番外編4 芸術家という金魚 宗教と芸術
この考察には比較的高い頻度で宗教に関する話が登場しますが、これは創作物やログに見られる日本人の宗教に対する固定概念があまりにもいびつであると、私が感じているためです。
違う考え方もできるのではないかというスタンスをとっていきたい本小説としては恰好の的です。
歴史には結果は一つしかありませんが、それに対する考え方や見方は様々にあるのが面白いところです。
是非一方の立場を取るなどという勿体ないことをせず、多角的に様々なことを考えていただきたいと思っています。
さて、芸術と宗教とテーマにあるように、今回は芸術や芸術家にとって宗教がどのようなものであるのか、宗教が権力を持つ社会の中でどのように創作活動をするのかということを書いていきます。
よく見かける意見としては、宗教が芸術の可能性を狭めているのではないか、創作という分野において宗教は枷になっているのではないか、というものがあります。
宗教の管理下にある芸術のいびつさを取り上げ、信仰者や宗教の視野の狭さや過ちを指摘する、という論調です。
確かに宗教とは基本的な価値観や道徳観を説くものであり、人間の人格形成に重大な影響を及ぼします。一日のスケジュールから始まって、食べ物や寝る場所、時には歩く位置まで指定してくるのです。
当然芸術活動の方向性も定められることになります。
芸術における宗教を批判する人々は、おそらくこれを指して滑稽だと言っているのでしょう。確かに美意識から外れて、ある特定の方向に捻じ曲げられたかのような作品のように見えなくもありません。
しかしそのような考えは、現代(日本)人独特の思考であり、芸術の特性や芸術家の事情を度外視している意見ではないでしょうか。
宗教がなければ発展しえなかった技術は沢山あります。
・芸術の発展と社会様式
・芸術家という金魚
・宗教の効果
・創作活動における2つの利点
・芸術の枷と社会の枷
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・芸術の発展と社会様式
まずは芸術が発展するには何が必要か、という点を考えていきたいと思います。
歴史上芸術が大きく発達した時代地域はいくつかあります。
西洋の代表的な例を挙げるなら、古代ギリシア、ビザンツ、フィレンツェ、ハプスブルク等がそうでしょう。
挙げていけばキリがありませんが、どれも芸術史的には重要な国家であり、一般的な歴史でも"芸術を大きく育てた"という一種の称号的なものを与えられて語られます。
彼らは独自の文化を育て上げ、現在では広い人々に一定の評価を得ています。
これらの文明の芸術発展に共通するのは、潤沢な資金を持つ指導者や権力者が芸術家を支援して芸術を発展させる、という流れでしょう。
この中で宗教はどう作用したのでしょうか。資金さえあれば芸術は発展するのでしょうか。
結論を見る前に芸術家の創作活動とその成果について、例を一つだして見てみたいと思います。
・芸術家という金魚
"たらい"の中で泳ぐ一匹の金魚をイメージしてください。
この金魚が芸術家です。
芸術家は用意されたフィールド、つまりたらいに入れられた水の中で創作活動をします。
この金魚が高みを泳ぐには、何が必要でしょうか。それは水です。
芸術の発展度、完成度は"水位"であるといえます。水の量や質ではありません。
何が言いたいかというと、大きなたらいが必ずしも芸術家にとって良いというわけではないという事です。
たらいの面積が大きければ金魚は自由に泳ぎ回ることができます。様々な創作活動ができる社会が用意されているといえます。
しかし高いところまで泳ぎに行けるか、となると話は別です。
高い位置まで泳いでいくには水が必要です。水の量とはすなわち、時間と資金です。もしくは芸術家自体の経験も含まれるかもしれません。
水の量は金魚が自ら増やすことができず、外から与えられるものです。つまり社会の状況がそのまま反映さます。
たらいに筒を立てて、金魚と水を入れた様を想像してみてください。
筒は注ぎこまれた水が溜まる範囲を狭め、金魚が高くまで登る余地を作ります。
もし同じ水の量ならどうでしょう。筒とたらいに同じ量の水を入れれば、水位が高くなるのは筒の方です。
底の面積は狭くしてもらった方が、多少不自由であっても金魚は高いところまで泳いでいけます。
・宗教の効果
この中で言うと芸術にとって宗教は底の面積を減らす一つの要素、つまり筒の役割を果たします。
要求や価値観が定まれば、芸術家達は鯉のぼりのごとく上を目指して泳ぐことになります。当然その社会が持つ文化は独特なものであり、レベルの高い芸術になるでしょう。
なにしろ、作れば売れるのです。
芸術家は自分の作品が一定の評価を得られるという保証を宗教によって得ているのですから、制限の中でも多様な変化が生まれていきます。変化を試すことができると言っても良いでしょう。
宗教の価値観という大前提があるのだからとりあえず外れない、という安心感もあったでしょう。
芸術家は非常に臆病な生物です。常に人の評価という無慈悲な判決を喰らうので、創作するうえでその保証は重要です。それは小説を書く皆さんも実感できることなのではないでしょうか。
・創作活動における2つの利点
ではその芸術の内容についてはどうでしょうか。どのように影響するのでしょうか。
宗教は二つの利点があります。
一つは宗教がインスピレーションの宝庫である点です。
宗教は人の空想力や衝動的な感情に理由づけをし、落ち着かせる役割も持っています。
死んだらどうなるといった感情や、天には何がいるのかといった解決しない問題についての回答は、各宗教でそれぞれ用意されています。人の魂は天に昇るのか、近くにいるのか、何か別の生物になるのか、生まれ変わるのか、宗教によって答えは様々です。
つまり宗教はその民族の空想力の結晶であり、"この世にないもの"が沢山出てきます。
一方で、この世にないものをこの世に顕現させよう、具現化しようというのが芸術の一つの試みなわけで、芸術家にとって宗教という題材は非常に住み心地の良いものだったのではないかと推測されます。
宗教を題材とした芸術品は、一定の神秘性を保っていたことでしょう。
もう一つは先ほどの話と少し似ていますが、宗教はガイドラインがはっきりしているという点で芸術家にとってプラスに作用します。
どのような芸術にも指針が必要になってきます。○○派や○○リズム、もっと大きく言えば、分野というのがそれにあたります。その作品がどのような意図で作られ、どういう点が素晴らしいのか、どのように鑑賞してほしいのか、作る人と見る人である程度共有することができます。
そのためには理論が必要になります。
宗教であれば複雑な教義がすでに用意されているので、それに沿って理論を作り上げれば良いのです。
例えばビザンティン音楽や教会旋法におけるシステム、宗教画におけるキリストの書かれ方、仏像の容姿など、宗教芸術は宗教が持つルールや根拠に則った作品が数多く出されています。ルールが予め定められていれば、開発されたものが大失敗するという危険が減ります。
職人という立ち位置から制作することも可能であり、その職業人口の広さは多様性、発展性を生みます。
しかしこれには儀式化、形骸化するという大きな弊害があります。
儀式化すると行為に意味を見出すあまり、美的センスという価値観から大きく逸脱しても進み続けてしまうのです。
例えば数々の宗教画を異教徒が見たとき、感心こそしても心底美しいと感じることができないものも沢山あるでしょう。
これこそ芸術における宗教の弊害ですが、それは現代音楽や現代美術においても起きている現象です。貴族や戦士の価値観によっても度々引き起こされてきたので、これは宗教の有無に関係なく、芸術が持つ生活習慣病のようなものでしょう。
更に大きく言うなら芸術のみにとどまらず、20年前、40年前に流行ったものを今観察すると滑稽に映るのはよくあることです。
とはいえ、これも芸術の発展という意味では重要なことです。
美的センスから大きく逸脱した状況があることで、それを否定する派閥が登場します。これが新たな流行理論の登場であり、芸術は次の段階に進むことができます。もしくは美的センスから逸脱するというのは見方を変えれば、理論が複雑に構築されすぎたということであり、研究の成果でもあるのです。
例えるなら筒の中いっぱいに水が入ってしまっている状態を想像してみてください。水をいくら筒に入れても、もう水位はあがりません。
これが研究の余地がなく息苦しくなってくる状態です。
そうすると革命が起こります。いくつかプロセスはありますが、筒から金魚が飛び出し、水をたらいの中に移し替えるがごとく、広いフィールドに創作活動の場は広がるのです。
美術におけるルネサンスや、クラシック音楽におけるバロック時代以降の各時代区分の変遷や成果もこれによるところが大きいでしょう。
テンプレが溢れていると評される"なろう"やラノベ界がいまどこにいるかは現時点で知ることはできません。異世界転生がこれだけメジャーなジャンルとなったのも、書けば一定の評価を得られるという期待や安心感がどこかにあるからだと考えられます。
ちなみに現代芸術に限界があると言われるのは、現代芸術は美的センスを否定するところから入る側面があるので、このシステムが適用されない可能性があるからと言えるでしょう。
私自身も別の理由で現代芸術について少し否定的な意見を持っているのですが、それはまたの機会にしておきます。
・芸術の枷と社会の枷
"枷"が芸術において有利に働くというのは多々ある例です。枷は筒よりもさらに強力に焦点をしぼるものです。
クラシック音楽という"筒"は高い汎用性を持つ一方で様々な制約が課されています。その上で更に作曲家自身が枷を設けることがあります。例えば文字と対応させる、一つの旋律から長い曲を作るなどはどの作曲家も挑戦してきました。モーリス・ラベルの特殊な枷は有名です。
和楽器は多くの不自由さを抱えていますが、それが独特の音色を生み出しています。機構を取り付けてあえて不自由にしている部分もあります。
共通認識の利用という面でラノベのテンプレというのも一種の枷ですし、そもそも小説という媒体自体が枷の多いフィールドです。低俗な作品が増えたと嘆く人もいるでしょうが、数々の面白い作品が生まれているのも事実です。
今の社会は様々な枷が取り外されています。例えばインターネットによって距離の枷が無くなりました。音楽も電子化されることで時間という枷を外され、同じものを好きなときに好きなだけ聞けるようになりました。
日本においては東の端にある島国という地理が持つ枷がはずされ、現代日本の社会は急激なグローバル化についていけていない、という印象を受ける場面が多々あります。
これは芸術界でも同様なのですが、どういった現象が起きているのでしょうか。
急にたらいのサイズが巨大になって、自由に創作できるようになったのがここ70年ほどです。
各界の創作家たちは"何とかリズム"と題して様々な枷をつけ、必死に桶の底を狭めて上に登ろうと努力してきました。
しかし芸術家にとって現代の価値観は苦しいものがあります。
前にもちらりと書きましたが、現代では個人の才覚や発想を如何にお金に変換するのか、という価値観のもとで社会が動いています。
これは言い換えるならば、金魚に向かって水を自分で用意しろというようなものです。水は放っておけば蒸発するし、酸素も減ります。
己が力によってのみ生き残ることができて水準は二の次、中世ヨーロッパの様相を呈しています。商業的成功と芸術的成功は別物であるのが今の現状ですが、必死に口をパクパクさせるだけで物も満足に言えぬ芸術家にとって、現代はまさに暗黒時代といえる世の中なのかもしれません。
たらいが広ければ確かに自由に創作活動ができますが、焦点が定まらず研究は遅々として進みません。
対して宗教は容器(指針、要求)を用意し、水(お金と時間)を供給し、餌(題材)まで与えるのです。
これらの点を見れば、どちらの方が芸術家にとって恵まれていたのか、という議論の意見は一方に偏ることはないでしょう。
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