第2話 夢か現か

どうしてこうなった。

いや、俺は悪くない。

だいたい要が無理に急ぐから悪かったんだ。

俺は止めようとした、それだけで十分じゃないか。

そうだ、俺は偉い。

ちゃんと止めようとしたんだ。

俺は悪くない。俺は、俺は……。


「急げッ!」


「バイタルは?」


「血圧74の44 脈拍119 呼吸15です」


「いちにのさんっ」


遠くに聞こえる会話の意味は、俺には全く理解できなかった。


「君、この子の知り合いだよね。着いてきて」


20代後半ほどの女性隊員は、鋭さと優しさを兼ねた声で俺を呼んだ。

自分が本当に歩けているのか不安だったけれど、俺は必死に着いていく。

俺は要と自ら連絡した救急車に乗った。


「まず、君の名前は?」


「……有賀屋 琳です」


「この子の名前は?」


「……水無瀬 要です」


「辛いと思うけど、これから色々聞かせてもらってもいいかな」


「……はい」


俺は、視界の淵に映る救命作業から目が離せないまま、女性隊員の質問に一つ一つ答えた。

要の住所から学校、その他諸々の情報を全て伝えた。声が震えていたので、何度か聞き返されもしたが、その度に暗示を自分にかけて答え直した。

だんだん遠退いていく女性の声を、逃さないように捕まえて。


「あ、あと君の親御さんにも連絡しておいてね」


「……わかりました」


隊員は、その言葉を告げると血相を変え、救命作業の援護をしに行った。


俺は、とっさに肯定の言葉を発してしまった。

仕方なくスマホを手に取り、チャットアプリを開いて、閉じた。

何も打たなかった。何も打てなかった。


担架で運ばれていく彼女を、俺はゆっくりと追いかけていった。



「残念ですが、もう、要さんの意識が戻ることは……ないでしょう」


四十代前半くらいの容姿をした、男性医師の第一声は、その言葉だった。


ベッドの上には、呼吸器を口に纏った要が寝ている。

すぐ近くでは、心電図モニターが一定の脈を刻んでいた。


「え……」


出そうと思って出した声ではなかった。

完全なる無意識で、半ば反射的に発した、一種の振盪だった。


カラダと魂が二つに分かれる、そんな感覚が全身を襲った。

これは夢だ、現実ではない。

それとも、盛大なドッキリではないのか。

そもそも、要は今、目の前にいる。

彼女がまだ事切れていないことは、この目と心電図モニターが証明していた。

実時間2秒ほどの間に、俺は頭の中で思考を繰り返したせいで、なんだか自分が遠く見えるような感覚に襲われた。


「うそ……ですよね」


「いや……いや、いやぁぁぁあ!!!!」


父親の静かな衝動と、母親の昂ぶった衝動が病室に響き渡る。


「すみません、ここに着いたときには、もう、何もできない状態でした」


医者の二言目が、深々と空気に引っ付いた。


鳥籠のような小さな一室は、生活感など一切感じず、人が入れ替わる度に新調されているような、真っ白い空間だった。


今の俺は、たまらなく息がしづらかった。

この白い空間が全てを無かったことにしたいと、そう訴えているようにしか、心で感じ取れなかった。


死に慣れてしまった医者、言葉を失ってしまった父親、もう微かな声しか発せない母親、心が空っぽになってしまった俺、それらの感情が頭の中で飛び跳ねる。


感情という感情が一周回って、俺の目からは何も垂れていなかった。


拭たくても、そこは乾いたままだった。


その代わりに、両肩にズシリとした重い感触が走る。


それが、人間の手だと自覚するまで、さほど時間はかからなかった。


「……君が……」


久しぶりに戻った意識下で初めて見た光景は、視界いっぱいに広がる、憎悪に満ちた人の顔。


「……君がいて、なんで要は……」


憎しみだけではなかった。


彼の瞳には、大粒の涙が今にも垂れそうなほど溜まっていた。


俺には、その目を見続けることができなかった。


「なぁ、なぁ……」


俺の全身が大きく揺れた。


揺らされていた。


少しでも気を緩めれば、俺はすぐにでも崩れ落ちそうだった。


「……なんか言えよっ!!!!」


鋭い罵声が、俺の全身に突き刺さる。


「あなたやめて……。琳くんだって……」


耳に入ってきたのは、枯れに枯れきった、母親の声だった。


「……きっと、辛い……」


それはきっと、彼女の本心ではない。


「…………すまない」


父親は下唇を噛んだ。

強く、強く噛んでいた。

両肩から徐々に下へと向かう刺激は、やがて太ももを境に途絶える。

目下に見えるのは、地面に頭を垂らす父親の姿。

ポタポタと、雫の滴る音がした。


その嘆きが、俺を現実へと引き戻す。


俺は、せっかく目の前にあった彼らの怒りをぶつける対象を失くした。

俺だって、どうせならもっとボロクソに言われたかった。

もはや、人格をも否定されるほどまでも、ズタズタにされたかった。


ただ、ただ自分が、平然とこの場に立ち続けているのが申し訳なく、そして辛くて仕方なかった。

罪悪感という名の悪魔が、俺に巻きつき締め付けている。

血の繋がっていない部外者が、彼らと同じ悲しみを味わってはいけないと、訴え続けていた。


ただの逃げなのかもしれない。

責任を逃れようとしたのかもしれない。

何を目的として口を開いたのか、自分でも理解できなかった。


「……すみません、俺が代わりに死ねばーー」


口を開いている途中で、俺の右頬に激痛が走った。


目の前には、化粧も剥がれ落ち、髪型も大きく乱れ、グシャグシャになった母親の姿が映し出されていた。

この世のものではないような目つきが、俺を縛り付けて離さない。


「あああぁぁぁぁぁぁぁあああぁ!!!」


床に這い蹲る父親は慟哭しながら、俺の右足を引きちぎるかの如く掴んでいた。


痛かった。

痛くて痛くて、たまらなかった。


「……すみ……ません」


俺は、ゆっくりと背中を倒し、謝罪の言葉を述べた。


震えた感情が、音となって飛び出す。


無意識に堪えていたモノが、一瞬にして溢れ出し始めた。


目の前がふんわりとぼやけ始める。


じんじんと赤く腫れた頰が、何かを鼓舞するかのように、俺をことごとく痛みつけた。


……痛みつけた。

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