第93話 哲学の効能

 目の前に29歳の小宮山さんが横たわっている。部室のぼろぼろのソファを岩礁に見立てて、人魚の真似でもしているみたいに。

 私はローテーブルを挟んだ向かいの椅子で縫い物中。

 部屋の空気は生ぬるい。日射しはまろやか。藤田くんがゴミ捨て場から拾ってきたクリーム色の扇風機がのろのろ回転している。

 静か……ではない。

「はあ〜あ」

 小宮山さんの芝居がかったため息が断続的に聞こえている。

 もう40回目ぐらい私に無視されている。

「何かあったんですか?」根負けして私は聞いてあげた。4回ぐらいで黙るかなーと思ってたんだけど……。

「最近、眠れなくてさあ。夜」と半身をこちらに向ける小宮山さん。

「不眠症?」

「いや。昼寝を日課にしたから、だね」

「昼寝やめなよ」

「無理。気持ち良すぎて。昼寝が楽しみで生きてるようなもんだからさ、今の私。昼寝中毒なんだよ。昼寝すると作業の効率も上がるしね」

「作業? 何の作業ですか? さっきから私だけですよね、手を動かしてるの。昼寝したんなら作業してください」

「一撃でブチ切れしないでよ……作業ってのは、授業のレポートとか、そういうの。それに、今日はまだ昼寝してない。だから縫い物もできない。昼寝なしにやれるような作業ではない。よって、今から昼寝をします」

 変な宣言をして、小宮山さんはソファに突っ伏した。

「いま寝たら、また夜眠れませんよ」

「そうなんだよなあ……」小宮山さんが顔を上げた。顔の半分が髪で隠れているけど、見える範囲はしかめ面をしている。「でもなあ。昼寝の虜なんだよね。この世に昼寝以上の快感ってあるかね? 食欲、睡眠欲、性欲が人間の3大欲求とか言うじゃん? あれ嘘だね。食欲、爆買い欲、昼寝欲だね」

「唐突な『爆買い欲』の登場に動揺を隠せないんですけど……。昼寝欲は睡眠欲に含まれないんですか?」

「すべての睡眠が好きなわけじゃないもん。昼寝は気持ちいいけど、夜は寝れなくて苦しいからね」

「昼寝するからじゃん」

「例題を間違えたな。あれだ、セックス、ドラッグ、ロックンロール。知ってる?」

「なんか、聞いたことはあります」

「昼寝、昼寝、ロックンロールぐらいにすべきだね、あれも」

「昼寝が許可なく領土拡大してるんですけど」

「昼寝、昼寝、ボサノバでもいいかな」

「寝ようとしすぎでは」

「昼寝、昼寝、民法IIの教科書、とかね」

「露骨に寝ようとしすぎでは」

「だめだあー! 眠い!」小宮山さんが大声を発して目を閉じた。「やっぱ少し寝るね。しおりちゃん、スマホでジョビン流して」

「じょびん?」

「それか民法IIの教科書朗読して。あー、でもなあ。若い女の子が民法IIの教科書朗読してたら、逆に興奮してきちゃうかも」

「きもいんですけど」

「ね、ね、お願い、民法IIの教科書朗読して!」

「私、民法II取ってないんですけど」

「じゃあ今持ってる教科書でいちばん眠そうなの何?」

「……西洋哲学史かな」

「それだ。カントとかニーチェとか、その辺りをやってくれ。ドイツ人だ、とにかくドイツ人の寝言を読んでくれ」

「寝言……哲学ですよ」

「哲学者って、目の覚めるような立派な寝言つぶやいた人のことでしょ」

「だとしたら、目、覚めますよ」

「哲学ごときで私の目は覚めない。二重の意味で。しおりちゃんが哲学書を朗読するの聞きながら眠りたい。しおりちゃんの可愛い可愛い小声で、小難しい意味不明の寝言を聞きながら眠りたい……天使の歌声を聞く、傷ついた戦士の顔をして……」

 なんか、まんざらでもない気分になってしまった。

 意味こそ不明だが。

 私は好きな人の要求を何でも飲んでしまう、ちょろい女なのか?

 仕方ない。

 西洋哲学史の分厚い教科書を適当に開いて、適当に音読してみる。

「哲学と死の結びつきは強い。『哲学とは死を学ぶことである』と言ったソクラテスから、人間を『死への存在』と規定したハイデガーに至るまで……」

 ここで私は黙る。

 早くも小宮山さんから『生』の気配が消えているのだ。

 ただそこにある『物自体』と化してしまったようだ。

 大丈夫か?

 と少し心配になってきたけど、音読を再開する。

「ここに述べられた『悟性』とはカントの言う『悟性』とは異なる文脈であり……」

「すーっ!」

「すーっ?」

 とは??

 私は再び教科書から目を離し、小宮山さんの様子を観察する。

 しなやかに伏せられた体がゆっくり上下するたび、

 すーっ! すーっ!

 という強い音を発している。

 何だ?

 何のことはない。

 小宮山さんの寝息だ。

 強い寝息を発しながら、小宮山さんが眠っている。

 朗読なんてなくても一瞬で眠れたんじゃない?

 さっきまでの変な会話は、寝る前のだったのか?

 あほらし……。

 私は教科書を閉じて縫いものを再開する……つもりだったけど、針を裁縫箱にしまい、途中まで縫いつけた布を膝掛けみたいに使う。

 瞬く間に私も深い眠りに落ちていった。

 哲学と眠気の結びつきは強い。何を言っているのかまるでわからないソクラテスから、もっと何を言っているのかわからないハイデガーに至るまで。

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