第六話 優しい人たち
翌朝。
着替えを済ませると、パジャマを洗濯カゴに入れ、ダイニングへ。
「おはよう、ヒナミ。」
「お母さん、おはよう。」
お母さんは朝食の支度をしていた。いつも通りの洋食だ。ヒナミは席に着く。
「今日、本当に送っていかなくていいの?」
お母さんは心配そうに尋ねる。
「うん。昨日、一人で帰ってこられたし、一人で通えるようにならなきゃだし。」
ヒナミはテーブルの牛乳パックに手を伸ばす。
「あせっちゃだめよ。ヒナミ。」
「うん。ゆっくりいく。」
ヒナミは自分のマグカップに牛乳を注ぐ。お母さんの顔は見ていなかった。
海の見える道を歩く。
四月の風は、まだ少し肌寒い。もう少し厚着をしてきた方がよかったかもだ。
「ヒナミ―。」
後ろから声がした。
足を止めて、ふり返る。ジャージを着たミホさんが走ってくる。
「おはよう、今から学校。はやいね。」
ミホさんはヒナミの近くで立ち止まる。
「うん。おはよう。はやめに家を出ないと。こんなんだからね。」
ヒナミは片方の杖で二、三回地面を叩く。コンコンと、鈍い音がする。
「そっか。大変だね。」
「まあ、仕方ない、かな。」
ミホさんがゆっくりと歩きはじめる。ヒナミも横に並んだ。
「痛いの? その足。」
ミホさんの言葉を、ヒナミは首を振って否定する。
「もう、時々しか痛くないよ。あんまり動かないだけ。」
そう。時々しか。
「ミホさんは、ランニング?」
ヒナミは尋ねた。
「うん。もっと、はやく走りたいから。」
ミホさんの顔は、とっても嬉しそうだった。楽しそうだった。
そうだ、尋ねてみよう。
「ねえ、どうしてはやさを目指すの?」
「音速少女に勝ちたいから。」
ミホさんは即答した。
「もしもの話だよ。もし、その音速少女ちゃんが走れなくなってたら、私みたいになってたら、走るのやめるの?」
ヒナミは自分でいっておきながら、意地悪な質問だと思った。
「やめないよ。きっとね。」
ミホさんは、意地悪な質問を意地悪だと感じていないような顔でこたえた。
途中でミホさんとは別れた。ミホさんは一度家に帰り、準備をしてから学校に来るのだという。
ヒナミは学校に着くと、まっすぐに職員室へいった。昨日、立花先生から聞いた。教室の鍵は最初に来た人が開けることになっているらしい。今の時間なら、ヒナミが一番はやいだろう。もう少しゆっくり寝ていたらよかった。
職員室の階段に近い方のドアが開けっ放しだった。そこから入って、すぐ横の壁に各教室の鍵がつり下げられている。
その中に、四年二組の鍵はなかった。先に教室を開けた人がいるらしい。
ヒナミは職員室を出て、階段を上り、教室へ。
教室のドアは閉まっていた。
杖の先でドアを開けた。ちょっとはしたないかな。誰も見てないからいいよね。
廊下から二番目の列、前から二番目の席にチサトちゃんが座っていた。真剣な眼差しで分厚い本を読んでいる。ブックカバーが掛けられていて、なんの本かわからない。
「おはよっ。」
ヒナミがいうと、チサトちゃんの体がビクンと跳ね、本を床に落とした。悪いことしたかな。
「あ、ごめん。ビックリさせちゃった?」
そこまで集中してるとは思ってなかったんだ。
チサトちゃんは二、三度深呼吸して息を整える。
「ごめんなさい。思わず読みふけっちゃって。おはようございます。ずいぶんはやいですね。」
落ちた衝撃で、本のカバーが外れていた。
『よくわかる心臓病』
それが、本のタイトルだった。よくわかる、といっておきながら、なんだか難しそうな本だ。
チサトちゃんは、いつもの笑顔を浮かべながら本を拾うと、カバーをかけた。
「難しそうな本読んでるね。」
ヒナミはチサトちゃんの斜め前、自分の席に座った。
「その……ちょっとした好奇心で調べものです。でも、内容がよくわからないです。私には、まだ難しすぎました。」
この時間に来てよかった。チサトちゃんの笑顔を見ると、そう思えた。
杖を立てかけて、チサトちゃんの手を借りながら体重計に乗る。針がぐるりと回る。
「離しますよ。」
ヒナミがチサトちゃんから手を離すと、針は少しだけ後退した。
あれ、太ったかなと思ったのに、前と変わらないか、むしろ、軽くなっている。頭の中に、自分の細い足が思い浮かんだ。あれのせいだろうか。
保健の先生が体重を書き留めるのを見てから、ヒナミは再びチサトちゃんに手伝ってもらって体重計から降りると、杖を掴んだ。
次は身長だ。
身長は誰かに手伝ってもらわなくても大丈夫。
保健室の前で、チサトちゃんを待つ。
チサトちゃんが出てきた。ミホさんも一緒だ。
「お待たせしました。いきましょうか。」
チサトちゃんがいうと、三人で並んで歩きはじめた。はやさは、ヒナミにあわせて。
「チサト、どうだった。」
ミホさんがいった。
「いつも通り。」
チサトちゃんはヒナミを見る。
「ヒナミさんはどうでした?」
「体重が減って、身長のびてた。」
「よかったじゃないですか。身長どのくらいですか?」
「一一五,三センチ」
チサトちゃんも、ミホさんも、隠しているつもりだろうけど、わかるよ。笑いをこらえてるの。これでも二年前と比べて三ミリ伸びたんだぞ。
階段にさしかかる。
「チサトちゃん、ミホさん、よかったら先に戻ってて。」
ヒナミに付き合ったっていたら、次の授業に間に合わないかもしれない。
でも、チサトちゃんは黙って首を横に振る。それから、笑顔をヒナミにむけた。
「ありがと。」
ヒナミは杖を握りなおした。
「じゃあ、こうすりゃいいじゃん。」
ミホさんは後ろに回り込む。すると、ヒナミは腰を掴まれて、足が床から離れる。
あっという間にヒナミの体は横向きにされた。お姫様抱っこってやつだ。
「降ろしてよ。」
「チサトもだけど、ヒナミもたいがい軽いね。ちゃんとご飯食べてる。」
いいながら、ミホさんは階段を上っていく。
「降ろして。」
ヒナミは静かにいった。暴れてやろうかと思った。でも、今、落ちたら怪我をするのはヒナミだ。
「まあまあ。」
ミホさんはズンズン階段を上り、すぐに登り終わった。
「はい、とうちゃーく。」
ミホさんはヒナミを床に降ろした。
「降ろしてっていったよね。」
ヒナミはミホさんの顔を見上げた。
「階段の途中じゃおろせないよ。」
ミホさんはあっけからんとした口調だった。
親切心でヒナミを運んでくれたんだろうな。とっても優しいんだね。よくわかるよ。でも、ヒナミは階段、一人でもぼれるんだ。昨日だって、一人で大丈夫だったでしょ。
優しく、冷静に説明しないと。じゃないとミホさんを傷つけてしまう。出来るよね、ヒナミは四年生だけど、十一歳で、お姉さんなんだから。
「頼んでもいないのに余計なことしないでよ。階段くらい一人ででも上れるわよ。私のこと、なんだと思ってんのよ!」
ヒナミは怒鳴っていた。我慢できなかった。
「いや、その……遅刻しちゃまずでしょ。ヒナミ、足遅いんだし。」
ミホさんは、困ったような表情を浮かべながらいった。
「運んでなんて頼んでないって、いってるでしょ!」
ヒナミは叫んだ。
チサトちゃんの戸惑う顔。
ヒナミはしゃくり上げながら泣いていた。
何も泣くようなことじゃないじゃないか。そう思うのに、涙が止まらない。
「ありがとね、でも……でも……。」
ヒナミはそれ以上、声が出なかった。
ヒナミは図書室にいる。紙とインクの匂い、それから微かなかび臭さを感じる。
皮の紐で首から下げて服の中に入れていた勾玉を取り出し、手の中でなでる。
冷たい感触。ツルリとした手触り。ヒナミは大きなため息をついた。
なんで、ミホさんの好意に素直に甘えられなかったんだろう。
なんで、優しくさとすのではなく、怒鳴ってしまったんだろう。
後悔先に立たず、という言葉は後悔してから思い出す。いつもそうだ
扉が開く。
「お待たせしました。」
やって来たのは立花先生だ。授業があるはずなのに、申し訳ない。どれもこれもヒナミのせいだ。
「それ、勾玉ですか?」
立花先生はヒナミと机を挟んで正面になる位置に座る。
「お守り、みたいなものです。」
学校にアクセサリーを着けて来てはいけないのは知っている。怒られるかな。ヒナミは立花先生の様子をうかがう。
「大切なものなんですか?」
立花先生の問いにヒナミはうなずく。
「では、今日は見なかったことにしておきます。明日からは、見つからないようにしてください。」
ヒナミは「はい」と返事をして、勾玉を服の中に入れた。
「ヒナミさん。ミホさんとなにかありましたか?」
ヒナミは立花先生から目をそらした。なにかあったのか、と訊かれているが、先生は知っているんだろうな。
「ごめんなさい。私が、悪いんです。ミホさんは私のこと、助けてくれたのに。」
立花先生は目を閉じた。何かを考えているようだ。時計の秒針が進む音が、大きく感じる。
「ヒナミさんは、素直に謝れる。お姉さんですね。いいんですよ。ケンカくらい。」
立花先生は息を吸った。
「聞かせてください。ヒナミさんの気持ち。」
ヒナミが顔を上げると、立花先生の笑顔があった。
「私の足、今より良くなることはないらしいんです。」
ちょっと前のことだ。定期健診で病院にいったら、そんなことをいわれた。
「だから、今より悪くしないために運動しないといけないんです。人に助けてもらうのが当たり前になったら、どんどん足が悪くなっちゃう。」
話していたら、また目元が湿ってくる。悲しくなんてないはずなのに。
「少しずつ、少しずつ、何もかも無くしてしまうんじゃないかって。走れなくなって、今度は歩けなくなるんじゃないかって。」
立花先生は長く息を吐く。
「怖かったんですね。」
ヒナミはうなずいた。そうだ。怖かった。不安だった。
「ヒナミさん。急がないで、ゆっくりでいいんですよ。ゆっくり、歩いてください。」
その途端、ヒナミはワッと泣き出していた。
「いつでも、いいです。また、教室に戻ってきてくださいね。」
立花先生はそういって、図書室を出ていった。
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