第1話 日常は突如として崩れる
ピピピピッ、ピピピピッ。
頭上で鳴り響く雑音に、俺は夢から現実へと引き戻される。
薄っすらと瞼を開けると、照明の光が煌々と輝いてるのが目に入った。
電気がついている。
おそらく、昨夜の俺はスマホをいじりながら寝落ちでもしたのだろう。
俺のスマホはベッドと壁の隙間に挟まり、苦しそうな音を出し続けていた。
下に落ちないよう、そっと引っ張り出してアラームを止める。
と同時に、全身がやんわり冷やっとするのを感じた。
ロック画面には、8時25分という数字が激しい自己主張を繰り広げている。
「やっべ……遅刻だ」
思わず声に出した俺は、寝室から転がるように飛び出した。
足を交互に動かすと同時に、床はミシミシと独特の音を醸し出す。
身体は起きていても頭は眠っていたのか、勢いのあまり、足元を何かにぶつけてしまった。
バタン、と倒れたそれは、ほこりをまき散らしながら鈍い音を醸し出す。
「……」
ジンジンと訴えてくる右足を気にしながら、俺は洗面所の鏡と相対した。
「……ひでぇ顔」
髪は散乱し、鳥の巣のようになっている。
おまけに、これといった特徴のない顔はむくみ、目元にはクマができていた。
右足の痛みが少しずつ広がっていくのを我慢しながら、俺は全ての身支度を10分で済ませ、とっとと玄関へと向かう。
「いってきます」
薄暗く短い廊下は、返ってくるはずのない、いってらっしゃいという言葉を吸い込んでいく。
最後に聞いたその言葉はいつだったのか、俺は古い記憶を拾い出してはらしくもない感傷に浸ることも稀にあった。
もちろん、今日に限ってそんなことをしている暇などはない。
俺は即座にドアノブに手をかけ、ゆっくりと外へ飛び出した。
「あっつ……」
うざくて憎たらしい程の朝日が、俺をいやらしく歓迎した。
昨夜降っていた大雨が嘘のように、空は雲一つない快晴だった。
原付バイクがマフラーから煙を出しながら俺の横を通過していく。
アスファルトからはみ出る苔には、透き通った水滴がついていた。
3人組の小学生が、物静かな朝を賑やかにしている。
昔から、この辺の風景はほとんど変わらない。
唯一の変化といえば、小2でこの街へ引っ越してきたときには営業していた駄菓子屋が、2年前になくなったことだった。
90歳越えの元名物おばあちゃん店主は、今は老人ホームで暮らしているらしい。
高校へ電車で通っている俺は、次の時間に間に合うよう足を早めた。
幸い、電車は5分程おきに行き交うので、遅刻しかけても間に合うことが多い。
毎朝、きちんとした時刻に家を出ると、パンをくわえたサラリーマンが、駆け足で俺を抜いていく。
漫画のような光景が、この街では見られるのだ。
今思うと、どうして俺はあんなにも焦っていたのかわからなかった。
別に一日くらい休んでも、特になんともないだろう。
こんなことを考え出すと、無性に引き返したくなる。
家に戻って、実際に授業が始まる時間になると、ジワジワと罪悪感に蝕まれるのだが……。
優柔不断な俺自身に、何故だか苛立ちを覚えた俺は、目の前に落ちていた空き缶を軽く蹴飛ばした。
「痛っ!」
突如聞こえた澄んだ声につられ、俺は俯いていた顔を上げると、細長いシルエットの女性が足を抑えていた。
「あっ、すみま……」
女性の振り向く横顔に、俺は見覚えがあった。
バランスのとれた体型に、艶やかな長い髪の毛が小さな顔を優しく包む。
大きな二重まぶたに底のない黒目、自然に生えた睫毛は揃って上を向き、綺麗な鼻筋が全体を彩っていた。
だんだん詳細になる姿は、頭に思い浮かべていた通りの女子高生だった。
「あれ、要か」
「あれ、じゃないよっ。めちゃくちゃ痛いんだけど!?」
「あー、うん、ごめん」
俺は胸前で掌を合わせ、頭を少し下げた。
心から、というわけでは全くなかった。
「私だったからいいけど、知らない人だったら凛死んでるよ」
水無瀬要は、ぶすくれながらも気にしているようではなかった。
「ほんとだな、お前でよかったわ、ほんと」
「いやいや、よくないからね?」
「死んだら弔ってくれ」
「イヤだね」
彼女は、俺の渾身のボケを軽く受け流した。
俺は小さな頃から、彼女のこういう表裏のない純粋な性格に小さな憧れを抱いていたのかもしれない。
何事にも笑顔で向き合う、そんな真っ直ぐな姿に。
自分と彼女を重ねて。
俺には決して真似のできないことなのだと。
「てか、お前も寝坊か?」
「え、うん……。もちろん!」
何故だか、彼女は自慢げだった。
両手を腰に当て、大きくも小さくもない胸を前に突き出す。
二イッと笑う口元から覗く白い歯には、陽の光が綺麗に反射していた。
「こんな時でも相変わらずご機嫌ですね〜、要さんは〜」
「ん、なんだよその言い方」
「特に意味はないって」
要は、俺に歩幅を合わせた。
「今日は何で寝坊したの?」
「別に何でもいいじゃんか」
「……ふ〜ん」
彼女の納得いかないような表情もつかの間、何かを閃いたかのようにパッと表情を明るくすると、ニヤニヤしながら俺を見据える。
この目は何度となく見てきた。
必ずと言っても過言ではないほど、彼女はこの後、俺を小馬鹿にしてくる。
なんだか嫌な予感がした。
「わかっちゃった。琳、遅くまでエロ本でも見てたんでしょ」
予想は的中した……したのだが、想像とは180度違った回答が突拍子に飛んできた。
急に何を言い出すかと思えば、要の口からは想像できないフレーズだった。
「はぁ? んなもん見てねーわ」
「またまた〜、私には何でもお見通しだって知らなかった?」
彼女は片肘で、俺のわき腹を二回突いてくる。
「いや知らんしホントだし。それよりお前がマセたこと言うのに驚いてるわ」
「舐めてもらっちゃ困るな。私だってもう高校生なんです!」
何故だか、また彼女は自慢げだった。
これが漫画であったのなら、鼻から目に見える空気でも出てきそうな表情をしている。
もう少し、女の子らしくはできないものか。
「……あぁ、そう……」
俺は意図的に冷たい視線を彼女に向けた。
今の自分の顔を鏡に写してみたい。
「うわ、何だその顔は。ひどいな琳ちゃーん」
「はいはい」
他愛もない会話は、ここでひと段落ついた。
涼しく静かな風が心地よく吹いている。
梅雨に入る前、春と夏の境目というのだろうか、俺はこの季節が2番目に好きだった。
まるで、桜が散るのが合図かのように、学生たちも何かと活発になる。
新年度当初は互いに探り合っていた関係も自然と打ち解け、スクールカーストが浮き彫りになる時期。
俺は流れに乗ってきた落ち葉をスッと避けた。
「てか琳、今何時?」
要に聞かれるがまま、俺はポケットからスマホを取り出すと、画面に大きく表示された時刻を確認した。
自分で見ろと、少し心の中で愚痴った。
「んと、8時38分」
「うぇ。41分逃したら完全遅刻じゃんっ! 琳、走るよ!」
彼女の感情は忙しい。
昔からあっちいったりこっちいったりと、人を振り回すのがお得意だった。
「おい、別に間に合うって。そんなに走ると危ないぞ」
と言いつつも、走り出している彼女をもう止めるつもりはなかった。
「あ、デブだからちょうどいいのか」
俺がこんな絡み方ができるのも、彼女くらいだと思う。
別に彼女に振り回されるのは嫌いじゃない。
嫌そうなフリをするけれど、既に俺の足も早まっていた。
その理由を見つける気も、俺にはさらさらない。
「ん、今なんて言った? はやくしろ? ん?」
わざとらしく、彼女は、目だけを一切動かさずにはにかんだ。
「こっわ」
彼女の冷たくも温かいその言葉と、振り向く姿に、俺は自ずと惹かれる。
……その瞬間。
一足先に青信号を渡る彼女の横から、大きな岩のようなものが勢いよく飛び出した。
「要っ!」
黒い怪物は、目の前にいる淑やかな娘を今にも喰らおうとしている。
俺は、全力で走った。
彼女を救うために、全力で走った。
だが、あと少し、あと少しで手が届くところで、見えない何かが、俺を襲った。
キィィィィインッ!!!
ガンッ!!
強い衝撃と鈍い音が交差して辺りに響いた。
俺の身体から一瞬で血の気が引く。
俺以外の時が止まったような、そんな感覚が物凄い速さで襲ってきた。
焦りと不安、怒りと絶望、様々な感情が刹那に溢れ、俺の思考は停止する。
頭が真っ白になった俺は、無我夢中に、ただ彼女の名前を叫ぶことしかできなかった。
「要ぇぇえ!!!」
幼馴染の横たわるアスファルトには、鮮やかで深い、紅色の水たまりが広がっている。
記憶の奥底から、思い出したくない何かが、少しずつ浮き上がってくるのを感じた。
無意識に、拒否してきた思い出が、這い出ようとしてくる。
徐々に大きくなるソレは、幼き日の悪夢をゾッと蘇らせようとした。
「あ……あ……」
正気のない、濁った嗚咽が俺の口から飛び出す。
もう二度と見たくない、そう思っていた光景が今、目の前に映し出されていた
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます