第二話 束の間の幸福

 眩しい光が目に刺さる。本当に春かと疑ってしまうくらい、暑く、空は澄み切った青色だった。雲が少しでもあれば、日差しはもっとましなのにななんて思いながら、転がってきたサッカーボールをとる。

 今俺らは3日後に控えた体育祭の競技の練習をしている。俺はサッカーボールをいくつかゴールに入れて点を稼ぐ、「ストラックアウト」という競技に出るため、確実にゴールできるように練習していた。

 この競技はサッカー部が出るのが普通なのだが、うちのクラスにはサッカーはいなかった。そのため、クラスの中でも運動神経が良い奴がこの競技に選抜された。俺のほかには優と体力テストの成績がいい奴が選ばれた。

「達哉、そっちはどんな感じ?」

 日陰で休んでいた優がこっちへ駆けてきた。走ってきただけなのに、顔にはうっすらと汗がにじんでいる。

「安定してゴールするのは難しいな。そもそもサッカーは小学生以来だし」

 俺は中学時代はパソコン部に入部していた。カタカタと教室内に響くキーボードの音が心地よく、でこぼこしたキーボードで文字を打つことが楽しくてしょうがなかったのだ。それに、行事ごとにスライドショーも作った。曲を選別することも、写真を切り貼りして編集することも、胸が踊った。中学時代の俺は、インドアだった。

「俺もサッカーは高一以来だからちょっと不安だよ」

 インドアだった俺と比べ優は中学時代はテニス部で、高校に上がってからも選択体育は外の競技を積極的に選んでいた。優はアウトドアだ。

「俺よりはうまくできるだろ」

「どうかな。達哉、運動神経は良い方だろ?」

 昔から運動神経が良いと言われるが、実感はない。確かに体育の授業は初見の競技であってもそつなくこなせるが、そのことを運動神経が良いと言ってしまっていいものなのだろうか。そんな疑問を八重島にぶつけると、「私への嫌味?」と言われてしまった。そういうつもりはなかったのだが。

「そうなんだろうか」

「そうだよ。大抵の人は初見の競技をそつなくなんてこなせないよ」

 俺の手からボールを取りながら優は言った。

「そろそろ片付けよう。あと10分だし」

 言われて時計を見ると、確かに残り10分だった。俺はその辺に転がったままのボールを回収していく。

「・・・最後の体育祭頑張ろうな」

 一緒にボールをカゴまで持っていく途中で優がぼそりと言った。俺はその声とは対照的に大きな声で言った。

「ああ。最高の思い出にしような」

 しんみりするのは終わってからだ、という意味を込めた。それは優にも伝わったらしい。俺の言葉に、歯を見せて笑った。

 

 授業が終わり、自分たちへの教室へ戻る。体育で疲れた時はいつもは別に何とも感じない階段が、やけに多く長く感じる。疲れているからだろうか、いつもとは違い、視界も僅かに揺れている。

「達哉、大丈夫か?」

 おぼつかない足取りの俺に、優が心配そうに声をかける。

「大丈夫。疲れてるだけだよ」

 あんまり心配させまいと、笑って答える。それでも優は不服そうだ。

「ちょっとここで待ってろ。教室から水筒を取ってくる」

「え、あ、おい!」

 俺の足取りを見かねたのか、俺を置いて優は水筒を取りに走って行ってしまった。1人残された俺は、待つべきかこのまま教室へ向かうべきかを考えた。

「・・・行くか」

 教室まではあと少しだ。それなら持ってきてもらうより、教室に戻る方がいい。優に持ってきてもらうことにも、少し気が引けていた所だった。

 一歩足を踏み出す。途端、視界が大きく揺らいだ。階段が二重に見え、視界が左右に揺らいだ。

「あっ」

 踏み出した足が滑り、段差に向かって前のめりになる。角が、間近に迫る。この後襲ってくるであろう痛みを覚悟しながら反射的に目を瞑った。

―しかし、痛みが襲ってくることはなかった。

「大丈夫ですか!?」

 頭上から女の子の声がした。俺は寸前のところでその女の子に抱えられていた。

「け、けがはないですか!?」

「な、ないよ。ありがとう」

 そう言うと頭上から「良かったぁ」と聞こえた。心底安堵したらしい。

「もう大丈夫だから、腕離してくれていいよ」

「あ、はい!」

 俺は階段に両手をついて座った。俺の目の前には、俺を抱えたであろう女の子が立っていた。

「驚きましたよ・・・。階段を上がっていたら倒れそうになっているんですから・・・」

「な、なんかごめんな・・・」

 はあとため息を吐きだす彼女を見て、罪悪感が湧いた。やはり優に言われた通り座って待っていればよかった。・・・なんて、今更後悔しても遅いのだが。こんな風に誰かに、しかも女の子に迷惑をかけることになるとは思いもしなかった。

「ちゃんと待っててくれたか」

「あ、優」

 頭の中で反省会を開いていると、優が水筒を持って降りてきた。その表情には安堵が浮かんでいる。

「え、なんで名取がこんなところにいるんだ」

 彼女の存在に気付いたのか、優が声を上げた。

「あ、実は・・・」

「先輩が転びそうになってたところを助けたんです」

 俺が説明するより先に彼女が簡潔に説明してしまった。彼女の説明に優が表情を曇らせる。

「・・・達哉、お前、教室まで戻ろうとしたな・・・?」

 ビクッと肩を揺らし、俺は優から顔を逸らす。気配で分かる。優は今とんでもなく恐ろしい形相をしている。

「せ、先輩にもけがはなかったことですし、そんな恐ろしい表情はしなくてもいいんじゃないでしょうか・・・」

 たじたじになりながらも、名取と呼ばれた彼女は優に向かって言う。彼女の言葉に何を思ったのか、後ろから長く深いため息が聞こえてきた。

「・・・もう後輩に迷惑をかけるなよ」

 そう言うと優は水筒を渡してきた。軽くお礼を言って受け取る。中の麦茶を一口飲むと、少しだけだがめまいが収まった。麦茶を飲みながら、今日はそんなに水分補給をしていなかったことを思い出した。

「あ。ありがとう、助けてくれて」

 目の前の彼女に改めてお礼を言う。まさかお礼を言われると思っていなかったのか、彼女は顔を僅かに赤らめ、空いている片手を胸の前で大きく振った。

「あ、い、いえ!だ、誰でも助けますよ!」

「でも本当に助かったから。あのまま倒れ込んでいたら頭だって当然打っていただろうし。本当にありがとう」

 追撃するかのようにお礼の言葉を紡ぐ。すると彼女は感謝されることに慣れていないのか、耳まで真っ赤になると、その場にしゃがみ込んでしまった。

「俺からも、達哉を助けてくれてありがとう、名取」

「な、七緒先輩までぇ・・・」

 優からも言われると思っていなかったのか、弱々しい声が廊下に響いた。

「・・・先輩が無事なら、もうなんでもいいです」

 不貞腐れた声が聞こえた。うずくまりながらちょっと不貞腐れている、そんな彼女を少し可愛いと思ってしまった。

「そう言えば、君の名前をきいてなかったね」

 そう口にすると、空気は一変して冷たい雰囲気が漂い始めた。その雰囲気の変化に俺は戸惑い優の方を見るが、優はハッとした表情で俺を見ていた。

「どうした?」

「あっ、いや・・・何でもない」

 そう言うと今度は優がサッと俺から顔を逸らした。優の不可解な行動に戸惑いつつも、俺は目の前で未だにうずくまる彼女を見つめる。

「・・・そうか、あの時からもう時間が経ってたんだ」

 ボソリと呟く彼女の言葉は、俺には小さすぎて聞こえなかった。彼女はサッと立ち上がり、俯いていた顔を上げ、口元を引きつらせてぎごちなく笑った。

「名取和です。どうぞよろしくお願いします」

 名乗ると同時に差し出された手は、少しだけ震えていた。

「俺は成瀬達哉。よろしく、和さん」

 彼女の名前を呼ぶと、彼女は驚いたようで、唖然とした顔で固まった。差し出された手は引っ込まれることはなく、未だに俺に向かって差し出されている。

「なんで・・・下の名前・・・」

 固まった彼女から耳を澄ましてやっと聞こえたのは、そんな問いだった。

「どうしてだろうね。なんだか下の名前で呼ぶ方がしっくりきたんだ」

「・・・そんな、残酷なことって・・・」

 呟いた彼女の言葉はまた俺には聞こえなかった。しかし優には聞こえたようで、心苦しそうに彼女を見ていた。その顔は今にも泣き出しそうなほどに歪んでいる。

「・・・よろしくお願いしますね、達哉先輩」

 絞り出した声は、今度ははっきりと俺の耳に届いた。それでも彼女の顔は、目を逸らしたくなるほどに、歪んでいた。泣き出しそうなほど歪んでいてもなお、彼女は俺から目を逸らすことはなかった。彼女は、強かった。


―こうして俺は、晴天のある日、漆黒の瞳を潤ませた少女・名取和に助けられた。

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