第3話 ワダカマリ

透明の扉が、人が通ると自動で開いたり閉まったりしている。

この市立病院は、県内一の大きさを誇っているらしい。

あらゆる設備が整っており、あらゆる人々が今日も出入りを繰り返している。


俺は、医者の隣にいた30代前半くらいの女性看護師に連れられると、凪沙の眠っている病室を後にし、ロータリーの隅っこに座っていた。

道中、彼女から凪沙の容態について詳しく聞かされたが、頭に入っているかは正直わからない。

病院を照らす太陽は、既に一度登りきり、傾き始めていた。

時計の短針は、一と二の間に止まっている。

事故が起きてから、意識しないうちに六時間という時が経過していた。

今ごろ、学校では大騒ぎになっているだろう。


俺は、自分への憎しみと他人への無責任な怒りの区別がつかなくなってしまった。

何に縋ればいいのかも、わからなくなってしまった。

枯れきった瞳が、絶望しか写してくれなかった。


ここに来てから、何時間経ったのかわからない。

俺は、外が暗くなってからも、ロータリーの隅で蹲っていた。

もうロータリーに患者は数人しかいない。

一人一人の歩みが、壁にぶつかり反響していた。

その中の一つが、大きな音をたて、急速にこちらへと向かってきている。

期待の音、不安の音。

荒い息遣いと覚えのある影につられ、俺は久しぶりに顔を上げた。


「琳、要は……」


「……須藤」


「お前、なんて顔してんだ」


須藤日向は、俺の顔を見て驚きを隠せていなかった。

まるで、幽霊でも見たかのような、そんな顔つきだった。


「……そんなにやばいか」


「やばいなんてもんじゃないぞ」


須藤は思いついたようにスマホを取り出すと、内カメを起動して俺に向ける。

画面に映っているのは、腫れた目にコケた頰の、正気を失った俺の顔面だった。


「……俺はもっとかっけぇ」


「無駄口叩けんなら平気だな」


俺は、俺を鼻で笑った。


「……学校は」


「とっくに終わってるよ。今何時だと思ってんだ」


短針はちょうど7を指している。

また、あれから6時間も経過していた。


「んで、要は」


須藤の声色は、初めよりもだいぶ明るくなっている。

あれほど血相を変えていた顔も、元の優しさを取り戻していた。


「……命に別状はないってさ」


俺は嘘をついた。

明確に言えば、嘘ではないのかもしれない。

それでも俺は、自分の口から言い出せなかった。


「なんだよ……焦ったぁぁあ。連絡来た時はそれなりに覚悟もしたぞ」


「……ああ」


「部屋は?」


「三〇一」


「琳は行かねーの?」


「……俺は、まだ行かないかな」


俺は、まだ行けなかった。


「わかった。んじゃもうちょい待ってて。一緒に帰ろ〜ぜ」


「……おう」


俺は、横目で彼の行動を見続けた。

須藤は受付でチェックを済ますと、安堵の表情を浮かべたまま、エレベーターへと向かっていく。

一言目は何にしようか、などと考えているのだろうか。

彼が、四角い箱に近づくにつれて、俺の心は不安の色で染まっていった。


それからしばらくして、再びエレベーターの扉が開くと、重くはっきりとした足取りが、ロータリーの床に躊躇なく触れた。


俺は、その音が怖かった。


彼は真実を知った。

俺が嘘をついたことも知った。

誰かが味方でいてくれないと、俺はこれ以上、持ちそうになかった。


俺のすぐ側で、音はピタリと止んだ。


「……琳」


力強かった。


「ごめん……」


彼は下を向いていた。


「……なんで」


「察せなくてごめん」


彼の声は、震えていた。

落ち着いていながらも、感情が言葉に乗り移っていた。


「よくよく考えればわかることなのに」


……ああ。


「お前の強がりも、流石に顔には出せていなかったのに」


……そうだ。


「能天気に接しちゃって」


こいつは、こーゆーやつだ。


「ごめん」


他人のことばかり尊重する、クソお人好し野郎だった。

こいつには、全く嘘が通用しない。

取り繕わないで、本音をぶつけても、受け止めてくれるやつだった。


「……もう、起きないんだってよ」


明確な確信と意思を持って、俺はぎこちなく口を開いた。


「聞いただろ? 一種の植物状態だってさ」


「……ああ」


「今朝、一緒に登校してたんだ、俺」


自分が死ぬわけではないのに、走馬灯のように朝の情景が浮かび上がってくる。


「遅刻ギリギリだったから、要が走り出して……俺、止められたはずなのにさ、呑気に笑ってただけでさ」


「……」


「車も見えて真っ先に気づいて走ったのに、寸前で怖くなって立ち止まって……」


「……」


「……ほんっと、馬鹿だよなぁ。浮かれなきゃ、今だっていつもの生活を送ってたはずなのに……」


「……」


「しかも、俺は悪くないって一度心の中で逃げたんだぜ、側にいたのに。まじ屑だよな……」


「……」


「……なぁ……須藤」


言わなきゃいけない気がした。

ここで言わなければ、要らないものまで、永遠と背負い続ける気がした。


「……ごめん……」


「……」


「俺さぁ……悪くないよなぁ……!」


俺の中で、何かが弾けた。


「ああ……」


須藤は何か言おうとしたのか、口を小さく開くも、即座に閉じてしまった。


「本気で悲しいし心配なのにさ、頭からそれがずっと離れないんだよ」


もう、正しく呂律が回っているか、自分でもわからなかった。


「……わけわかんねぇ……」


もどかしい。

実際はわかっているはずだった。

その場にいて、最も要の近くにいて、彼女を止めることもできて、いっそのこと身代わりになることも可能だった俺のせいではないのだと。

二日酔いでアルコールが抜けないまま、パチンコを打ちにいこうと運転していたクソ野郎のせいなのだと。

それなのに、蟠りが一向に離れようとしなかった。

この十二時間、たった十二時間でも、その存在は俺にとって大き過ぎた。

考えるべきことは、そっちじゃないのに。

本当に、もどかしかった。


「……ごめん、先に帰っててくれないか……」


「……わかった」


彼の言葉は、吐息のようだった。


彼は、エントランス付近で立ち止まると、こちらを振り向いた。


「お前、ちゃんと帰れよ」


いつもは軽い調子の須藤だが、今の言葉にはずっしりとした重みを感じた。


「わかってる」


俺も、確かな返事をした。

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