第9話 助教さんと事務さん

 気づけば何度も同じ行を行きつ戻りつ、読んでしまっていた。目がすべってしまう。僕はすっかり気持ちがなえてしまい、資料をまとめると家に帰ることにした。大半の生徒や教員のようにホウキを使えない僕は、もう十年近く乗っている、中古の軽自動車で通勤している。

 駐車場を出てバス停の前を通り、駅に向かおうとしたところで、ふとバスを待つ人影に気が付いた。

 車を止めて声をかける。

「紺谷さん!」

 黒髪を後ろできっちりと結んだ彼女は、顔をあげた。事務の紺谷さんだった。

「紺谷さん、今日はすみませんでした」

 ナイト・スパイダーの一件について、動いてもらったことをまずは謝る。

「いえ、仕事ですから。でも始末書、早急に出してくださいね」

 眉ひとつ動かさない紺谷さんの様子に苦笑する。怒っているわけではない。この人はこういう人なのだ。

「バス、何分後ですか?」

「最終があと三十七分後にきます」

「よかったら乗っていきます? 駅まで送りますよ」

 彼女はそのまま黙って進み出てドアを開けると、助手席に座った。

「ありがとうございます。わたくし、魔力もなければ免許もありませんので、至極不便に思っていたところでございます」

 見たままの、きっちりとした話し方で彼女は言う。僕はウインカーを出して、本線に戻った。

「あ、そうか、紺谷さんも魔力ない人だっけ」

「白川先生もでしたか」

「ええ。さっきも学生に影で「魔力ゼロで研究者なんて変わってる」って言われてるのを聞いて、ちょっぴりしぼんでいたところです」

 歩けば二十分以上かかる道のりも、車なら五分とかからない。その短い道のりだからこそ、笑い話にしてしまうならちょうどいいだろうと思ったのだろうか。ついそんなことを口にしてしまった。

 紺谷さんは黙って前を見ていた。

「なんて、すみませんつまらない話を……」

「私、非常に字が汚いのです」

「えっ?」

「字が汚いのです。ものすごく達筆そう、と言われるのですが、もうどうしようもなく汚いのです」

「……へぇ……なんか、意外だな」

「通信講座やなにやらは手当たり次第やりましたが、もう全くだめでした。きっちりとすべてカリキュラムを終えましたが、やはり癖が強く──汚いのです」

「それはまた……大変ですね」

 僕は話の流れがわからないまま、相づちを打った。

「しかし、だからといってどうして事務職についたの? とは誰にも聞かれたことがございません」

 駅前のバスターミナルが見えてきた。乗降スペースに車を止める。

「そんなことは些末なことです。字が汚ければ書かなければいいだけのこと。今は機械が発達してきています。今に全くペンを持たない未来がくるはず」

「なるほど……?」

 僕はいまだ彼女の言いたいことがつかめず、全く納得していないまま、そう答える。

「魔法が使えなければ、使わなければいいだけのこと。事務員にもっとも大事なことは字がきれいなことではないし、研究者に必要なことは魔法が使えることではない。違いますか? 私は、そう考えますが」

 彼女は荷物を持って、ドアをあけると、外に出た。

「とても助かりました。ありがとうございました」

 そう言うと、振り返らずに改札へ向かっていく。

 もしかしたら、おそらく、どうやら、多分──はげましてくれていたようだ。

 僕は、それを理解して、遅れて少し笑った。

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