第五話 音速少女の伝説
ひと月が、あっという間に過ぎて、四月になった。
家に一番近い小学校の場所は知っていた。ヒナミが十一年、暮らしてきた街だから。でも、実際に行くのははじめてかもしれない。私立の小学校に通っていたから。
道路は海岸の形に合わせて造られている。お母さんが運転する車は、右へ左へカーブを抜けていく。
「お迎えもくるから。」
そういったお母さんの顔は見えない。ヒナミが後部座席にいるから。
「ありがと。でも自分で帰る。」
海が見える。灯台が見える。遠くの島が見える。いい天気だ。
「ヒナミ、緊張してる?」
お母さんが尋ねる。
「ううん。そんなことないよ。」
ヒナミは答えた。
車は県道に出る。この辺りでは一番大きな道路だ。
速度を上げた車は、ランドセルを背負って歩道を歩く男の子、女の子を次々と追い抜かす。さっき抜かした人は知らない人。今抜かした人も知らない人。
ヒナミは、横に置いていたランドセル膝に乗せると、抱きしめた。
「大丈夫。ヒナミだから、大丈夫。」
お母さんは運転しながらいった。
お母さんは学校の玄関のすぐ前に車を止めた。先生らしい人が、玄関に立っている。
地味な色のスーツを着た、若い女の人で、気が弱そう。顔が暗く見えるのは、前髪が長いのとうつむきがちだから。
ヒナミはランドセルを背負うと、両手に一本ずつ、杖を握る。腕のところで固定できるようになっている杖だ。
車を降りて、先生らしき人たちの前までいく。お母さんも、車を降りてヒナミの横に並んだ。
「高浜ヒナミさん、ですね?」
女の人がいった。小さな、つぶやくような声だ。
「はい。よろしくお願いします。」
ヒナミは、首だけを曲げて、会釈をした。その横で、お母さんは深々と頭を下げた。
「ヒナミさんの担任をやらせていただきます、立花キヨミです。」
立花と名乗った女の人も、ゆっくりと、深く、頭を下げた。
お母さんは何度も何度も「よろしくお願いします。」といって帰っていった。
下駄箱が並んでいる入り口ではなく、先生が出入りしている玄関から校舎に入って、立花先生の背中を見ながら廊下を歩く。
理科室の前を通りかかったとき、扉が開いた。立花先生は足を止め、ヒナミも立ち止まる。
出てきたのは、ヒナミの知っている人だった。長い髪をサイドテールにした女の子。チサトちゃんだ。
「あれ、ヒナミさん、どうしてここにいるんですか?」
チサトちゃんは驚いた顔をしているのに、口調は冷静だ。
「へ、チサトちゃんって、この学校に通ってたんだ。」
ヒナミもこれには驚いた。でも、そういえばチサトちゃんの家って、ヒナミの家の近くなんだっけ。
「二人はお知合いなのですか?」
立花先生はヒナミとチサトちゃんを交互に見ながら、静かに尋ねる。
「はい。以前、とってもお世話になったんです。」
チサトちゃんは笑いながらいった。
「いってなかったね。今日からこの学校に転校することになったの。よろしくね。」
ヒナミがいうと、チサトちゃんは「はいっ」と大きな声で返事をした。嬉しそうだ。よかった。
「ところで、森松さん。こんなところでなにをしていらしたのですか?」
立花先生は優しい口調で尋ねる。
「春休みの間、理科室の本をお借りしていたので、返しに来ました。あ、ちゃんと許可はもらいましたよ。」
そういって、チサトちゃんはまた笑った。
チサトちゃんと別れたヒナミは立花先生に連れられて、まずは職員室へいった。
職員室で先生たちに一通り挨拶をすませて、教室へ。
教室は上の階だ。ヒナミはゆっくりと、本当にゆっくりと、一段一段のぼっていく。
立花先生は、ずっとヒナミの後ろを歩いていた。
階段を上りきると、ヒナミは一度、大きく息を吐いた。
「参りましょうか。」
歩きはじめた立花先生の後に続いて、ヒナミも廊下を進む。
「後で呼びますので、しばらく、待っていてください。」
立花先生はそう言い残して、教室に入っていった。騒がしかった教室が、一気に静かになる。
立花先生が何かを話しているのが聞こえるけど、上手く聞き取れない。声が小さいよ、先生。
教室のドアが開いた。
「ヒナミさん。」
立花先生が手招きする。
「はい。」
ヒナミは教室に入る。すると、一気にざわめく。教室にいるのは男女合わせて三十人ほどかな。ヒナミが以前通っていた学校より少ない。
その中に、チサトちゃんもいた。
チサトちゃんは小さく手を振った。だから、ヒナミも微笑む。
教室が静まるのを待って、立花先生は黒板に『高浜日波』と書く。この人、とてつもない達筆だ。
「今日からこのクラスに転入することになった、高浜ヒナミさんです。ヒナミさんは、ご覧の通り、杖を使って生活しておられます。体育などの授業では,皆さんとは別の内容になるかと思います。ですが、分けへだてなく、仲よくしてくださいね。」
立花先生はヒナミに視線をむける。
「高浜ヒナミです。よろしくお願いします。」
教室中から拍手が起こった。
「ヒナミさんの席はあちらです。」
立花先生が指差す席。一番前の席だ。前の学校、ヒナミは必ず一番前の列だった。背が低いから。「黒板が見えません。」と宣言する手間が省けるだけ、はじめから一番前の席というのは嬉しい。
ヒナミは席に着いた。
「ようこそ。ヒナミさん。」
後ろから声がした。ふり返ると、チサトちゃんが笑っていた。ヒナミの斜め後ろの席は、チサトちゃんなんだ。この席は「アタリ」だな。
「来たよ。」
ヒナミも、おどけながら返した。
「そろそろ始業式です。移動しましょう。」
立花先生がいった。
体育館へ移動するために階段を降りる。クラスの半分くらいの人が、ヒナミを支えようと、その周囲に集まる。
嬉しいな。嬉しいんだけど、階段は一人で降りられる。横向きに、一段づつ。時間はかかるけど。
体育館に入ると、立花先生がパイプ椅子を用意してくれていた。
ヒナミは、体育館の一番後ろで、椅子に座る。
始業式。知らない校歌を歌うふりをして、職員室で挨拶を交わしただけの校長先生の話を聞いた。
教室に戻ると、ヒナミの席をクラスの三分の二くらいの人が取り囲んだ。
皆、口々にヒナミに質問を浴びせる。
「どうして足が悪いの?」
男子が尋ねる。
「交通事故にあったから。」
ヒナミは答える。
「前はどこの学校にいたの?」
女子が尋ねる。
「私立の学校。電車で通えなくなったから転校してきた。」
ヒナミは答えた。
「じゃあ、元々この辺りに住んでたの?」
男子が尋ねる。
「うん。そうだよ。」
ヒナミは答える。
「ねえ、音速少女のこと、何か知らない?」
そういったのは、大柄で、短髪の女の子だった。
「へっ。」
音速少女。なんだろう、それは。聞いたことがない。
ヒナミは、女の子の顔を見上げた。
女の子は、期待に満ち溢れた表情で、ヒナミを見つめる。
「ごめん。知らない。」
ヒナミは、女の子から目を逸らした。
周囲の人たちが口々に「まだ音速少女のこと探してたの。」という。
「ごめんね。あたし、横河原ミホ。よろしくね。」
女の子は照れたように笑っていた。
チャイムが鳴った。今日は始業式と自己紹介だけだから、午前中で終わりだ。
「ヒーナーミーさんっ。」
ヒナミのところへやって来たのは、チサトちゃんだった。ミホさんも一緒だ。
「一緒に帰りませんか?」
チサトちゃんはいった。
「え、でもチサトちゃんの家って。」
ヒナミの家は海の近くで、チサトちゃんの家は山の方のはずだ。学校からだと、正反対の方向だ。
「遠回り、です。」
チサトちゃんは笑った。
「うん。ちょっとまっててね。」
ヒナミは手早く、荷物をまとめながら尋ねる。
「ミホさんは家どこなの?」
「あたしも、海側だよ。ヒナミといっしょだね。あと、ミホでいいよ。」
ミホさんはいった。
横一列。はやさはヒナミに合わせて歩く県道。
「さっきいってた音速少女ってなんなの?」
ヒナミは尋ねる。
「うーん。あたしの憧れ、かな。」
ミホさんはそういってから、ごまかすように笑った。
「毎朝、あたしの家の前を駅の方へすごいはやさで走っていく女の子がいたんだ。」
三人の横を車が走り抜けていく。
「一年生のときなんだけどね、運動会で、あたし、クラス対抗リレーに出たんだ。あたしの足がはやいとかじゃなくて、ただの人数合わせで。」
ヒナミは無言で相づちをうつ。
「はじめはあたしのクラスが勝ってたんだけど、あたしが抜かされちゃって、負けちゃったんだ。」
ヒナミは「うん」とうなずいた。
「そんなときに音速少女に出会ったんだ。出会ったっていっても、家の前を通り過ぎるのを見ただけなんだけどね、同い年くらいなんだけど、はやくて、はやくて、人ってあんなにはやく走れるんだって、びっくりした。」
ミホさんはそこで一度言葉を切った。
「走るの、好きなの?」
ヒナミは尋ねる。
「うん。誰よりもはやく。そう思って、トレーニングするようになった。」
ミホさんはいった。「誰よりもはやく。」ヒナミは口の中で繰り返した。それは、とても懐かしい言葉に思えた。
「でもね、毎朝走っていくその子にだけは追いつけなかった。その子が通るとね、あたしも後ろから追いかけてたんだ。でも、引き離されるだけだった。距離が縮んだ日は、一日もなかった。」
もしかしたら、もしかしたらだけど、ヒナミは音速少女を知っているかもしれない。ぼんやりと、そんなことを考えた。
「二年前かな、曲がり角でぶつかりかけて、それが最後で、見かけなくなったんだ。引っ越しちゃったのかな。私立の小学校の制服を着ていたんだけど、心当たりない? 見た感じからして、私たちと同い年じゃないかなって思うんだけど。」
ヒナミは黙って首を横に振る。
「前の学校、人が多かったから。」
「そっか、結局、勝てないままだったなー。どこの誰だか知らないけど、正面から勝負して、勝ちたいな。」
ミホさんは空を見上げる。
ヒナミは、何かをいおうとして口を開く。なのに、言葉が出てこなかった。
途中の分かれ道でミホさんと別れて、ヒナミはチサトちゃんと二人で歩く。
「ミホのいっていた音速少女、ヒナミさんですよね?」
二人になるのを待っていたかのように、チサトちゃんがいった。
「うん。たぶんね。」
ヒナミは答える。
「ミホはね、昔から音速少女を探してたんですよ。」
「そうなんだ。嬉しいな。自分に憧れてくれる人がいるのは。」
「いってあげないんですか、自分がそうだって。」
音速少女が走れなくなった。そんなことを知ったら、ミホはどうするんだろう。
「チサトちゃん。」
「なんですか?」
「もし、今の私なら、ミホちゃんに勝てるかな? かけっこ。」
チサトちゃんは、驚いたような表情の後、困った顔をした。
「ヒナミさん……なに考えてるんですか。」
本当は、ちょっとだけ「ヒナミさんなら勝てますよ」といってほしかった。まあ、無理だけど。
「冗談。」
ヒナミはチサトちゃんから目をそらしてからいった。
ヒナミの部屋の隅には、大きな水槽が置いてある。床の上に直接置いている。
水槽の中には、水が張ってあって、島のように石が置いてある。
石の上に、亀がいて、ぼんやりとした顔で床に座るヒナミを見つめる。
「どうしたらいいんだろうね。」
ヒナミは細く切ったササミを水槽に入れると、亀はぱくりと食べた。
「やっぱり、このまま何も知らないことにするのが一番なのかな。」
亀はササミを食べることに夢中で、ヒナミの声が聞こえていないようだいいよ。真剣に聞いてもらいたいわけじゃない、半分くらい、独り言だから。
「ヒナミ―。ちょっと来られる?」
お母さんが呼んでいる。
「すぐいく。」
机に立てかけた杖を使って、ゆっくり立ち上がる。
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