第96話 バックドラフト

 私と小宮山さん。そしてあほの藤田くん。

 部室に3人が勢揃いすると、暑い。

「藤田くん、もう帰ったら?」私が入学するより前から部室にあったうちわをパタパタしながら私は言った。

「脚本の直しをしてるんだけど」藤田くんはPCから顔を上げずに答える。

「そんなの家でもできるでしょ。ここのクーラーの能力の低さわかってる? パソコン、熱暴走するよ」

「いまところだから、中断したくないんだ。少し我慢してよ」

 生意気を言うじゃないか。

「じゃあ図書館行きなよ。それぐらいの距離なら、も維持できるでしょ?」

 藤田くんは2秒ほど黙った。

 なんかムカつく2秒だ。

「小宮山さんに帰ってもらったら? 見たところ何もしてないし」

「何もしてないとはなんだ! 小宮山さんは小宮山さんであるという作業をしている!」私はテーブルに両手をついて立ち上がり、小宮山さんを振り返った。「ねえ、小宮山さん。こいつ失礼なこと言ってますよ!」

 小宮山さんは返事をしない。

 しくしく泣いていた。

「なんで泣いてるの!」

「口内炎が痛くて」

 小宮山さんは唇をそっと撫でながら目を閉じた。今日の小宮山さんは31歳。タマワンに住む若いセレブママ、みたいな風貌だ。タワマンに住む若いセレブママたちには口内炎なんてできないんだろうな。なんでもミキサーにいれて柔らかくするらしいと聞きますからね。知らんけど。

「口内炎ぐらいで泣かないでくださいよ。私だって口内炎ありますよ。いま」

「何個?」

「何個? 1個ですけど」

「私4個だよ」

「4個は凄いな……」

「僕も口内炎2個あります」

 遠くの席から藤田くんが言った。私たちはそれを無視した。

「喋るのもつらいんだから」と言いつつ小宮山さんは喋る。「口内炎第12号から15号までが同時に来てる。異常事態だ」

「号で呼ばないでよ。台風じゃないんだから」

「台風みたいなもんだよ。たしかに、台風はすごい被害をもたらすよ? でも、台風が来ても被害受けないときも多いじゃん? その点、口内炎は100%被害をもたらす。うどんすら食べられなくなる。たらみのフルーツゼリーすら染みる。あと、台風が同時に来るのって多くても2個か3個でしょ。私4個」

「もうわかったって」

「いっそ台風みたいに名前付けようかな。台風ってぜんぶ名前付いてるじゃん?」

「僕は名前付けてますよ、口内炎に。ひとつめの口内炎はアカンティラド。スペイン語で崖を意味する単語です。もう一つはバックドラフト。これは好きな映画の名前です」

 遠くの席から藤田くんがぶつぶつ言った。私たちはそれを無視した。

「まず右頬の内側にある口内炎12号は……」小宮山さんはスマホで何かを検索しながら言う。「カウム。カウムと名付けよう。ラテン語で洞窟という意味だよ。こいつ、洞窟みたいに深いからさ」

「そういう感じの名前の付け方かあ」私も少し考えてみる。「じゃあ、私の口内炎はハデスって名前にします。昔飼ってた犬の名前です」

「犬にそんな名前付けるなよ」

「お母さんが付けたんですよ。死なないようにって。死んだけど」

「ちょっと。笑わせないで。イテテ」小宮山さんが顔をしかめる。「あんま喋りたくないんだよ。口内炎4個の地獄をわかってよ」

「小宮山さんがいちばん喋ってますよ。自発的に」

「あーもう。さっさと名前付け終わらないと。5個目ができちゃう」

「そんなシステムなの?」

「12号の真下にある13号は、ブリトニーにする。ブリトニー・スピアーズが好きだから」

「早くも雑になりましたね」

「左下の、歯茎らへんにある14号は」再びスマホを手にする小宮山さん。「うーん。何語にしようかな。ちょっとマイナーな言語が良いな。ウォロフ語とか。でも読み方がわからんな……イテテ」

 またしても小宮山さんに苦悶の表情が一瞬浮かぶ。

 口内炎のせいで滑舌も全体的に甘くて、ちょっと可愛い。

「あー、めんどくさいな。クラムチャウダーにしよ。第14号の名前」

「なんでクラムチャウダー?」

「早く回復してクラムチャウダー飲みたいから。その願いを込めて」

「クラムチャウダーを飲めるようになるには、クラムチャウダーが消滅する必要があるんですね」

「悲しいさだめだよ……クラム、痛っ。噛んだ」

「お水飲んだら?」

「そうする」小宮山さんはバッグからいろはすを取り出しながら言う。「第15号は、しおりって名前にする」

「そんなタイミングで決める? てか私の名前! なんで!」

「唇の裏にある裂傷みたいなやつで、いちばん痛くて厄介な口内炎だから」

「唇の裏、かあ……」

「反応するとこ、そこ? なんでうっとりした顔なの!」

「私は今、小宮山さんの唇の裏側にいます」

「きもいんですけど」

「治りたくないよ~。ずっとここにいたいよ~」

「感情移入しないでよ。感情移入の速度も深さも怖いんですけど」

「藤田くん!」私は素早く振り返りながら言う。「女子がいちゃいちゃしだしたら出て行くのがマナーだよ……って、あれ? いない」

 窓際のPCデスクは空席だった。

「藤田くん、いましたよね?」と私。

「いたよ。怪談話にしないでよ」

「藤田くんって、私たち以外にも見えてます?」

「見えてるって。無視されすぎて帰ったんだよ。気づいてなかったの? さすがに可哀相だよ。ちゃんと挨拶して行ったんだから」

「えー! 私、小宮山さんの口の中にいたから気づかなかったのかな?」

「クラムチャウダーまみれになりたいの?」

「うふふ」

「うふふって何だよ。ほんとに怖い!」

 うふふ。

 私はなんだか良い気分だ。口内炎に私の名前を付けてもらったし。

 あと、クーラーの効きが急激に向上した気がする。

 藤田くん、藤田くんのノートPC、藤田くんの口内炎2つ。これがぜんぶ消えたのだから、当然か。

 というか、さっきまでは狭い部屋に口内炎が7つもひしめいていたんだな。

 そりゃ暑いよ。

 

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