拭く。

「じゃあ、下灘はいいよ。」

 そして、さっきいったことをもう一度いった。

「ヒナミ、いったことあんの?」

 ミホの言葉にヒナミはうなずく。

「昔、お父さんに連れていってもらった。すぐ目の前が海で、うん、とってもいいところだった。」

 チサトちゃんは目を輝かせて身をのりだす。

「私、いきたいです。」

 うん。楽しみだね。


 で、当日。

『今日は四国全域で、大雨となりそうです。』

 テレビの天気予報を見なくてもわかる。表は雨が降っている。

 ヒナミはリビングでソファーに座り、悩んでいた。むかいのソファーの上には、リュックサックとランドセル。どちらを背負って学校へいくべきか。

 そのとき、電話が鳴った。すかさず、ソファーの上から手を伸ばし受話器を掴む。

「はい、高浜です。」

『ヒナミさん、よかった。まだ家ですね。』

 電話のむこうから聞こえてきたのは、立花先生の声だった。この声を聞きたかった。ひと安心だ。

『今日ですね、この雨で列車が運休になってしまって、遠足は中止です。普通の授業の教科書を持って、学校に来てください。』

「はい、わかりました。」

 受話器を置いた。

 床を這って、むかいのソファーまで移動すると、ランドセルを背負った。

『この雨ですが、土曜日まで降りつづけます。その後、日曜日、月曜日はよく晴れるんですが、火曜日から、天気は再び下り坂となるでしょう。』

 天気予報は、そんなことをいっていた。


 ヒナミはカッパを着て登校した。

 やっぱり、チサトちゃんは先に来ていた。いつも通り、教室で本を読んでいる。今日は星に関する本だ。カバーをかけていない。

「あ、ヒナミさん。今日は残念ですね。」

 チサトちゃんは本を閉じて、窓の外を見る。ヒナミも同じように窓を見る。激しく雨粒が吹き付ける。

「うん。そだね。」

 ヒナミは自分の席に着く。

「さっき、先生がいっていました。予備日も雨みたいですね。延期じゃなくて、中止にするそうです。」

 チサトちゃんは悲しそうだ。なにか、ヒナミにできることはないのかな。ぼんやりと、そんなことを考えていた。

「ねえ、私たちでいかない?」

 これしかないって気がする。うん。

「私たちで、ですか?」

「うん。」

 ヒナミは大きくうなずく。

「朝の天気予報で見たけど、日曜日は晴れるみたいだよ。いこうよ。ミホも誘って。」

 チサトちゃんははじめ、驚きの表情を浮かべたが、すぐに笑顔になる。よかった。チサトちゃんの笑顔が見られた。

「いきたいです。私、いきたいです!」

 チサトちゃんは、立ち上がり、大きな声でいった。


 そして迎えた日曜日。

 ヒナミは地元の駅にやって来た。

 格好は、カッターシャツにジーパン。背負っているリュックサックには、水と、おやつと、万が一、財布を無くしてしまったときのためのお金が入っている。お母さんが、おこずかいとは別に持たせてくれた。

 待ち合わせの時間まであと三十分。はやすぎたかな。

「ヒーナミっ。」

 走って来たのは、ミホだった。

「あ、おはよう。」

 ヒナミは短く返した。

「チサトはまだ。」

 ミホの問いに、ヒナミはうなずく。

 踏切が鳴りはじめる。

「ねえ、ヒナミ。」

 ミホは大声でいった。

「なに。」

 ヒナミも、大声でかえす。

「チサトってさ。」

「うん。」

 そのとき、駅に電車が到着した。

「チサトってさ、何か隠し事してるのかな。私たちに。」

 ミホは、小さな声でいった。

「どうして、そう思うの。」

「なんていうか、時々、そんな気がするんだ。上手くいえないんだけど、時々怖い怖いっていって、震えてるんだ。二年前、転校してきたときから。でも、理由を訊いても、なんかあいまいというか、よくわからないっていうか。」

「前のカラスのときとか。」

「うん。チサトって。何か隠してるのかなって、ふと思って。」

 ミホの言葉を聞きながら、ヒナミは思いだした。

 チサトちゃん、近いうちに転校しちゃうかもしれないんだっけ

 ヒナミは、細く、長く、息を吐く。このことは、チサトちゃんから、秘密にしてほしいといわれた。だから、ミホにもいうわけにはいかない。ヒナミはのどまでこみあげてきた言葉を飲み込んだ。

「考えすぎでしょ。」

 ヒナミはそれだけいった。

 噂をすれば影が立つ。むこうから歩いて来るチサトちゃんが見えた。


 地元の駅から私鉄に乗って、六個先の駅で降りる。そこからは路面電車だ。

 路面電車は、二種類の車両が走っている。床が高くて、入り口に段差がある車両と、床が低い車両だ。

 やって来たのは床が高い車両だ。

「ヒナミ、いいかな。」

 ミホが尋ねる。短い言葉だけど、いいたいことはわかる。

「うん。お願い。」

 ヒナミは笑顔でいった。

 ドアが開くと、ミホはヒナミを後ろから抱き上げ、電車に乗った。

「ありがと。」

 車内でおろしてもらうと、ヒナミはミホの目を見ながらお礼をいった。

「うん。」

 ミホは一度、大きくうなずいた。


 路面電車に乗って、二つ先の停留所で降りる。そのときも、ミホが手伝ってくれた。

 停留所の目の前、白く、古風な駅舎がある。JRの松山駅だ。堂々と掲げられた看板には『松山驛』と書かれている。実は『驛』の字が最近まで読めなかったのは、ヒナミだけの秘密だ。

「あれってさ、なんて読むのかな?」

 ミホがいった。

「えき、だよ。」

 ヒナミは答えた。チサトちゃんは口元を手で隠して笑っていた。

 切符を買って、改札を通る。すると、正面には駅弁売り場がある。

「お昼ごはん、買っていきましょう。」

 チサトちゃんは足早に駅弁売り場を目指す。

 ヒナミはミホと顔を見合わせる。

「いこっか。」

「うん。」

 ミホがいって、ヒナミがうなずいた。


 それぞれに昼ご飯を調達してホームへいくと、ちょうどお目当ての列車が到着した。白地に水色のライン。普通列車の宇和島いき。間違いない。

「バスみたいですね。」

 チサトちゃんは列車を見つめる。

「あれ、チサトちゃんはじめて。」

 ヒナミは尋ねた。二年この街で暮らしていれば、乗ったことはなくても、一度くらい車両を見る機会はありそうなものだけど。

「はい、今までほとんどお出かけしてきませんでしたし、出かけるときは叔父が車を出してくださることが多かったので。」

 ヒナミは二、三度うなずいた。そんなものかもしれない。この辺りの有名な観光地の一つに、道後温泉があるけれど、ヒナミは入ったことがない。地元といえども、案外そんなものなんだろう。

三人は順々に列車に乗り込んだ。


 ゆっくりと滑り出した列車は土手の上を走る。心地よいスピード感と緩やかな揺れ。ヒナミたちは、窓に背中をむける座席に座る。並び順は、チサトちゃん、ヒナミ、ミホの順だ。

「なんだか、眠くなっちゃいますね。」

 チサトちゃんは大きなあくびをした。

「到着まで一時間くらいだっけ。寝てたら?」

 ミホがいったが、チサトちゃんは首を左右に振り、目をこする。

「なんか、寝ちゃったらもったいないかな。」

 そうだ。ヒナミは思いだした。膝に乗せていたリュックサックのポケットを開く。そこに入れていたのは、おやつの箱だ。筒状にしたクッキー生地に、チョコレートを流し込んだお菓子。ヒナミのお気に入りだ。みんなで食べたくて買ってきた。

「食べる。」

 ヒナミは箱を開け、中の袋も開け、お菓子を取り出す。

「食べます。」

「うん、もらう。」

 チサトちゃんとミホがそれぞれ、お菓子を口に放り込む。

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