第98話 ほくほく
久しぶりにジブリさんの店に来ている。
お客さんは私と小宮山さんの他にもうひと組だけ。静かな午後だ。
今日の小宮山さんは40歳。ノースリーブのTシャツに、薄いラベンダーのロングスカート。大きな知恵の輪みたいなピアス。コーヒーとクロックムッシュを待つあいだ、壁にかけられた抽象画を見ている。
私はそんな小宮山さんを美術品のようにながめた。
すると、「しおりちゃん、今日は何してた?」と小宮山さんの黒目がスライドして私と目が合う。
「えっと、今日は掃除しただけです。起きるのも遅かったし」
「私はね、靴を買いに行ってた」
「えー? ここに来る前?」
「ここに来る前。6足も買ってしまった。予算20万円ぎりぎりで」
「富豪じゃん」
「私は買い物したら、可能な限り自分で持ち帰りたい派なんだ。だから今日、しおりちゃんを呼んだの」
「え? 荷物持ち?」
「4店にまたがって取り置きしてるから、けっこう歩くよ」
「どへえ」
「どへえ?」
「暑いのに……」
「そんな曇った顔するなよ。私は晴れやかな気持ちなんだ。ほんとは40万ぐらいの買い物なんだからね。上手に交渉して、明日からセール品ってやつを特別に今日売ってもらったりもしてるわけ。ほくほくなんだよ」
「ほくほく?」
「そう、ほっくほく」
「いや、そうじゃなくて……ほくほく、とは?」
「え?」小宮山さんの顔がさっと翳った。「ほくほくって言わない? 嬉しいとき」
「ああ……親戚のおばさんが言ってた気がする。なんか、好きなアニメのグッズ大量に買えたときとか。もうほくほくよ! とか言って、機嫌良くなって、喫茶店でご馳走してくれたな。小学生の頃」
「おばさん……まじか。ほくほくって今もう言わないの?」
「言わなくはないですけど……。私はコロッケのおいしさを表現するときにしか使わないですね」
「コロッケ限定なの」
「あと、焼き芋! 焼き芋大好き!」
「急に大声出すなって。静かな店だぞ」
「焼き芋がどうかしたの? 私も大好きよ」と言ったのはジブリさんだ。私たちの料理を運んできてくれたのだ。「焼き芋屋さん見かけたら走って追いかけちゃうぐらい好き。さつまいものブリュレだったらこの店のメニューにもあるから、今日のデザートにいかがかしら」
ジブリさんは今日も完璧にジブリさんだ。さっぱりしたグレイヘア。黒地に水玉のジャンプスーツ。痩せてるし、私たちの前に次々とお皿を並べる手つきも機敏だ。
こんなお婆さんになりたい。
「質問なんですけど」小宮山さんがジブリさんに聞く。「日常会話でほくほくって表現、使ったことあります?」
「ほくほく?」とジブリさんは空になったトレイを胸に抱えた。「お風呂上がりとか……はホカホカよね。このクロックムッシュは? これもホカホカか。ほくほく。ほくほくねえ。すごい臨時収入があったときに使うかしら? 使うかなあ?」
「小宮山さんの世代しか使わないんじゃないですか?」ジブリさんに無理をさせた気がして、私はこの話題を打ち切ろうとする。
「そんなはずはない!」と小宮山さんが拒否した。「辞書にも載ってる言葉なんだから。いろいろ検索して調べてみよう。でもまずは、このおいしそうなパエリアとオニオンスープを堪能する時間ね」
「そっち私の注文だよ」
「急にしおりちゃんのほうが食べたくなっちゃって。交換しよ?」
「しない」
「半分こしたら?」とジブリさんはにっこり。「今日のパエリアは生姜が効いてるのよ」
デザートのさつまいものブリュレを食べ終わって、紅茶を飲みながら、小宮山さんはスマホで「ほくほく」を調べる。
ネットの辞書を複数調べた結果「ほくほく」は、
嬉しいとき
金銭に余裕があるとき
ふかしたり焼いたりした芋などの様子
ゆっくり歩くさま
などを伝えるときに使用される表現だ。
今日の会話でだいたい出揃っていた。
「ゆっくり歩くさま、ってのが思いつかなかったね」と小宮山さん。
「どういう使い方だろう。あの人の歩き方はほくほくしてるね、とか? ピンとこないな」
「とぼとぼ、みたいな感じじゃない? ほくほく歩く」
「なんか速そうですけど。ほくほく! 力づよい歩き方っぽい」
「私はアシモの歩き方みたいなイメージだな。ほくほく」
「あしも?」
「ASIMO。ロボットいたじゃん」
「ASIMO! いたなあ。私、すっごい子供の頃です」
「若いね。若いっていいね」
「ASIMOなつかしい! たしかに! ほくほく歩いてた!」
「すごいテンションあがってるじゃん。ほくほくを使いこなしてるじゃん」
「ASIMOかあ。辞書の【ほくほく】の欄に書いててほしいですね。ASIMOの歩き方のこと、って」
「ASIMOの歴史は長いんだよ。何種類もいるんだから。しおりちゃんが見たASIMOは最後のほうのASIMOだよ。初期型は歩き方もほくほくじゃなくて、とぼとぼ、とか、ずり……ずり……とかだったんじゃない? 知らないけど」
「なんで急に機嫌悪いの」
「しおりちゃんがASIMO見たの子供の頃、って事実が効いてきた。ジェネレーションギャップがみぞおちに響いてる」
「歳を取ると、ほんとに時間の経過が早いのよね」ジブリさんが隣のテーブルを拭きながら笑う。「私なんて、ASIMOが歩いてた記憶って、ほんの2、3年前って感じだもの」
「へえー」と私。なんと言って良いかわからない。
「あなたたち、本当にいつも仲良しね」ジブリさんは腰に両手を当て、少し首をかしげて微笑む。「私くらいの歳になったとき、この店で楽しくお喋りしてたことを、昨日のことのように思い出してくれたら嬉しいわ」
大きな窓の日射しが、背後から優しくジブリさんを照らしている。
ジブリさん……ジブリさん!
もう少しナーバスな時期だったり、軽く酔っ払ってるときだったら、私はジブリさんにしがみついて泣きじゃくっていた自信がある。
体調が良かったので醜態をさらさずに済んだ。
「時間進むの速いから、あっという間に未来だよ」小宮山さんが紅茶の残りをぐいっとテキーラみたいに飲み干した。「科学が進歩して、100年後、私たち3人ともまだ生きてて、ASIMOみたいな金属のボディになってて、ほくほく歩いて、毎日この店に集まってるかもよ」
「それは素敵ね」とジブリさん。
本当に素敵だ。
ユーモラスだし。
「しおりちゃん、それ飲み終わったら出るよ」小宮山さんが何の余韻もない言い方をした。「靴運びだ」
「どへえ」
炎天下、大荷物でほくほく歩く自分を想像して、私はげんなりした。
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