オレンジとラスプーチン
増田朋美
オレンジとラスプーチン
オレンジとラスプーチン
その日は、年に一度か二度しかやってこないすごい雪になるといわれていたが、あろうことか、それはどこかに行ってしまって、素晴らしい晴天になってしまった。こうなると、休校と処置を取っていた学校は大外れで、急遽生徒たちは、いやそうな顔をして学校に通っていた。製鉄所でもあわただしい顔をして、利用者たちが、学校や職場などに出かけて行った。
あわただしい朝が終わって、暫く製鉄所も静かになった。
「みんな行ったね。」
ちょうど、水穂の体を、清拭していた杉三は、利用者たちが出かけて行く音を聞いて、そんなことをいった。
「まあ、みんな元気に出かけていくのは、いいことなんだろうけれど、ちょっと、製鉄所もさびれてきたかねえ。」
確かに、製鉄所が繁盛しないという事は、皆居場所があって、平和な生活をしているんだろうという事であるが、人がいないということは、ちょっと寂しいものであった。
「また誰かが来てくれるといいんだけど、それは世のなかが悪くなったという事だからな。そうなると、ちょっと、世情が心配になるよなあ。まあ、平和な世のなかになった以上、お前さんも、頑張れや。」
ほぼ、骨と皮というか、ただ骸骨にビニールシートをかぶせただけと思われるほど、やせ細ってしまった水穂の体を拭きながら、杉三はそう呟いたのであった。背中は、膿痂疹だらけでほとんど正常な皮膚というものはなかった。普通の人なら、こういう姿になった水穂を見て、気持ち悪いとか言って、逃げていくんだろう。中には、戦時中とほとんど変わらないという、年寄りもいるかもしれない。それをしないで、黙って背中を拭くことができるのは、杉ちゃんだけだった。
「ほい。終了。じゃあ、今日はここまでにして、寝間着、着てくれるか。」
杉三にいわれて、水穂は、亀よりも遅いペースで寝間着を着た。こういう時も杉三は一切手伝わなかった。
ちょうどその時、ごめんくださいという声がして、玄関の戸が開く音がした。
「あれ、今頃誰だろ。」
と、杉三と水穂は顔を見合わせる。
「ちょっと、誰も居ないの?それなら、入りますよ。すみません、上がりますね。」
たぶん、声の感じから判断すると、女性の様である。
「由紀子さんでも来たのかなあ?」
と杉三がいうが、今日は、平日。由紀子さんは、駅員業務に出かけている筈である。それでは
誰だろうと考えていると、女性の足音はどんどんでかい音になって、ついにこんにちはと声がして、その人が入ってきた。
「あ!お前さんはグレゴリー・ラスプーチンだな。悪いけど、お前さんには用はないぜ。今日の所は帰ってもよろしいでしょうか!」
やってきたのは、小杉道子だった。杉三は、この人が嫌いだった。道子も、彼が自分のことを嫌っているということは知っていた。
「杉ちゃんこと、影山杉三さんだったわよね。今日は、あなたにも聞いてほしい話があって、それでこっちへ来させて貰ったの。」
道子は、杉ちゃんにそういうのだが、
「何だよ、ラスプーチンの説法に用はないよ。帰ってくれ。」
と、一蹴されてしまった。
「今日は、大事な話だから、聞いてもらえないかしらね。これは水穂さんにとっても大事な話だから。」
「うるさいなあ。」
道子がいくら大事な話だと言っても、杉三はいつまでもこんな調子のままであった。道子も、どうしてこんなに頑固なんだろう、と杉ちゃんの顔を見ながら考えていた。このままではいつまでたっても平行線で終ってしまうかなあと考えていた時、隣に座っていた水穂さんが、話を聞こうと杉ちゃんに言って、やっと発言できるようになった。
「じゃあ、その話とやらを聞かせてもらおう。」
杉ちゃんの疑い深い態度が気になったが、道子は発言してしまうことにした。
「じゃあいうわ。水穂さんに、新しい薬の実験台になってもらいたいの。その許可がほしいのよ。」
「はあ、そうですか。それならお断りだ。そんな危険なことはできませんよ。いろんな人がお前さんに言っていると思うけど、まだわからんのか?」
道子が発言すると、杉三はからからとわらった。
「ええ、すでに他の人からも断わられたわ。でも、諦められないの。其れはなんでだと思う?」
道子はもう一回言うと、
「答えなら、簡単だよ。お前さんは、水穂さんを実験台にして、新しい薬の成果を学会にでも報告してさ、名声でもほしいからだ。そういう事ならお断りだ。水穂さんではなく、どこかよそでやってきて頂戴な。」
杉三はそう答えをだした。道子は、クイズ番組の司会者にでもなった気分で、
「いいえ違います!」
と、はっきりと言った。
「じゃあなんだよ!他にお前さんがこっちに来る理由なんてないだろう?偉いやつというのは大体そういうもんさね。お前さんもきれいな顔して、そういうこというから、一見するといいことしている様にみえるんだけどよ。化けの皮がはがれれば、私利私欲丸出しだってことに、気が付かんよな。」
と、杉三もいい返した。
「だからこそグレゴリー・ラスプーチンというのさ。どうせ、いい顔しているから偉い人に見られるだけの事であってな。だから、僕たちにはいい迷惑なのよ。それくらい知らないでどうするの。そういうことがわかったら、直ぐに帰っていただけないものでしょうかな。」
「そういう事じゃないわ!あたしは、ちゃんとこの人を助けたいと思って、実験に協力してもらいたい
と言っているのよ!そんな時に私利私欲とか、そういうことを言わないでもらえないかしら!」
道子はこういわれて、一寸どころか、強く怒りが出てしまって、思わず畳を叩いてしまったほどである。
「どうかねエ。お前さんの思いというのは、果たして真実に近いのかなあ。どうだか疑わしいなあ。そういう思いでは水穂さんの病気には通用しないぞ。そういう事じゃなくて、偉い奴らというのはな、必ず私利私欲ってものがくっ付いてくるから嫌なんだよ。その違いというのは、偉い奴らには絶対にわからんよ。そういうもんだろう。まあ、それのおかげで、病人が何とかなると言うのも確かだから、そればかりが悪いわけでもないがな。」
「杉ちゃん、そういう思いがあるのなら、其れ、あたしたちにも半分分けてもらえないかしら。そういう気持ちがあるんだったら、あたしたちに、それを預けてくれれば、あたしたちだってやる気をだすことだって、できるんじゃないかしら。お願い、あたしたちのことを信じて貰いたいの。あたしたちは、そういう汚いことは一つもないから。」
杉ちゃんがそういうので、道子はそういってみたのだが、杉ちゃんは、へんと鼻を鳴らした。
「それでも、水穂さんはお前さんには絶対に渡さんよ。僕たちは、水穂さんに、病院の中で一人寂しく逝ってしまうのだけはしてもらいたくないから。病院に預けたりしたら、絶対にそうなるから、お前さんには預けられませんね。」
どうしてそんなに頑固なんだろう。何か特別な理由でもあるのかもしれないけど、残念ながらそこまでは道子にはわからなかった。
「杉ちゃんもういいよ。僕が実験台になればそれでいいことじゃないの。だったら、僕がそうなればそれでいいよ。」
しまいには水穂さんがそういうことを言い出す。
「ばかだなあ。お前さんが言ってどうするの?それでは、こいつの思うつぼだい。そういう風に、わざとやらなくちゃいけないのかなと思わせるのは、こういうやつらの常套手段なの。いわば悪徳商法だ。そういうのにだまされたら、後悔するのはお前さんの方なんだぞ。弱っている奴に、判断は出来んよ。だからこうして止めてやってるんだろうが。ありがたく思え。」
いくら言っても、杉ちゃんだけは意思を変えなかった。しまいにはこういうことを言い出す始末なのだ。
「お前さんは、治療を施して何とかしてやって、結果をださせることを、愛情だと勘違いしているんだろが、それは間違いだ。どれくらいまちがえているか、誰かのを見て勉強するんだな。そうだなあ、誰を見て勉強したらいいんだろうな。」
道子はどうしてこんなに馬鹿にされなきゃいけないんだろうと思いながら、その話を聞いていた。勉強なんて自分は医者なんだ、患者さんの症状を治してやれるのは、自分にしか出来ないじゃないか。そういうことをしっているのに、なんで自分が誰かのを見て勉強しろなんて言わなければいけないんだろう。
「杉ちゃん。ちょっと手伝ってもらえないかな。三時くらいには帰ってきますので。」
玄関先から、誰かの声がした。誰だろうと道子が考えていると、
「おう、いま取り込み中で手が離せないのよ。上がってきてくれる?」
と、杉ちゃんは、返答した。相手は、わかったよと言った。道子は、手伝ってくれと言っているのだから、手伝った方がいいのではないかと思ったが、杉ちゃんはびくともしなかった。代わりに布団に座っていた水穂さんが二、三度咳をしたので、もう横になるか、等と声をかけたりした。横になるなら私も手伝いますよ、と道子は申し出たが、いや、ラスプーチンに用はないと断わられてしまった。
水穂さんんが、布団に横になったのと同時に、客人は四畳半にやってきた。ちょっと足をひきずってやってきたのは、吉田元雄と、曙子夫妻である。
「何だ、曙子さんたちか。今日は一体どうしたの?」
杉三がそういうと、
「いや、今日は、皆さんで食べてもらおうと思って。これ、曙子が、ミカン狩りに行って貰ってきました。」
と、素雄は説明した。確かに曙子は竹籠を持っていた。その中には、大量のオレンジが入っていた。二人は、ちょっと座らせてくださいと言って、布団の横に座る。
「曙子が支援施設のメンバーさんと一緒に真鶴のミカン園に行って、取ってきたんですが、二人だけではどうも食べきれなくて、ここで皆さんに食べてもらったらよろしいのではないかと思いまして。」
「ははあなるほど。」
杉ちゃんは、その魂胆を読み取ったらしいが、道子にはわからなかった。
「じゃあ、いまから、みんなで食べようか。そうしようぜ。」
そういうと、そうですねと言って、水穂さんも、木の枝にビニールシートをかぶせたような痩せた手で、よいこらしょと布団の上に起き上がった。
「よっしゃ。ミカンを食べるには皮をむく作業がいるな。よし、ちょっと皮をむく手本でも診せてやってくれ。」
「わかりました。」
素雄が、ミカンを一つ取って、丁寧に皮をむいた。道子は、それをオレンジだと思っていたので、皮を手でむけることにとてもおどろいた。
「ミカンの袋って取ったほうがいいですかね?」
素雄が聞くと、
「いや、そのまま食わせろ。」
杉ちゃんは言った。
「そうですか。水穂さんのどに詰めるとたいへんじゃないかと思ったんですが。」
と、素雄はいうが、
「そのままでいいんだよ。それくらい噛み砕けなくてどうするの?」
杉三はからからと笑った。
「よし、皮を剥いたらそのまま水穂さんに渡してくれ。袋を取るとかそういうことは、こいつに全部やらせろ。そのほうが、早く食べられるってもんよ。」
杉三の指示に素雄はその通りにした。道子は、何という酷いことをするんだと思ったが、誰もそれに気が付いている人は誰も居ないのか。
素雄は、その間にも別のミカンの皮を剥いて、曙子を始め、他の人にも配る。道子にも配ったが、なぜか道子は受け取る気にならなかった。
「ようし、食おうぜ!いただきまあす!」
杉三がにこやかにいって、ミカンにかぶりついた。みんな袋を取って食べているのに、杉ちゃんだけが袋ごと食べていた。杉ちゃんよくそんな風に食べられるなと思ってしまうのだが、平気な顔をして食べている。
「どうですかね。これなら、当たることもないでしょう。ミカンですから、油が含まれている訳でもありませんし、余分なたんぱく質があるわけでもありませんから。」
素雄がそういうと、皆にこやかにわらった。
「そうだなあ。どんな栄養食にも、こういうもんには敵わないな。」
杉三が、にこやかに笑う。そういう言葉が飛び交う何て、なんと和やかな雰囲気なのだろう。道子は何だかその雰囲気に取り残されてしまったような気がして、一人でぽつんと座っていた。
でも、水穂さんは、笑っている。楽しそうだ。ミカンがおいしいからという訳ではなさそうだが、きれいな人であるから表情ははっきりしており、楽しそうな表情である。素雄が、曙子の通っている支援施設の話などをすると、そうですかと相槌を打ちながら、楽しそうにその話を聞いているのであった。
道子は、あまりその意味はわからなかったが、杉ちゃんたちのしていることは、あたしたち医者のしていることとは違うんだなという事は何となく理解できた。それはきっと、この人を患者さんとみなしていないで、他の人と同様にミカンを食べている所から、できるのではないかと思われた。
そんな風景をボケっと眺めていると、いきなり、咳き込んでいる音がし始めたので、道子はハッと我に帰る。
「おい、ミカンを詰まらせたな。馬鹿、何をやってるんだ!」
杉ちゃんが、そういうと、素雄が、急いで水穂の後ろに回って、背中をバシバシと叩き始めた。道子は、何という事だろうか、医者のくせに、研究室からでないものだから、こういう救命の知識をすっかり忘れていて、直ぐに手がでなかった。
「杉ちゃん、ちょっとタオルかして。」
素雄は、杉ちゃんからタオルを受け取った。そしてすぐにタオルを水穂さんのくちに当てると、咳き込んだのと同時に、タオルが朱にそまった。
「大丈夫ですね。内容物と一緒に取れた様です。」
素雄がそういうと、杉ちゃんが大きく溜息をついた。全く人騒がせな奴だとは言ったが、杉ちゃんはそれ以上水穂さんを責めたり馬鹿にしたりする態度は見せなかった。一方の曙子は、この有様にに何も声をかけることも、手を出すこともしなかったが、不正を監視している入学試験の試験官のような目つきで、二人の監視を行っていた。道子から見てみると、ただいるだけで何もしていないようにみえるのだが、そこはやはり、表情がはっきりしていたので、ちゃんと緊迫した表情をしているのが見て取れた。彼女の美しさは、他の人にはない美しさであり、普通の人とはちょっと違うんだなという印象を与えた。
詰まったミカンが取れた証拠に、水穂さんは肩でおおきな息をしたので、皆ほっとしたようだ。杉ちゃんも、素雄も、素晴らしいチームプレイだといわざるを得ない。実際の医療現場で、ここまで迅速な対応はできるだろうか。もしかしたら、上の者に報告している間に、さらに酷いことになってしまう可能性もあった。
「どうだ、もう寝るか?さっきのミカンを詰まらせたので、ちっとばか疲れたか?」
杉ちゃんが声をかけると、水穂は何も言わないで申し訳なさそうに頷いた。
「よし、寝よう。」
そういうと、素雄が頭をぶたないようにそっと支えてやりながら、静かに布団に寝かせてやる。杉三が、寒いから、もう一枚かけてやってくれ、というと、素雄はわかりましたと言って、そばにあったかけ布団を重ねてかけてやった。
どこかで女性の泣き声も聞こえてきた。泣いているのは曙子さんだ。あんなに厳重に監視を続けていたのに、どこか怖かったのだろうか。それがようやく顔に現れて、あふれだしてきたのだろう。
「いやいや、大丈夫だよ。もう中身も取れたし、だすものは全部出したから、後は静かに眠るだけだよ。」
杉三がそうからからと笑って説明するが、曙子はまだ泣いたままだった。素雄が、そっとその肩を叩いてやった。
「よし、もう御ミカンはおしまいにして、静かに眠らせてあげよう。」
誰でも水穂さんがそうなるということはわかっているらしい。杉三がそういうと、そうですねと言って、皆頷いていた。
「じゃあ、僕たち、そろそろ、お暇しますね。今日はもう一か所よって行くところがありますので。」
それでは、と、素雄がヨイショと立ち上がる。曙子はまだ泣いていたが、素雄の指示で素直に立ちあがった。
「あ、本当。何処によってくの?」
杉三が聞くと、素雄は親戚の家に行くと言った。何でも、ミカンをもう一軒配っていくところがあるのだそうだ。相当取りすぎたなと、杉三が笑うと、知的障害のある人はよくあることなのだが、たくさん取ってこいというと、数えきれないほど取ってしまうと素雄は説明したのだった。そういう所は確かに普通の人と、ちょっと違っている所かもしれなかった。
「それじゃあ、有難うございました。水穂さんには申し訳ないけど、失礼します。」
「いいってことよ。目を覚ましたら、僕が、言っておくよ。じゃあ、気を付けて帰ってな。」
杉三がにこやかに言った。それでは、ちょっと水穂さんが可哀そうなのではないかと道子は思った。だって目が覚めたら、もうさっきの二人はいないのだから、寂しい思いをしてしまわないだろうか?
「はい、有難う。それじゃあ、失礼します。」
素雄は、四畳半から出ていった。曙子もにこやかに笑って、水穂さんに軽く手を振る。もし起きていたら、手を振って笑い返してくれるだろうが、今は、静かに眠ってしまっていて、返事は返って来なかった。素雄に手を引かれて曙子は、静かに四畳半を出て行った。
「どうだ、わかったか?」
と、杉三が、ミカンの皮を片付けながらそういうことを言った。
「わかったって何がよ。何もわからないわ。ただ、ミカンを食べていただけじゃないの。」
道子がむきになってこたえると、杉三は、
「そうか、やっぱりラスプーチンはラスプーチン何だな。」
と、からからと笑った。
「ちょっと何なのよ。答えを知っているのなら、教えなさいよ。教えないってちょっとずるいわ。そういうずるいやり方をする方が、歴史的な悪人よりももっと悪いんじゃないの?」
道子はまたそういうことを言った。確かに、杉ちゃんの方がもっとずるいようにみえた。
「そうだなあ。」
と杉ちゃんは、にこやかに笑って、こんなことを言った。
「あのなあ。僕らは、水穂さんのことを、患者とは思わないんだよなあ。それより、ただの友達だと思うがな。ただの友達だから、一緒にミカンを食べたり、吐きそうになっても中身を出してやったり出来たんだ。」
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