第七話 ウサギさん、カメさん
涙のあとを見られたくないから、トイレで顔を洗ってから、教室に戻った。すると、ミホさんがやって来た。
「あの……。」
ミホさんが、ばつが悪そうな表情でヒナミの横に立つ。
「ごめん、早退する。」
気まずいのは、ヒナミも同じだ。
ランドセルを背負うと、立ち上がり、早足、といっても、ほかの人が普通に歩くくらいのはやさで教室を出た。
廊下に、立花先生が立っていた。
「ごめんなさい。今日、私、もう無理です。」
ヒナミが立花先生の横をすり抜けようとしたときだ。
「ヒナミさん。」
予想はしていたけど、呼び止められた。
でも。
「気を付けて、また明日お会いしましょう。」
続く言葉は予想外だった。
家までの道は、昨日より長く感じる。
「ただいま。」
こんな時間に帰って、お母さんはどんな顔をするだろう。
「おかえり。」
玄関に座って靴を脱ぐヒナミに、お母さんの言葉が飛んでくる。
廊下をまっすぐ。階段の横の部屋がヒナミの部屋だ。
杖を机に立てかけると、カーペットを敷いた床に倒れ込む。
頑張らなきゃいけなかった。
頑張ってミホさんと話し合って、頑張って謝って、頑張って、わかってもらわなきゃいけなかった。ヒナミの気持ちを。
「駄目だな、私。」
ヒナミはつぶやいた。
ふと、壁にかけたコルクボードが目に入った。写真が貼ってある。
入学式のとき、お父さんと、お母さんと、それから、弟のヨウタと撮った写真。
二年生のとき、遠足でいった松山城で、ユイと撮った写真。
三年生のとき、運動会の五十メートル走で一等になったときの写真。
もしも、転校しなかったら、ヒナミは今頃なにしてたんだろうな。少なくとも、ミホさんと喧嘩はしてないか。
タンスの一番下の引き出しを開けた。防虫剤の匂いが、鼻をつく。
そこに入っていたのは、紺色のジャンパースカート。袖口に水色のラインが入った半袖のカッターシャツ。私立の小学校の制服だ。
ヒナミは、着ていた服を脱いで、制服を着てみた。以前は毎日着ていたはずなのに、なんだかもう、着なれない感じがする。
スカートの裾をめくってみる。べっとりと、黒いシミが着いていた。事故のときに着いたものらしい。
ヒナミは、床に寝そべった。
海が見える。
線路があって、道路があって、そのむこうに海が広がっている。
潮の匂いのする風が、ヒナミの短い髪を揺らす。
「ねえ、お父さん。」
ヒナミは、駅のベンチに腰掛けている。
「ん。なに?」
お父さんはヒナミの横に座り、水平線を見つめている。
「ヒナミはどうしてヒナミなの?」
お父さんは少しの間、何かを考える仕草をした後、口を開いた。
「ヒナミの名前は、本当に悩んだな。ヨウタは適当に考えたってわけじゃないけどね、やっぱり、はじめての子供だったから。しかも、お母さんは僕に任せるなんていうし。」
お父さんはゆっくりと息を吐く。
「どうしようかなって、悩みながら、近所を散歩してたら、いつの間にか砂浜に出てたんだ。ちょうど、雨上がりだったんだけどね、雲の合間から、こう、すーっとね、日がさしてたんだ。波の上に。とっても綺麗だった。」
「だから、ヒナミ。」
ヒナミがいうと、お父さんは、黙ってうなずいた。
「ギュゴオー。」
爆音がして、ヒナミは飛び起きた。慌てて周囲を見回す。
場所はヒナミの自室。ベットの上。
ベットの横に、ウミが立っていた。体操服を着て、頭には鉢巻きを巻いている。運動会フォームだ。
「ウミ、なにかした?」
ヒナミが尋ねると、ウミは横をむいて、何も知りませんよとばかりに、口笛を吹くような仕草をする。音、出てないよ。
昨日、学校を早退して、家に帰って制服を着て、そのまま寝ちゃったんだっけ。誰かがベットの上に上げてくれたんだ。お母さんかな。
大きくのびをして、枕元の時計を見る。時間は五時。外が暗いから、たぶん午前。
ウミが、ヒナミの腕を引っ張る。
「出かけるの?」
ヒナミの声に、ウミはうなずく。
「ちょっと待ってね。」
着替えようかと思った。でもやめた。もうこのままでいいや。もう少し、この制服を着ていたい。いいよね、そのくらい。
ヒナミはリビングに移動する。
テーブルの上にメモが置いてあった。
『ヒナミへ 先生から聞きました。少しでも自分が悪いと思うなら、必ず謝りなさい。でも、少しも悪くないなら、謝らなくていいです。自分で考えましょう。』
ヒナミは一度、小さくうなずく。
「わかった。お母さん。」
メモのはしっこに「ひなみちゃんふぁいと」と書いてあった。
リビングから持ち出した鍵で玄関のドアを閉める。杖が邪魔で予想外に手間取った。ヒナミは歩き出す。
ウミは、ヒナミの少し前を歩いていて、数歩進むごとに立ち止まり、ヒナミが追いつくのを待つ。暗い中に、ウミの銀色の髪がよく目立っている。
「どこいくの。」
ヒナミが尋ねても、ウミは何も答えない。海辺の道を歩く。遠くに見えるのは、灯台の灯りと、コンビナートの照明。
ウミを追いかけて、橋を渡り、坂を下って、小学校の前を通り過ぎて、電車の踏切を渡る。やって来たのは、砂浜だった。
静かだ。とっても静かな中、波の音だけが規則的に聞こえてくる。
人が見える。あれ、もしかしてチサトちゃん。
近付いてみると、やっぱりチサトちゃんだった。その横には、三脚に備え付けられた大きな望遠鏡がある。
話しかけようかと思ったけど、なんだか気まずい。このまま、帰ろうか。
「ヒナミさん、おはようございます。」
チサトちゃんに気付かれてしまった。
「おはよう。なにしてるの。」
ヒナミはできるだけ、平静を装う。何もなかったかのように。
「天体観測です。星が好きなんです。東京では、千代田区だったのでほとんど見られませんでした。ヒナミさん、制服かわいいですね。」
ヒナミは空を見上げるふりをしながら、チサトちゃんから視線を外す。
「久しぶりに、着てみたくなって。」
「いいですね。私も、たまに前の学校が恋しくなります。毎朝、大混雑の地下鉄に乗って大変だったのに。」
そうだね。朝の路面電車も、満員だった。
「昨日、前の学校の人からメールが来たんです。男の子なんですけどね、私のこと、好きだったんですって。」
チサトちゃんはちょっとはずかしそうに「えへへっ」と笑った。
「そっか。」
ヒナミは短く答えた。
そういえば、ヒナミが前に通ていた学校に、男の子がいた。
ヒナミのことを、しょっちゅうチビだといってからかっていた。ヒナミもヒナミで、あれやこれやといい返すものだから、よく喧嘩になって、先生に怒られた。
でも、仲が悪いわけではなかった。
チサトちゃんは腕時計を見た。文字盤に蛍光塗料が塗ってあって、暗い中でも読めるようになっているみたいだ。
「そろそろ日の出ですね。撤収します。」
チサトちゃんは慣れた手つきで望遠鏡を三脚から取り外し、ケースに入れる。
「今朝の星も綺麗でした。毎朝、ここにきているんです。」
独り言のように、チサトちゃんはつぶやく。
「お父さん、お母さん、心配しないの?」
チサトちゃんはおじさんの家で暮らしているんだった。いってから思い出した。
「叔父も、叔母も、両親も、私のやることにはあまり何もいいません。体を壊さないように。それだけです。そもそも、こっちに引っ越してきたのだって、私が海の近くで暮らしたいっていったからですし。」
「いい人たちじゃない。」
チサトちゃんは、笑顔でうなずく。
「はい。大好きです。」
チサトちゃんは望遠鏡のケースについていた紐に腕を通し、肩に掛けた。それから、三脚を手に持つ。
周囲が、少しずつ明るくなる。日の出だ。
始発電車の音が聞こえる。
「一度家に戻ってから学校へいきます。ヒナミさん、途中まで一緒に帰りませんか?」
「うん。そうする。」
ヒナミはチサトちゃんと肩を並べて砂浜を歩く。
「昨日はごめんね。」
ヒナミは何となく、そういってみた。ひょっとしたら、予行演習のつもりだったのかもしれない。ミホさんにいう、そのときのための。
「ヒナミさん、ミホは根に持つタイプじゃないですよ。」
「うん、ありがと。」
砂浜から、堤防を越えて、電車の踏切を渡り、舗装されたアスファルト道路にでる。
「ヒナミさん。」
「ん、なに?」
「実は、ヒナミさんにだけ、いっておきたいことがあるんです。」
チサトちゃんは立ち止まる。
ヒナミも立ち止まる。
数回、波音が聞こえた。
「私、その……えっと……転校するんです。さよならです。」
チサトちゃんは笑った。とても悲しそうな、笑顔だった。
「へっ。」
ヒナミは、返す言葉がとっさに出てこなかった。
「まあ、決定ではないんですけどね、もしかしたらって話です。本当は、いきたくないですけど、どうしようもないんです。ずっと前から、わかっていたことですし。でも、みんなには秘密にしてくださいね。」
チサトちゃんは自分の口に人差し指をあてると、ウインクをした。
ヒナミは深呼吸した。
「チサトちゃん。」
「はい。」
「元気でいてね。」
「はい。頑張ります。」
チサトちゃんは「クスリッ」と笑った。
「ヒナミさん。」
「なに。」
「ミホと仲直り、してくださいね。」
ヒナミは、うなずいた。
一旦家に帰り、着替えて、朝ごはんを食べると、ランドセルを背負って学校へ。
家を出るとき、ウミが一枚の写真を差し出した。コルクボードに貼っていた、三年生の運動会のときの写真だ。
体操服で、頭に鉢巻きを巻いた、短髪のヒナミだ。笑顔で、カメラにむかってブイサインをしている。
「これを持っていけばいいの・」
ヒナミが尋ねると、ウミは笑顔でうなずいた。
ヒナミは写真をポケットに入れた。
教室に入ると、ヒナミに視線が集まる。昨日、早退したから。
あえて視線に気づかないふりをしながら、自分の席に着いた。
朝の会があって、それから一時限目の授業。
ヒナミはちらりと振り返り、斜め後ろの席を見た。ミホさんの席だ。
ミホさんと目があったので、すぐに黒板に視線を戻す。
二限目、三限目、四限目。駄目だな。なんだか、授業に集中できない。
給食を食べて、昼休み。ヒナミはミホさんの席へ。ミホさんは、チサトちゃんと楽しそうに喋っている最中だった。
「ちょっと、来てもらっていいかな。」
ヒナミが声をかけると、ミホさんが緊張するのがわかる。そんな顔をしている。
「話があるの?」
ヒナミは続けていった。
ミホさんを、廊下の一番奥、人けのないところへ連れていく。チサトちゃんもついて来た。
「で、話しって。」
ミホさんの声は、不機嫌そうにきこえる。たぶん、ヒナミが緊張しているせいなんだろうな。そう、信じたい。でも、ちゃんといいたいこといわなきゃ。ヒナミは大きく、息を吸って、一気に吐いた。
「今日の放課後。砂浜来て。勝負して、決着をつけよう。」
「どうやって?」
「私の一番得意なやつ。五十メートル走。」
ヒナミは大きな声で、はっきりといった。ミホさんの目を見つめることを意識した。
「ヒナミさん、何考えて……。」
チサトちゃんの言葉を、ミホさんがさえぎる。
「あたしのこと、おちょくってんの。」
ヒナミは黙って、ポケットから写真を取り出し、チサトさんの鼻先につきつける。
「昔の私よ。」
ミホさんは目を閉じる。何かを考えているようだ。
「いいよ。その勝負、受けて立つ。手は抜かない、全力を出すから。」
ミホさんは、目を開けた。きっと、事故に遭う前のヒナミも、あんな目をしていたんだろうな。特に、スタートラインに立ったときなんかは。
チサトちゃんは、砂浜に流木で線を引く。
「本当にやるんですか?」
チサトちゃんのこの言葉を聞くのも、何度目だろう。
「もちろん。」
ヒナミはうなずく。ヒナミの横にいるミホさんも、ヒナミと同じ気持ちのようだ。
「じゃあ、もうなにもいいません。ゴールで待ってます。」
チサトちゃんは砂に引いたゴールラインにむかって歩いていく。
「ヒナミ、昨日はごめんね。」
びっくりした。ゴールを見つめるミホさんはとても優しい声だった。
「立花先生から聞いた。あたし、ヒナミの気持ち、何にも考えていなかった。」
「うん。私も、あせってた。ごめんね。怒ってない。」
「うん。怒ってないよ。ヒナミは。」
「私も。」
チサトちゃんはゴールから声をかける。
「二人とも、準備できたー。」
ヒナミは杖を腕から外し、横に置く。ふらついてはいるけれど、ヒナミは今、自分の足で立っている。立てている。
「準備できたよー。」
ヒナミとミホさんは同時にいった。
「位置について―。」
チサトちゃんの声が聞こえる。
「喧嘩したときってさ。」
ヒナミはつぶやく。
「よーい。」
チサトちゃんの声が聞こえる。
「どこかで、ここで終わりって印をつけなきゃいけないから。」
ヒナミはつぶやく。
「ドン。」
チサトちゃんの声がスタートラインに届いた途端、ミホさんは走り出した。
はやい。
背中がどんどん小さくなる。
ミホさんはゴールラインを越えた。
ヒナミは懸命に走った。右の足と、左の足を交互に動かす。
何度、波が打ち寄せただろうか。
ゴールが見えてきた。
あと三歩、あと二歩、あと。
最後の一歩を踏み出そうとした時だ、右足に激痛が走った。一瞬、呼吸ができなくなり、次に体のバランスが崩れるのを感じた。体が、前に倒れる。
こけてしまう。
そのとき、腕が伸びてきてヒナミを支えた。
「大丈夫、ヒナミ。」
ヒナミは小さくうなずくと、ミホさんに支えられたまま、一歩踏み出した。ゴールラインを越えた。
「チサトちゃん、どっちがはやかった。」
ヒナミはチサトちゃんを見た。
「ミホ……かな。」
戸惑いの表情をうかべながら、チサトちゃんはいった。
「私、勝ったんだ。ヒナミに。」
ミホさんが小さな声でいう。
「そうだよ。ミホ。とってもはやいね。」
ヒナミは、いった。
砂浜は、夕日で照らされていた。
次の日。ヒナミは午後から登校した。
「ヒナミ。どうしたの?」
教室に入ると、真っ先にヒナミの元に駆けつけたのはミホだった。
「ちょっと病院いってた。」
「やっぱり、昨日の……。」
「定期健診。」
ヒナミはあえてミホの言葉をさえぎった。
本当は、定期健診なんかじゃない。昨日、家に帰ってからもずっと足が痛くて、たまらず病院で診てもらったのだ。ヒナミを担当してくれている山西先生から、無理をするなと怒られた。
「ねえ、ミホ。」
「なに?」
まだミホは不安そうな表情を崩さない。
「私は大丈夫だから。」
ヒナミは笑顔を浮かべた。
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