第四話 二年前の二年後

 風が吹く。ヒナミの後ろから、ウミの方向へ。

 首から下げた勾玉が、赤く光る。あったかい。熱を帯びている。

 ウミは大きく息を吸った。吸って、吸って、吸って。


「ギュゴオー。」


 音が響いた。とてつもない大音量で。

 ヒナミは思わず耳を塞ぎ、目をつむった。

 微かに目を開けると、叫んでいる、いや、吠えているウミが見えた。

 風が吹く。ウミから、ヒナミの方向へ。雨粒が、顔面に吹き付ける。

 やがて、ウミが吼え終わると、一気に静かになった。勾玉の光も消え、冷たくなる。耳が、キーンってする。

 ウミの後ろを自動車が、走り去る。

 ヒナミはゆっくりと、耳を塞いでいた手を離し、杖を握る。震えている。

 ウミは笑顔を浮かべて、ヒナミに歩み寄る。ヒナミは、思わず後ずさる。

「何を、したの。」

 ヒナミに答えるように、ウミはヒナミの後ろを指差す。

 神社へ続く石段の横、灯ろうの上にリリがいた。

「リリ……。」

 リリは、ヒナミから視線をそらした。

「ヒナミちゃん。」

 声がした。女の人の声。ヒナミは辺りを見回すが、ウミとリリしかいない。

「私を呼んだのは、ウミなの。」

 ウミは首を横に振る。

「私よ。ヒナミちゃん。」

 リリが、喋っていた。人間の言葉で。なんで。

「本当に、リリなの。」

 ヒナミの言葉に、リリはうなずく。

「ヒナミちゃんが、ユイちゃんと出会ったときのこと、覚えてる?」

 ヒナミはうなずいた。

 あれは、一年生の六月だった。休み時間、ユイがヒナミの机にやって来た。

 驚いた。それまで、ユイと喋ったことなんてなかった。まして、ヒナミの持っていたユイのイメージというのは、いつも一人でいるおとなしい人、だったから。

「あの……猫を探してほしいんですけど。」

 ユイがいうには、数日前、飼い猫が逃げ出して、探していた。何度か見かけたけど素早くて捕まえられない。だから、クラスで一番運動が得意なヒナミに手伝ってほしい。そういうことだった。

 ヒナミは手伝うといって、放課後、ユイと一緒にリリを探した。そして、見事、捕まえたのだった。

 ユイとの出会いは、そんなことだった。

「私が家出して、ユイちゃんはヒナミちゃんと仲良くなった。だから、何度も家出をしたの。それが、ユイちゃんを幸せにすると思っていた。」

 リリのいう通り。何度もリリは家出して、その度にユイと探しにいって、そのうちに仲よくなった。楽しかった。

「でも、ヒナミちゃんは、私のせいで車にはねられた。何度かユイちゃんの様子を見にいったけど、ずっと暗い表情でね、ため息ばっかりついていて。私のせいだ。私のせいなのよ。」

 ヒナミは、ショルダーバックの蓋を開けた。リリを、連れて帰るんだ。ユイと、約束したんだ。

「帰ろう、リリ。」

「帰れないよ。もう帰れないよ。ヒナミちゃんに大怪我をさせて、ユイちゃんを悲しませて、帰れないよ。」

 そのとき、ウミがヒナミの手を引っ張った。ヒナミは杖から手を離した。

 ウミは、ヒナミの手をリリの額に触れさせる。

「ヒナミちゃんの手、あったかい。」

 リリはつぶやいた。

「帰ろ、リリ。」

 ヒナミがいうと、リリはうなずきショルダーバックに飛び込んだ。


 神社の横の坂をずっと上っていったところに、ユイの家がある。そこに着く頃には、辺りは真っ暗になっていた。

 ヒナミは、門柱のインターホンを押した。

 しばらくして、ドアが開く。出てきたのは、ユイだった。

「ヒナミちゃん、ずぶぬれじゃない。雨の中で何やってるのよ。」

 ヒナミはバックの蓋を開けた。リリが顔を出す。

「約束。リリを見つけてきたよ。」

 ヒナミは笑う。

「その子は。」

 ユイは、ヒナミの影に隠れるウミを見ていた。

「えっと、ウミっていって、親戚の子。うん。そう、親戚の子。」

 ユイは不思議そうな目でウミを見ながら、「とりあえず入りなよ。」といった。


 ユイの家のお風呂に入れてもらったのは、いつ以来だろうか。そっか、三年生のときのパジャマパーティー以来か。

 洗い場の椅子に座ったヒナミの頭から、ユイがシャワーを浴びせる。

「ヒナミ、私のこと追いかけて来てくれたの。」

 ユイは、戸惑いがちにいった。

「お別れをいいに来たんだ。今までアリガトね。ユイ。四月から、転校することになったんだ。」

「そうなんだ。」

 シャワーの音に混ざって、ユイの声が聞こえた。

「うん。もう一回、四年生だって。もっと勉強しとけば天才小学生になれたかも。惜しいことした。」

「ヒナミちゃん、算数苦手だもんね。頑張ってね。四年生、なにやったっけ……あれだ、割り算のひっ算だ。」

 残念ながら、算数だけが苦手なわけじゃない。

 ユイはシャワーを止めた。

「ヒナミちゃん。私のこと、許してくれるの。」

「許せないよ。」

 笑顔で、ヒナミはいった。

「はじめから、恨んでなんかいないからね。」

 ユイの「ありがとう」という声が聞こえた。

 そうだ、思いだした。ヒナミは尋ねる。

「そういえばさ、学校対抗の百メートル走、どうなったの?」

 ヒナミが学校の代表に選ばれてたやつだ。

「あれね、あれは岡田さんが代表になって、優勝してた。」

 ユイは、いいづらそうにいった。

「そっか。」

 岡田さん、走るのはやかったもんね。

「ねえ、ヒナミちゃん。」

 ユイは、ヒナミの足に手を添えた。

「痛くなったら、いってね。私、なにもできないけど、なんとかするから。」

 そんなこといわれたら、泣きそうになる。ヒナミは洗面器を手に取ると、入っていたお湯を自分の顔にぶっかけた。


 ヒナミには大きすぎるユイの服を借りて、リビングにあるソファーに座らせてもらっている。

 ユイは、ジュースを出すといって、台所へいった。

 ユイのお母さんが、ヒナミの家に電話をかけている声が聞こえる。後で相当怒られるだろうな。でも、後悔はしていない。

 感触があり、足を見る。ズボンに爪をひっかけて、亀が登っていた。

「駄目だよ、借り物の服だから。」

 ヒナミは亀をそっと掴み、甲羅をなでる。亀は甲羅に手足と尻尾、頭を入れると、目をつむる。

「ありがとう。ゆっくり休んで。」

 ヒナミはそういうと、リリを連れてくるときに使ったショルダーバックに亀を入れた。


 迎えに来たお母さんは、ヒナミのことを叱った。ヒナミは素直に「ごめんなさい」をした。

 ユイは家の前まで見送りに出てくれた。ユイに抱かれて、リリも一緒だ。

 お母さんの自動車が、門の前に止まっている。ヒナミはゆっくり、自動車にむかう。

「ヒナミちゃん。」

 リリの声がした。ヒナミは立ち止まり、ふり返る。

「ヒナミちゃん。うわさに聞いたの。本当かどうかわからないだけどね、伝説の泉があるらしいの。昔、足を痛めたシラサギが、その泉に入ると、傷が治ったって。どこにあるのかわからないけど、この近くだって。」

 リリは、早口で一気にいった。

「どうしたの?」

 お母さんが尋ねる。ユイも不思議そうにヒナミを見ている。

「ごめん、なんでもない。」

 ヒナミはそういうと、車の後部座席に乗り込んだ。


 ハンドルを握るお母さんの背中に、ヒナミは話しかける。

「ねえ、お母さん。」

「なに?」

 もっと不機嫌そうな口調で返ってくると思っていたのに、そんなことなかった。普通の口調だ。

「亀、飼いたいんだけど、いいかな?」

 ショルダーバックから、甲羅に引っ込んでいる亀を出し、バックミラーに映る場所にかざす。

 赤信号だ。お母さんは緩いブレーキで車を止める。

 すぐ横に、路面電車が止まった。こちらも信号待ちだ。

「ヒナミが責任を持つのよ。」

 お母さんはいった。

 ヒナミは、うなずいた。

 

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