居眠りしたり、ノートを真剣に取ってみたり、普段はやらない落書きをしてみたりと授業時間や休み時間を無駄に消費している間に、あっという間に放課後になった。

 教室は自習をする者、大会を控えているため部活に向かう者、帰宅する者など様々だ。かくいう俺は勿論、部活に向かう組だ。

 荷物をまとめて早足に教室を出る。気を抜けば思わずスキップしてしまいそうなくらい、俺の心は浮き立っていた。こんなに心躍るのはいつぶりだろうか。入部して間もない頃以来だ。

 朝と同じように、体育館の階段を駆け上がる。一分一秒でも時間を無駄にしたくないと思った。部活の時間は限られている、そんなことよりも単純に彼女を待たせたくはないなと思っていた。

 引き戸を開けて武道場に足を踏み入れた。朝とは変わらぬ独特な匂いが、開けた窓から入ってくる夏風によって少し薄らいでいた。剣道部はもう防具を付け始めていた。

「あ、こんにちは!」

 元気のよい挨拶が飛んできた。声のした方を見ると、彼女はモップを片手にモップ掛けをしていた。

「こんにちは。早いね。」

 授業が終わって間もないというのに、既に彼女は体操服に着替えていた。随分早いなと感心してしまった。

「えっと・・・手合わせが楽しみだったもので・・・。」

 軽く頬を掻きながら彼女は言った。耳は少し朱色に染まっていた。後輩のその様子に、思わず笑みがこぼれる。

「そうなんだ。俺も楽しみにでさ、いつもはもう少しゆっくり来るんだけど、今日は走って来ちゃった。」

 俺も頭を掻きながら言う。俺の様子に、彼女は少し安堵したようだ。耳の朱色がだんだんと引いていくのが分かった。

「じゃあ、着替えてくるね。」

 彼女がモップ掛けし終えた床に荷物を置いて、体操服を取る。 彼女は「分かりました!」とまた元気よく返事をすると、モップ掛けを再開した。

 床の木目に沿ってモップ掛けをしていく彼女を見ながら、几帳面なんだろうなと勝手に思った。

 更衣室で早々に着替えて武道場に戻る。俺が着替えている間に部員が大方揃ったようで、俺と同じクラスの八重島もいた。

「あ、成瀬じゃん。早いね。いつもはもう少し後に来るのに。」

「八重島こそさっきまで勉強してたのに、もういいのか?」

「大会控えてるからそっち優先しようかなって。」

 八重島は迫る大会に賭けていた。自分のプライド、努力、技術、年月。部活にかけてきたもの全部を大会に賭けて、自分の努力は無駄ではなかったことを証明しようとしている。それは部活に否定的な親を納得させるためでもあった。


「次の大会で私の努力全てが証明されるわけではないことは分かってる。だけど、ここで証明して見せたいの。私自身も親も、納得させるために。」

 以前共に残って練習したときに八重島が語っていたことだ。真剣に大会だけを見据える彼女を、俺はカッコいいなと思った。そして懐かしくも感じた。彼女のような、前だけを見据え、強く凛とした目を俺はどこかで見たような気がした。

「今日審判をしてくれないか。名取さんと練習試合をしようと思ってさ。」

 そういうと彼女は少しだけ眉をひそめた。その表情に俺は首を傾げる。どうして八重島がそんな顔をするのか、分からなかった。

 やがて彼女は長いため息の後、頷いて了承した。

「・・・名取さん・・・か。」

「?何か言ったか?」

「ううん、別に何も。」

 彼女はそう言うと体操服を持って武道場から出て行った。八重島とすれ違うようにして、名取さんは帰ってきた。

 仕事をするのが好きなのか、はたまた違うのか。彼女は休んでいる暇なんてないというように体を動かす。俺たちの防具を棚から出して並べ、その前に薙刀を置いていく。手伝おうとすると、「後輩の役目ですから!」と断れてしまった。

「でも二人でした方が早く終わるよ?」

 次は扇風機をセットする彼女に向かって言った。彼女は手を休めずにコンセントを差し込み、スイッチを押した。途端に扇風機が首を振り始めた。涼しい風に少しだけまどろんでしまいそうになる。

「そうは言いましても、先輩にはこれから私と試合練習をして貰いますし、なるべく体力を温存していて欲しいんですよ。」

「いや俺そんなにか弱くないから。」

 そう言うと彼女はニヤッと笑った。その笑みがなんとも言えず大胆不敵で、少しからかわれているのではないか、と心配になった。

「でも、何と言われましても後輩の仕事だと私は思うので、先輩にこんな雑務を手伝ってもらうことはないですよ。」

 そう言い切る彼女にもう俺は何も言えず、ただ彼女の忙しなく動き回る姿を見るだけになってしまった。

 そんな俺の姿を見て、更衣室から戻ってきた八重島は呆れた顔をして俺の横に座った。

「あんたねぇ、そこは意地でも手伝いなさいよ。」

「いや、あそこまで言われてしまったらなぁ・・・。」

「言い訳しないの。」

 俺の意見を八重島はバッサリと切り捨てる。言葉に詰まる俺に、今度は真剣な目をして言った。まるで、一つ一つ言い聞かせるように。

「意地でもやらないと、きっと後悔する日が来るわよ。過ぎてしまった日々は忘れてしまう頃にはもう、取り戻せないんだから。」

 妙に言葉に詰まってしまった。反論を許さぬ低い声。突き放すような、それでいて優しさすら感じてしまう言葉。

 俺は八重島の顔を見た。その顔を見て、息を呑んでしまった。

 彼女は、とても辛そうに、痛そうに顔を歪めながら、俺を見ていた。そんな表情をするな、と言ってしまいそうになった。しかし、言葉が出てしまう寸前で俺は出てきかけた言葉を呑み込んだ。言ってはいけない、そんな気がしたのだ。

 俺にその言葉を言う権利も資格もないように思えてしまったのだ。

「準備終わりましたよ!・・・って、二人ともどうしたんですか?」

「あ、な、何でもないよ。準備してくれてありがとう。」

「いえ!後輩の務めですから!一年生もいませんし!」

 『後輩の務め』。その言葉を、以前彼女から聞いたことがあるように感じた。心地よい懐かしさをまた、感じた。

「なあ名取さん、やっぱり俺たちどこかで・・・。」

「ありがとうね和ちゃん。今日は優は体調不良だし、結衣も一年生も用事があってこれないらしいから、三人で練習しようか。二人は試合練習をするんだったね。私が審判するのでもいいかな?」

「はい!ありがとうございます!」

 俺の言葉を遮って、八重島は名取さんに話しかけた。その遮り方は意図的だったような気がした。彼女に俺の言葉を聞かせないように、届くことを防ぐために。

 そんなことはあり得ない、と俺は首を横に振る。八重島がそんなことをするわけないのだ。真正面から、言ってはいけない言葉は言ってはいけないと言える強さがある。

「さあ、防具をつけよう。あまり時間はないからね。」

 八重島は名取さんと俺に向かって言う。名取さんは元気のよい返事をして、防具を付け始めた。その速さは部活内で一番早い優と同じか、それ以上だった。俺は彼女の様子をじっと見てしまった。

 細く、雪のように白い指が器用に紐を結び、面を付け、籠手をはめていく。その様子に、俺は魅入ってしまった。

「早くあんたもつけなさいよ。」

 魅入っている俺の頭を軽く叩いて、八重島も防具を付け始めた。

 俺はハッとして、急いで防具を付け始めた。

 その時ちらりと見た八重島の表情を、今でも覚えている。見たことがなかったんだ。あんな彼女を。いつも俺らを照らしてくれる、しっかり者の彼女のあんな顔なんて、一度だって目にしたことはなかった。

―彼女は確かに、唇を噛みしめて、まるで何かと戦っているような、苦しそうな顔をしていた―。

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