第23話 世界一幸せな女の子
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初めて誰かに好きだと言った。
その誰かは、僕が一番愛している人。
今出会った人の中で一番輝いていた人。
だから答えなんてなくていい。これは僕の我儘だ。ただ伝えたくなった、それだけの話だ。
目の前にいる、今僕が告白した人はポロポロと涙を零した。
目を丸くしながら涙を流しているのを見て、どうやら嫌で泣いている訳では無いのだと悟る。
せっかく看護士さんが綺麗にしてくれたのに、それじゃあ台無しじゃないか。
あの日は君の涙を拭う事が出来なかった。でも今は違う。今の僕はその涙を拭う事が出来る。
雪葉の目元に触れると、彼女は耳まで真っ赤にして驚いていた。
前々から、顔立ちの整った子だとは思っていたけれど、今日の彼女は飛び切り可愛い。
僕が笑うと、釣られて彼女も笑った。でも雪葉が僕の告白に答えることはなかった。それがなんでかは分からないけど、多分それが彼女なりの答えなのだ。
彼女の涙に、何か理由があるのだとしても、僕はそれを聞く気にはなれない。
雪葉の瞳は、静かに僕の心を諭していった。
そのせいだろうか。
僕はそれ以上自分からその事については何も言わなかった。
満開の桜が、風に舞ってヒラヒラと揺れる。
僕と雪葉は、桜が連なる道を少し歩いてから、木の下に腰を下ろした。
芝生の柔らかな感触が、腰周りを包む。
試しに寝そべってみると、桜の雨が僕の全身を襲ってきた。
「本当に、綺麗だな。」
桜なんて、これまで何回も見てきたはずなのに、どうしてか今日の桜は特別に美しく感じる。
その理由はすぐに察した。
——それは、彼女が一緒だから。
車椅子に座りながら顔を上げて桜を見る雪葉は、にこりと微笑んだ。
「うん。凄く素敵。」
二人で桜を眺める時が来るなんて、本当に夢みたいだ。
その空間には、二人だけの時が流れる。僕と彼女の間を隔てる物は何も無い。
今、自分の隣に雪葉がいる事が言葉に出来ないくらいに嬉しくて幸せで。
今だけは、彼女以外の何もいらないとすら感じてしまう。
それから二時間くらい僕と雪葉は話しをした。今までの三年間の事、海花や秋上のこと。そうしたら雪葉は「私、秋上ちゃんと仲良くなったんだー」なんて僕の知らない話をした。
相変わらず女子ネットワークは怖いな、なんて思いながら苦笑する。
僕と雪葉の間にある三年という時間はすごく深い溝と思っていた。でもこうやって少し話すだけで空いていた時間が埋まっていく。
それだけじゃない。心が満たされていく。
やっぱり雪葉は不思議なやつだ。
この時間がずっと続けばいいのに。いつの日かと同じ感情が胸の中に押し寄せてくる。でもこれからはたくさんの日々を雪葉と過ごしていこうと、心の中ではそう決めた。
雪葉と共に過ごす時間は、いつもあっという間だ。
いつの間にか太陽が赤く染まってもうそろそろ病室に戻る時間になっていた。
地べたに座っていたので尻についた砂を払ってから車椅子の取っ手を握る。来た道を戻ろうと車椅子を押し出すと「待って。」と彼女が言う。
その声色がいつもと違っていて違和感を感じる。
僕は何かあったのかと、雪葉の前に行った。
彼女は少し黙り込んだあと、にっこり笑う。
「もうそろそろ別れの時間だね。」
それは病室に戻ることなのだと思って、そうだね、と答えると雪葉はまた黙り込んだ。
何か不安な事があるのか聞いても雪葉は何も答えない。不安を和らげる為に手取ろうとした瞬間、僕は気づいてしまった。
「なんで……手が無いんだ……?」
手だけじゃない。足も消えている。丸で手足は元からなかったかの様に、何も無くなっていた。
パラパラと塵のように風の中に溶けていく彼女の体に、僕の頭は真っ白になっていた。
どうして、どうして!?雪葉は許されなのではなかったのか? 雪葉はもう幸せに生きられるじゃないのか!?
目の前に広がる現実に、理解が追いつかない。
「——ごめんね、永遠くん。」
彼女のその言葉が、全てを語っていた。
嫌でもその意味を理解してしまう。必死に否定しようとも、一度頭によぎった答えからは目を逸らせない。
目が眩んで視界がぐにゃりと歪んでいく。
さっきまであんなに幸せそうだったのに。どうしてそんなに苦しそうな声で僕の名前を呼ぶんだろう。
どうして君はこんな時でさえ笑ってしまうんだろう。
「私、幸せ者だよね。ずっとずっと好きだった永遠くんに好きって言って貰えて……。三年も生きられて……本当、世界一幸せだなぁ……。」
「喋るな!それより早く何とかしないと……」
雪葉は首を横に振る。
どうして。そう言いかけようとした刹那、手の甲に何かが落ちてくる。
冷たい雨のような雫が、とめどなく降り注ぐ。
顔を上げると、雪葉はいつものように笑っていた。
……そして泣いていた。
そこでやっと理解する。
ああ、そうか。雪葉はずっと笑っていたんじゃない。笑うしか選択肢がなかったんだ。
どんなに残酷で苦しくて泣いて叫んだって、彼女にとって未来は変わらない。誰も助けてはくれない。なら笑うしかないじゃないか。そうやって目の前に突きつけられた現実を、受け入れるしかないじゃないか。
一番近くにいたのに、一番彼女を想ってきたのに。そんな簡単な事にも気付けなかったのか、僕は。
「私、永遠くんの事笑わせてあげたかったなぁ……。私だけじゃなくて永遠くんにも幸せになって欲しかった……。」
雪葉の体はどんどん消えていく。もう腕まで消えていた。
ダメだダメだ! このまま消えるなんて……!
僕の思考は働かず、目の前で泣いている雪葉をただ見ているだけだった。
何とかして、雪葉を生かす方法を考えなくちゃいけないのに、その案が思い付かない。
「私ね……消えたくないよ……。もっと永遠くんといたいよ……。一緒に……いたい……!」
雪葉の声は震えていた。
その言葉は、彼女の願い。彼女の祈り。
今まで一人で抱えて、雪葉自身が無くそうとした感情。
桜の雨が降り止まないように、彼女の本当の心もとめどなく溢れ出る。
今までも願っていたじゃないか。雪葉とずっといられるようにって。なのに……。
一体、この三年間は何だったのだろうか。結局、雪葉を救った気になっていただけだ。
何も出来ない無力で非力な自分を呪い殺したくなる。
そんな事を考えている間にもゆっくりと、でも着実に。
雪葉の体はほぼ完全に消えていた。そして顔も消え始める。
僕は雪葉の弱さを知った。そしてそれを抱き締めた。でも彼女にとってそれは決して終わりではない。
待ってくれ、いかないでくれ……僕がなんでもするから……だから!
「ありがとう、永遠くん。私もずっとずっと永遠くんの事大好きだよ。大好き、だよ……。」
やめろ。その先は言わないでくれ……。
「大好き、だよ。永遠くん、泣かないで……さよ、なら」
雪葉の笑顔が、胸に染みていく。
手を伸ばし、ぎゅっと掴んだのはただの残像。
繋ぎ止めたかった。でも抱きしめた時には彼女はもう塵一つ残ってはいなかった。
残るのは、車椅子と桜と僕と、……そして彼女の涙の跡だけ。
車いすの座椅子には舞った花びらがひらりと落ちていく。車いすの上には淡いピンク色の膝掛けがあって、そこにはまだ微かな温もりが残っていた。
僕はその膝掛けを抱きしめ、大量の桜が見守る中でただひたすらに泣き続けた。
「うっ……うっ、うわあああ!」
雪葉は、世界一幸せな女の子は——この世から消えた。
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