第94話 野生の熊

 朝9時。大学の図書館で調べ物をしていると、なぜか小宮山さんに発見され、喫茶店に連行されてしまう。クロックムッシュとロイヤルミルクティーを奢ってもらった。小宮山さんは何も食べず、オレンジジュースを飲んでいた。

 だらだらお喋りして、気づいたら11時。慌てて図書館に戻ろうとすると、引き止められ、今度はマクドナルドに連行される。ホットアップルパイとコーラを奢ってもらった。小宮山さんはビッグマックを食べた。

「ビッグマックもう1個食べなさい、と誰かに命令されたら、余裕で食べるよ」と真面目な顔で言う小宮山さん。「誰も命令しないよ」と私はお腹をさする。思ったより満腹になってしまった。眠くなる。

 そのままマックでうだうだしていたら、もう午後1時。

 合計4時間も無駄にしてしまった。

「そろそろ戻りません?」と私。

「まだまだ戻らない」と小宮山さん。

「午後の授業取ってますよね?」と私。

「午後の授業取ってるよ」と小宮山さん。

「出席危ないって言ってませんでした?」と私。

「出席危ないって言ってた」と小宮山さん。

 なんだこいつ……。

 今日の小宮山さんは4歳。ではもちろんない。さすがの小宮山さんも4歳にはなれないのだ。それどころか今日は36歳。立派な大人だ。すっきりしたベージュのトップスと、前スリットのデニムスカート。メイクもクール。私の好きなタイプの小宮山さんですね。見た目はね。

「あーあ。お金欲しい」小宮山さんが優雅に頬杖をついた。「お金っていっても、100万200万の話じゃないよ? 2兆とか3兆とかの話だからね。荒唐無稽だと思う? でも今から10年ぐらい前……20年ぐらい前だっけ。とにかく昔にね、ロマン・アブラモビッチが……ロマン・アブラモビッチ知ってる? ロシアの石油王なんだけど。ほんとだって。油で儲けてる人の名前がアブラモビッチなんだから。ほんとにいるよ。Wikipediaにも載ってるよ。まあ、そのアブラモビッチがね、浮気して離婚したんだよ。そのときアブラモビッチが払った慰謝料が1兆円とかだったわけ。ニュースにもなったよ。Wikipediaにも載ってるし。だから、私が2兆円や3兆円を手にする可能性だって完全にゼロってことはないのよ。あーあ。お金欲しい」

 すごい喋るじゃん。

 急に。

 内容はバカみたいだが。

「3兆とか欲しいですか? そこまで桁違いにお金あると、逆に無邪気に遊んで暮らすってわけにはいかないような……そもそも何に使うんです?」

「何に使うとかじゃないんだよ。安心を買いたいの」

「安心」

「今後の人生何があっても大丈夫、という安心。病気になっても安心だし、仕事クビになっても安心だし、バス乗り過ごして知らない街で降りても安心。今年また留年したって、私は3兆持っているのだが? という余裕の前にはノーダメージ。何の痛痒もない」そこで小宮山さんはテーブルに突っ伏した。「はあ〜。授業出たくない。ほんと出たくない。もう何もしたくない。子供の頃に戻りたい。あの日にかえりたい」

「あの日って?」

「荒井由実だよ」

「??」

「まあ冗談はそれくらいにして」小宮山さんが顔をあげる。

「冗談だったの? どこからが?」

「授業出たくない、だけ本当」

「何でそこまで出たくないんですか? 何かあったの? いじめ? アカハラ? 次の授業に元カレが8人いるとか?」

「そんな近場で済ますかよ」

「理由を教えてくださいよ」

「理由はないよ。急に何もしたくなくなっただけ。ビッグマック食べる以外。ここにはビッグマックがある。大学にはない。強いて言うならそれが理由だよ。よくあることでしょ?」

「ないよ……ビッグマックの味を覚えた野生の熊とかならわかるけど」

「ビッグマックの味を覚えた野生の熊! だってさ! たはー! おもしろい!」小宮山さんがテーブルをばんばん叩いて笑う。

 感情の起伏が激しいな……。

「とにかく、私は戻りますね。レポート書かないと」

「私も行くよ。『野生の熊』がおもしろかったから、なんかやる気出てきたな。授業出ようって気持ちになった。すべてをなぎ倒し、すべてを破壊しようという気持ちが出てきたよ」

 野生の熊になろうとしてないか……?

 まあいいけど。

 しかし私は、窓の外の異変に気づいた。

「雨降ってきましたよ」

「ええー?」小宮山さんが露骨に嫌な顔をする。「やる気なくした。授業に出ようって気持ちもなくした。すべてを破壊しようという気持ちもなくした」

「何もかも失いすぎでは」

「傘ないもん」

「私もないです」

「じゃあ無理だね」

「私、そこのファミマで傘買ってきます!」私は勢いよく立ち上がる。「めっちゃでかい傘買います!」

「なんで急にやる気出してんだよ」

「相合い傘ができるからです!」

「相合い傘したいんだ、私と」

「したいです!」

「なんてまっすぐな目だ……可愛いやつめ」

「可愛いと言いましたね」

「言ったけど」

「私はひとつも聞き逃すことはないですよ、私に向けられた可愛いという言葉を。そして一生忘れることはない。私に向けられたすべての可愛いという言葉を」

「急に変な人にならないでよ。ツッコミでいてよ。早く傘買ってきてよ」

「傘は私が奢る形になるんですかね?」

「当然でしょ。相合い傘してあげるんだから。私と相合い傘する権利、大学でオークションにかけたら1万円からのスタートだよ」

「くそう! このワシに3兆円さえあれば!」

「誰なの? 石油王?」

「相合い傘の権利を売りに出す、そういう尊大な小宮山さんも素敵だと思いますよ。私はね。でも、よそでは言わない方が良いです」

「冗談に決まってるじゃん。ていうか、ぜんぜん席を立とうとしないじゃん」

「相合い傘に向けての心の準備が整ってなくて……」

「大イベントなの?」

「大イベントですよ! 傘を買ってきたらすぐに始まるんです! 腕とか組んでも良いですか。やっぱいいです。腕とか組まないです。何も聞かなかったことにしてください。はあ〜、傘買いに行きたくねえ〜。行きたいのに行きたくねえ〜」

「キャラ変わりすぎだって」

「とりあえず、もう1個ビッグマック食べてください。小宮山さんがビッグマック食べ終わるまでに、心の準備整えます」

「あれは冗談だって。ビッグマック2個も食べないよ。野生の熊じゃないんだからさ」

 野生の熊だよ。

 小宮山さんという現象を、別の言葉に置き換えたらね。

 


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