第八話 ある日の些細な出来事

 勢いよく飛んできたボールを、体操服姿のミホは軽々ととらえ、すかさず投げ返す。

「すごいね。」

 ヒナミは校庭の隅、大きな木の影に座り、ドッジボールをするクラスメートたちを見ていた。体育の授業だ。

「ミホはずっとあんな感じですね。私が転校してきたときから。」

 ヒナミの横にいるのは、チサトちゃんだ。

「学校には慣れた?」

 ヒナミは尋ねてみた。深い理由はない。思いついたから尋ねた。

「ヒナミさん、それ、私がいうことですよ。私、転校して二年です。クラスの委員長だってやってます。」

 チサトちゃんは呆れたようにいった。

「どうして、チサトちゃんは見学なの?」

 ヒナミは尋ねた。こっちはちょっと気になってた。

「数日前からちょっと体調がすぐれなくて。」

 チサトちゃんはヒナミから目をそらす。

「大丈夫?」

 ヒナミは尋ねる。

「はい、平気ですよ。ドッジボールくらいなら大丈夫だと思うだけど、見学しておきなさいって。叔父は心配性です。」

 ヒナミの脚元にボールが転がってきた。

「ごめーん。」

 ミホが手を振っている。

 ヒナミが座ったまま投げ返したボールは、ミホの手前に落ち、何度かはねてから、地面を転がり、やっとミホに届いた。

 風が吹く。木の枝を揺らし、ざわざわと音を立てる。


 学校が終わると、ヒナミはチサトちゃん、それからミホの二人と一緒に家に帰ることにした。誰かから誘ったとか、そういうのではなくて、自然にそういう風になっていた。

 夕日に照らされながら、三人で校門を目指して歩く。

「なんだか、騒がしくないですか?」

 チサトちゃんがいった。

「え、普通じゃない。」

 ミホがいった。うん、ヒナミも特に何も感じない。

「人じゃなくて、カラスたちが。」

 チサトちゃんのその一言で、ヒナミは気が付いた。校舎の上を、カラスが数羽、飛んでいるのだ。気にしなければ気にならない程度だけど、気にしだせば確かに多い。

「なんだろう。」

 チサトちゃんはつぶやいた。その答えは、校門を出たところにあった。

 歩道橋の下に、ハトが横たわっていた。歩く人たちは、露骨に避けて行ったり、興味深そうに見ていったりだ。

 チサトちゃんは、ハトから少し離れたところで、足を止めた。

「チサトちゃん。」

 ヒナミの声は、チサトちゃんに届いていないようだ。そんなぐらい、真剣な目をしている。

 ハトの周囲に、カラスが舞い降りる。三羽だ。

 カラスはハトに歩み寄ると、くちばしでついばむ。


 バサッ。


 その途端、ハトは片方の翼を広げた。カラスは、驚いたようにジャンプしてハトから距離をとる。

 ハトの翼は、すぐに力なく、ダラリと垂れ下がる。すると、またカラスは近寄り、ついばむ。そして、ハトは、翼を広げカラスを追い払う。でも、翼はダラリと垂れ下がる。

 そんなことを繰り返しているうちに、だんだんとハトは力がなくなっていく。カラスがついばんでも、追い払えなくなる。見計らったように、空からカラスが降りてくる。

 ハトは、微かに動いている。まだ生きているんだ。

「チサト、大丈夫!」

 ミホがいった。ヒナミは驚いてチサトちゃんを見た。

 チサトちゃんは、引きつった表情で、ハトを見つめていた。呼吸が荒い。よく見ると、手が震えている。

「チサトちゃん。」

 ヒナミも、声をかける。

「怖い。怖いよ。」

 チサトちゃんは胸に手を当てると、その場にしゃがみ込む。

「チサト!」

 ミホは、すぐさまチサトちゃんの横にしゃがむと、顔をのぞき込む。

「チサトちゃん!」

 ヒナミには、声をかけることしか出来なかった。


 ベットに座ったチサトちゃんは、ゆっくり、長く、息を吐く。

「ごめんなさい。お見苦しいところをお見せしてしまいました。」

 チサトちゃんは、小さな声でいった。

「別にいいよ。」

 ヒナミは丸椅子に座っている。

 ここは保健室。チサトちゃんの気分が悪そうなので、ひとまずここに連れてきた。今日は、保健の先生は出張とのことで、今はヒナミたちしかいない。

「ごめんなさい。お恥ずかしいところをお見せしました。」

 チサトちゃんは今まで見たことないくらい落ち込んでいる。

「ま、あんなの見ちゃったらしょうがないよね。」

 ヒナミの横に立っているミホがいった。

「怖くなっちゃって。」

 チサトちゃんは、今まで見たことがないくらい元気がない。

「カラスは人間を食べないよ。ま、襲って来たって私が追っ払うから。」

 ミホはいったが、チサトちゃんは首を横にふった。

「あのカラスを追い払ったら、ハトはいきられたかな。」

 カラスに襲われた時点で、ハトは弱っていた。いや、違うな。弱っていたから襲われたんだ。だから、カラスを追い払ったところで長くは生きられなかっただろう。

 ヒナミはミホの顔を見上げた。ミホも同じことを考えているようだ。

「あのハト、もう助からないのにいきようとしてた。なんで、そんなに執念深いのかなって。あきらめてしまえば、楽なのに。生き物はみんな死ぬんだから、死ぬことを受け入れられた方が、楽なのに。」

 チサトちゃんの、膝に置いた手は、震えている。

 ヒナミは、チサトちゃんから目をそらした。チサトちゃんにいえる言葉が思いつかなかった。入り口の ドアは、開いていた。廊下にはウミが立っていた。白いポロシャツに、紺色の吊りスカートという格好だ。

「お待たせしました。」

 ウミの横を通り過ぎ、やって来たのは、立花先生だ。

 立花先生はチサトちゃんの前までいくと、腰を低くして目線の高さをそろえる。

「ちょっと、びっくりしただけですから。」

 チサトちゃんは立花先生から視線を外し、深呼吸した。

「さ、帰りましょう。ごめんなさい。遅くなっちゃいましたね。」

 そういって、チサトちゃんは勢いをつけ、ベットから飛び降りた。

「チサト、本当に大丈夫なの?」

 ミホの心配そうな表情に返事をするように、チサトちゃんは笑う。ヒナミには、わざとらしい物に見えた。いつもの笑顔ではなかった。

「チサトさんと、仲よくしてあげてくださいね。」

 ヒナミの耳元で、立花先生がつぶやいた。普段から声が小さい立花先生だけど、このときは特に小さい声だった。

「え、あっ、ハイ。」

 突然のことに、ヒナミはあいまいな返事しかできなかった。


 狭い路地が絡み合う住宅街。チサトちゃんの家はこじんまりとした洋食店だった。

「へー、チサトちゃんの家って、こんなところだったんだ。」

 ヒナミはつぶやいた。

「ねえ、ちょっとあがっていってもいい。」

 ミホがいった。

「うん、いいよ。入って。」

 チサトちゃんは入り口のドアを開けた。ドアについていたベルがカラリと鳴った。

 木製の床。年代物のカウンター。壁際の本棚には洋書が詰め込まれている。

「いらっしゃいませー。」

 店の奥から出てきたのは、男の人だった。髭が濃くて、何歳くらいなのかいまいちつかめない。

「って、チサトか。お客さんかと思ったよ。そっちはお友達。」

 男の人は面倒くさそうにカウンターの椅子に座る。

「どうせ、平日はお客様も来ないですよ。」

 チサトちゃんがいった。店内は、男の人と、ヒナミたち三人しかいない。

「まあ、平日だからね。」

 チサトちゃんは小さな声で「休日でも大差ないくせに」とつぶやいた。ヒナミには聞こえた。


 チサトちゃんの案内でお店の二階へ。ヒナミは、時間をかけて急な階段を上った。

 チサトちゃんの部屋は、元は和室だったようだけど、畳の上にはカーペットが敷いてあり、窓にはカーテンがかかっている。

 物の少ない部屋だ。目立つものは、天体望遠鏡と三脚、それから勉強机くらいだ。その勉強机の上には、ノートパソコンが置いてあった。パソコンの横には、スマートフォンも置いてある。スマートフォンには、ミカンと犬が合わさったキャラクターのストラップが付いていた。

「母と、よくメールのやり取りをするんです。」

 ヒナミの視線に気が付いたのか、チサトちゃんがいった。

「そういえば、チサトのお母さんって、会ったことないな。」

 ミホは部屋の真ん中に座って、すっかりくつろいでいる。

「うん。私も、二年会ってない。」

 チサトちゃんはいった。

「寂しくない?」

 ヒナミは尋ねた。

「寂しいから、メールするんです。お父さんも、お母さんも、二人いる兄も、みんな忙しいみたいです。でも、手が空いている人が、返事をくれます。だから、寂しいけど、寂しくないです。最近は、ちょっとだけ、会いたいかななんて思って……あ、でも。大丈夫ですよ。大丈夫です。」

 チサトちゃんはスマートフォンを掴むと、ポケットに入れた。

「そっか。」

 ミホはうなずく。


 次の日、ヒナミはやっぱりクラスで二番目にはやく学校に着いた。一番はチサトちゃんだ。相変わらず、本を読んでいた。今日は、難しそうな小説だ。

 声をかけていいのか、わからない。ヒナミは黙って、自分の席に座る。

「おはようございます。ヒナミさん。」

 斜め後ろ。ふり返ると、チサトちゃんは本を閉じて、微笑みかける。

「おはよ。もう、大丈夫なの?」

「はい。ちょっと体調が悪かっただけですから。ご心配おかけしました。」

 そっか。

「ねえ、ヒナミさん。昨日の算数の宿題、できましたか?」

 チサトちゃんはおもむろにいった。

「うん、難しくて実はまだできてない。」

 ヒナミは苦笑いを浮かべた。割り算のひっ算はどうにも苦手だ。

 昨夜、ヨウタが「教えようか」なんて、偉そうにいってきたから、思わず「一人でできる」といってしまったけど、できてない。

「だと思いました。教えますよ。」

 チサトちゃんはヒナミの横に立つ。

「お願いします。」

 ヒナミは頭を下げた。

 よかった。チサトちゃん、大丈夫そうだ。

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