3

 試合は引き分けに終わった。

 俺が思っていたよりも、彼女は俺と対等な強さを持っていた。あと半年もすれば俺は彼女に負けるだろう。そんな確信さえも抱かされてしまった。

「ありがとうございました!」

 防具を外して一息ついていた時、彼女が俺に言った。手ぬぐいを頭に巻いたまま、正座してこちらを見ていた。

「あ、あの、アドバイスをいただきたいのですが・・・」

「ん、わかった」

 俺が返事をすると、彼女は「お願いします」と言いながら頭を下げた。彼女の手ぬぐいからはらりと藍色の髪がいくつか垂れた。

「まず少し面の位置が高いかな。あと打ちがもう少し強くてもいいと思うよ。しっかり手の内を締めてね」

 俺は薙刀を持って立ち、面を打つ時のように構えた。彼女に伝わりやすいように、少し大げさに右手に力を込めた。

「なるほど・・・。右手に力を込めると薙刀がはねなくなりますかね」

「なるよ。はねないようにするのに大事なのは止めること。そこを意識してみると面が取れるようになると思うよ」

 彼女はすね打ちが得意なようだった。彼女が狙ってくるのは大概すねだった。そこなら一本取りやすいと思っているのだろうが、それは相手に攻撃パターンを読まれてしまうことにもなってしまう攻撃だった。すねは決まりにくく、相手も防御しやすいという点がある。足を上げたり、薙刀で防御したりなど。

 しかし、彼女が面を上手く決めていくことができるようになれば、攻撃のパターンが増え、一本取る機会も増えるということだ。相手に攻撃を読まれることも少なくなれば、抜き技もできるようになるだろう。何かを決められるという自信は、試合において勝るものはなにもないと、俺は個人的に思っている。

「次からは面の練習も多くしてみよう」

「はい!」

 元気な返事を聞いて、この子は真面目だなと思った。真面目なのはいいことだが、時に危険でもあることを俺は知っている。真面目過ぎると、自分を必要以上に追い込んで、結果挫折してしまったという人を何人も見てきた。だから、彼女の真面目さが、少しだけ心配になった。

「あまり煮詰め過ぎないようにな」

 彼女の頭をそっと撫でた。彼女の肩がビクッとはねた。俺が撫でたことによって巻かれた手ぬぐいが少しぐしゃぐしゃになってしまった。

「あ、あの、先輩・・・」

「あ、悪い。せっかく綺麗に巻いてたのにぐしゃぐしゃになっちまった」

「そ、それは良いんです!また巻き直せばいいですから!」

 俺が謝ると、彼女は先ほどまで下を向いていた顔をパッと上げて、必死に俺をフォローしてくれた。その姿がまた可愛らしく思えて、再び彼女の頭を撫でた。俺の手が彼女の頭を上下する。

「せ、先輩!?」

 彼女は驚いているようだ。二度も撫でられるとは思っても見なかったらしい。俺が頭を撫でている間、彼女は借りてきた猫のようにおとなしく、されるがままになっていた。

「ちょっと、いつまで和ちゃんのこと撫でてるのよ」

 休憩から戻ってきた八重島が言った。八重島に言われて、俺は相当恥ずかしいことをしていたことを、今更になって認識した。途端に指先から耳まで赤く染まる。

「あ、え、ご、ごめん!名取さん!」

「・・・和」

「えっ?」

 名取さんがボソリと何か言った。あまりに小さすぎて聞こえなかった俺は、なんて言ったのかを聞き返した。すると彼女は何かを堪えるように、あるいは恥ずかしさを我慢するように手をギュッと膝の上で握りしめて、今度は大きく強い口調で俺に向かって言った。

「和、でいいです。名取さんなんて他人行儀です。私たちはもう、先輩後輩という以前に仲間じゃないですか」

 強い口調に反してその表情は今にも泣き出してしまいそうなくらい歪んでいて、それでいて赤かった。顔から湯気が出てしまいそうなほど、頬を紅潮させて、俺の瞳をを真正面からじっと捉えていた。

 わずかに浮かぶ涙で揺れる、冬の夜空のような瞳に俺は吸い込まれそうになる。気を抜けば、その夜空に永遠に引き込まれそうだった。

「あんたねぇ、どんだけ和ちゃんのこと見つめ続けるのよ」

 八重島の呆れた声に、現実に引き戻される。ハッと名取さんの方を見れば、彼女は赤くなっていた顔を更に真っ赤にして、必死に俺の視線に耐えていた。

「あっごめん!名取さん・・・じゃなくて、和さん!」

 言いかけた彼女の名前をすぐに苗字ではなく名前に訂正した。すると、彼女の顔がまるで暗闇に光が差したかのように輝いた。

「全然大丈夫です・・・。ありがとうございます。私のわがままを聞いてくださって」

 彼女が小さく頭を下げた。その言葉に俺は緩く首を振る。

「どうしてかな。なんだか下の名前で呼ぶ方がしっくり来たんだ」

 俺の言葉に、二人はハッと息を呑み込んだようだった。そして、和さんは目尻を下げて少し引きつった笑みを浮かべ、八重島は苦虫を嚙み潰したような表情をしていた。二人の表情に俺はなにか不味い事でも言ったのかと思ったが、どうやらそうでもなかったらしい。すぐに二人は元の表情に戻った。数分にも満たない出来事だった。

「なんだか先輩らしいですね」

 ふと、和さんが言った。それはどういう意味なのかが聞きたかったが、どうしてだろうか。踏み込んではいけない気がしたのだ。

「さて、そろそろ練習に戻ろうか。和ちゃん、連戦で悪いんだけど、私と試合してくれる?」

「いいですよ」

「あ、成瀬は審判ね」

「言われなくてもするよ」

 八重島の言葉に和さんは再び防具を付け始めた。迷いなく器用に踊る彼女の指先を見つめながら、俺は先ほど感じた愛おしさについて考えた。

 和さんの名前を呼んだ時、確かに彼女を愛おしく感じた。しかしその愛おしさはなんだかとても昔のことのように感じられた。心の奥底で知らない俺が、彼女の名前をただひたすらに叫んでいた。

「成瀬先輩、審判お願いします」

 防具を早々に付け終わった彼女は俺の前にやってきて、審判と呼び出しを頼んだ。俺はそれを快諾した。

「あ、和さん」

 自分の場所に向かいかけた和さんを呼び止める。

「なんですか?」

 面を付けた頭が左に少し傾く。その仕草ですら、俺には愛おし過ぎた。

「俺も下の名前で呼んでよ」

 俺の名前も呼んで欲しかった。あの日と同じように、あのトーンで、あの声で、俺の名前を呼んで欲しかった。

―あの日と同じように?俺はいつ彼女に名前を呼ばれていたというんだ?―

 名前を呼んでもらうことを切望した瞬間、そんな疑問が俺の脳裏をよぎった。俺は一体いつ、彼女に名前を呼ばれていたというんだ。名取和という人にあったのはなのに。

「分かりました」

 考え込む俺をよそに、彼女は静かに返事をした。彼女の返事に頭を上げれば、彼女の、何とも思っていないと言っているような虚空の瞳が俺を貫いていた。

「じゃあ、応援してくださいね。達哉先輩」

 その響きは、どこかで聞いたことがあった。彼女の発した俺の名前に、その声に、トーンに、全てに聞き覚えがあった。

「あなたは、何度出会っても変わりませんね」

 ボソリと彼女が何かを呟いた。

「え?」

「・・・何でもないですよ」

 苦し紛れのような笑顔を浮かべて、彼女は踵を返した。既に八重島はスタンバイしていた。

「達哉先輩」

 ふと、彼女が言った。俺は「なんだ」と聞き返す。

「私、あなた以上に残酷な人を知りません」

 意味が分からなかった。俺のどこが残酷だというのか。出会って一日も経っていない少女に何故そんなことを言われなければいけないのかと、疑問とわずかな憤りが俺の中を巡った。

「だけど」

 彼女の言葉には続きがあったようだった。ゆっくりと、言葉を一つ一つ選んでいるかのように、わずかに口を開けて彼女は言う。

「私はあなたが大切だから、どうか、私があなたの命を脅かすことがあったならば

、」

 彼女の言葉に俺の理解は届かなかった。いや届けなかった。なぜなら、俺の考えていることよりもさらに彼女の考えは遥か上をいっていたのだから。

「どうか私を殺してくださいね」

 その時の言葉だけはやけに覚えている。彼女の疲れ切った、何かに縋るようなお世辞にも綺麗だと言えなかった瞳も、一緒に。

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