第24話 泣いていいかな、雪葉

 ——歩く足音が、暗い廊下に響き渡る。


 足取りが重いまま、コツンコツンと、足音が静寂の中で響いていた。

 朧気な頭で、僕は天井を仰いだ。真っ白な天井を。

 あれからどうしたんだっけ。確か病室に行って、それから……。もうどうでもいいか。

 そういえばそろそろ病室に行かなくちゃ。彼女が待ってる。

 ……彼女って誰だっけ。

 ああ、そうだ。彼女は雪葉でそれで……彼女はもう居ないんだ。どこにも。


 ——この世界のどこにも。


 一日経った今、僕は放心状態で、いつものように病院の扉をくぐった。

 けれどこの廊下を歩く必要は、もう無い。この病院に来ることも、その道のりをなぞる事も。全て。

 もう無いんだ。意味も、必要も、理由も。

 なのにどうして僕はまたこの病室に来ているだろう。もう何も無いこの場所に。

 雪葉の居なくなった病室からは、微かに彼女の残り香がした。暖かくて、華やかな匂い。

 静寂に満ちた病室からは、カーテンが独りでに揺れている。

 昨日と同じくらいに暖かな陽だまりが、白いシーツを照らしていた。

 開いた窓から入ってくる風は、暖かいはずなのに、その温度を感じない。

 冷たい。寒い。ここは本当に昨日と同じ場所なのだろうか。

 もしかしたら僕は気付いていない間に、死んでしまったのかもしれない。

 そうだ。きっとそうなんだろう。だって、そうじゃないのなら……。


 ——なんで僕は生きている?


 光を失った世界は、僕の心に響かなかった。

 麗らかな日差しの下、桜が窓から入ってくる。

 ヒラヒラと舞い散る桜を、僕は睨み付けた。この花びら達が彼女を消し去っていったんだ。

 物に、ましてや花に当たっても仕方が無い事は分かっている。それでも僕は、この苦しい程に切ないこの感情を、どこかにぶつけたかった。

 花びら一枚が僕の前を通る。自然とその花を追うと、花びらはベットに備え付けてある棚の上に落ちた。そこに何かがあるのに気づく。

 これは……手紙? まさか。

 力の無い手で手紙をとると、白い封筒には『稲月永遠君へ』と書いてあった。裏には『色織雪葉』の字が。

 急いで封筒を開けて中身を見る。


「拝啓、稲月永遠様。

 この手紙を読んでいる時、私はもういないでしょう。なんて少しマンガみたいな書き方だね。これからはここに書くのは全ての真実です。まずは私が消えた理由から話します。永遠くんには私が神様とあった事があるって前に話したよね。実は目を覚ます前にまたその神様に会いました。そしてその神様から言われたのは、私が眠り始めてから三年が経った春、桜が満開になった時に私は消えるということです。神様は呪いを解く方法をもう一つ隠していました。『それは永遠くんが私に告白する事。』あの日、永遠くんは私が消える寸前に本当の気持ちを言ってくれた。でも神様はそれを呪いを解くには値しないって考えたの。でもだからといってこのまま私にを消すのも惜しい。だから神様は三年という猶予を与えてくれたの。まぁ、ほとんどの時間を寝ちゃて過ごしちゃったんだけどね。そして私が目を覚ましたのが三年後の桜が咲く寸前の春。だから私は今年、桜が満開になった時に消えちゃうんだって。ほんと、永遠くんには沢山待たせちゃったな。

 という事で、これが真実です。受け入れてくれ、なんて言わないけど心のどこかでこの事を覚えていて欲しいな。

 じゃあここからは私の私情です。

 多分永遠くんは桜を見た時、私に『好き』って言ってくれるでしょう。でも私はその言葉に返事をする事は出来ません。何故なら私のはずるい人間だから。こんなずるい人間が永遠くんと付き合う事なんてできないから。だから別に永遠くんを嫌いになったんだ訳では有りません。絶対に!これは神様にも言えちゃうくらい本気だから!

 さてと。実はこの手紙、夜に書いているのです。だから私はそろそろ寝なくちゃいけないのでこの辺で。

 明日は永遠くんとどんな事を話そうかな、なんちゃって。

 最後に、永遠くん。私は貴方に会えて幸せでした。すっごく幸せでした。だからこれは私のお願いです。永遠くんには前を向いて私の分まで生きて欲しい。幸せになって欲しい。あと結婚して欲しい! もちろん永遠くんがちゃんと好きになった人とね。

 私はずっと永遠くんの事が大好きです。大好きです! 絶対に私は永遠くんを忘れないからね。それじゃあバイバイ!

 永遠くんの事が大好きな 色織雪葉」


 手紙を読み終えるといつの間にか涙が出ていた。雪葉の最後の言葉を思い出す。


「永遠くん、泣かないで」だって?


「無理だよ、雪葉……。」

 彼女の思いが沢山込められた手紙に、雫が落ちていく。

 ゆっくりと紙に染みていき、手紙の文字が滲んでいった。

 胸が締め付けられて、どうしようもなく涙が溢れてくる。

 痛い。身体中が痛くて苦しくて。君を思うだけで、こんなにも胸が張り裂けてしまいそうだ。


 ——どうして、もう彼女に会えないのだろう。

 ——どうして、彼女の笑顔を見れないんだろう。

 ——どうして、僕は……。


 手紙をぎゅっと握りしめ、ベットに蹲る。

 シーツに残る彼女の匂いが、もう雪葉がいないのだと、僕に告げる。

 彼女が昨日までは確かにそこにいたんだ。でもたった数分。その数分で彼女は消えてしまった。その姿が今も離れなくて、脳裏に焼き付いていて。

 ……ああ、そうだ。僕は彼女が好きだったんだ。でも結局なんの意味もなかった。

 この三年間、なんの意味も。

 今までは君が生きていた。だからどうにか頑張ってこられた。

 辛くても苦しくても雪葉がいたから頑張ったんだ。

 でも今は生きる意味がいない。

 君がいない。

 そんな明日を僕は望みたくない。

 僕は君のいない世界でどう生きればいいか分からない。


「分からないよ……。」


 今頃、彼女は怒っているのだろうか。それとも悲しんでいるのだろうか。

 もう二度と会えることの無い彼女を思うだけで、こんなにも胸が痛い。

 針に刺されたような痛みが全身から込み上げてくる。

 悲痛な声が、ただ口から漏れ出てしまう。

 ただもう一度、彼女に。雪葉に会いたい。

 昨日までは、すぐに叶ったその願いも、今では神ですら叶える事は出来ないだろう。

 彼女の事を考えるだけで涙が出る。いつかこの涙が止まる日は来るのだろうか。

 その時はきっと桜が散ってしまった後かもしれない。

 きっと誰も君を覚えていない時かもしれない。

 僕はきっと雪葉の最後の願いを叶えるのにかなりの時間を使うだろう。

 君の全てを受け入れて涙を拭って未来を、明日を見据える日が来るだろう。

 僕はいつか前を向いて進んでいく。それが君の願いだから。君がそれでどこかで笑っていられるのなら。今は少しつらいけれどまた頑張ろう。

 だから今だけは。少しだけ。


 泣いていいかな、雪葉。





 ‪✿‬


 沢山泣いて、目も乾いて、それでも歩いて病院を出た直後のことだった。


「——お久しぶりですね、永遠さん。」


 何処か懐かしいその声を、僕は知っている。

 僕の目の前に立っていたのは、紫蘭さんだった。

 紫蘭さんは、雪葉と過ごした冬休みの中、訪れた喫茶店のオーナーをしていた。

 かれこれ三年程会っていなかったのに、僕は彼の事をすぐに思い出した。

「お久しぶりです、紫蘭さん。」

 何故、病院の前にいるのだろうと、疑問に思いながら、僕は愛想笑いで返した。

 紫蘭さんは僕の顔をまじまじと見ると、少し寂しそうに笑った。

「随分と、変わられたのですね。」

「ええ、まあ、色々と……。」


「それは、雪葉さんがいなくなったから?」


 僕の心をグサリと刺すような言葉に、僕は何も言えずに黙り込んだ。

 ——何故、この人はそれを知っているのだろう。

 この三年間、雪葉は寝たきりだった。目覚めた後は僕と一緒だったし、紫蘭さんと会うはずない。

 不信感に包まれながら僕は紫蘭さんと顔を合わせないように俯いた。

 そんな僕を見て、何かを考えたあと紫蘭さんは尋ねる。


「貴方にとって、この結末は本当に望んだものですか?」


 パッと顔を上げると、そこには冷たいく凍り付くような瞳で僕を見つめる紫蘭さんがいた。

 まるで僕の心を探るような目線。

 今更ながら、この人は本当にただの喫茶店のオーナーなのだろうか。

 ただの店主だったら、どうしてこんなにも僕の心を掻き乱すのだろう。

「そ、れは……。」

 答えを上手く導き出せない。

 彼のその質問の意図を、僕は知っている。

 そして多分、この人は雪葉の秘密も知っている。

 どうして彼女が消えたのか、どうして彼女があんなにも苦しんだのか。

 まるで神様のように、全てを見通している。

 そんな人には、どう答えるのが正解なのだろう。

 なんて事を悩んだ挙句、僕はやっと口を開けた。


「後悔してない、と言えば嘘になります。だって僕は雪葉に何もしてあげられなかった。彼女の望みを叶えてあげることすら。でも……でも……。」


 その光景を思い出す度に、今にも胸が張り裂けそうだ。

 自然と目頭が熱くなって、あの時の彼女の笑顔が頭から離れない。

 誰よりも幸せそうに微笑んで、そして誰よりも美しく消えていった彼女。

 ——ああ。そうだ。今更思い出すなんて、本当にはつくづく馬鹿な男だ。


「でも、雪葉は最期に笑ってくれたんです。なら、きっとこの道が彼女にとって、一番幸せな道だったはずです。僕は、それを否定したくはありません。」


 今、もしも過去な戻れると言うのなら。

 僕はそれを認めない。だって、彼女は笑っていた。

 最期にとびきりの笑顔を僕に見せてくれた。

 過去に戻ったら、その全てが嘘になる。

 そんな事、絶対にさせてはいけない。僕だけは、彼女の全てを肯定したい。

 そんな僕の瞳に、紫蘭さんは笑顔を零した。

 とても柔らかく、優しく。でも、何処か切なげに。


「道を選ぶのは、いつだって怖いはず。でも貴方はそれを乗り越えたんですね。なら……もう私がここにいる意味はありません。」


 僕の前に立っていた紫蘭さんから光が溢れ出す。

 その光に触れる度紫蘭さんの体は塵に返った。

「これは……!?紫蘭さん、貴方は一体……。」

 紫蘭さんは優しく微笑みながら、僕に伝えてくれた。


「私は、ある世界の雪葉さんに頼まれてここに来たのです。その世界の彼女は、自分がいつか消えていくことに怯え、そして同時に貴方の心配をしていました。『私が消えた後、永遠くんが苦しんでいないか』と。だから私は貴方の様子を見に来たのです。雪葉さんの心配は杞憂だったみたいですけれどね。」


 ある世界の雪葉。

 それは、この世に幾つもある並行世界の雪葉だ。

 僕が出会った彼女とは、また別の……呪いに苦しめられ続けている雪葉。

 僕はその世界の彼女に何もしてあげられることは無いけれど、でも……。


「なら、その雪葉に伝えてください。——いつでも僕は君を思っていると。」


 光に飲み込まれる中、紫蘭さんは嬉しそうに微笑んだ。

「承りました。私、願いを叶える者紫蘭が、その役目を果たしましょう。そして永遠さん。いつかまた会える日を心待ちにしておりますよ。」


 そう言って、紫蘭さんは光の中に溶けていった。

 結局、紫蘭さんが何者なのかは分からずじまいだけれど、不思議と気分は晴れ晴れしている。


「——別の世界の雪葉、か。」


 その世界の彼女は多分、必死に取り繕った笑顔で生きている。

 救いを望まず、自分の結末を受け入れ、一人で全てを抱え込んでいるのだろうか。

「救え。絶対に救ってやれよ、僕。」

 その言葉が届くことは無い。

 恐らく、その世界の僕は何も知らないまま彼女が消えていく光景を眺めているのだろう。

 それでも、きっとどこかの世界には、あるはずなんだ。

 ——色織雪葉が幸せにくらせる世界が。


 いつになく、僕は神に祈る。

 その神が、例え彼女に残酷な試練を与えた、最悪な神であったとしても。

 ——どうか、いつか。彼女が本当に幸せになれますように。

 後悔は消えない。過去へは戻れない。でも祈る事はできる。

 僕が雪葉と過ごしたあの日々が色褪せないように。


 僕はまた、新しい一歩を踏み出した。

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