第91話 人形劇を見ない

 今日は人形劇サークルの公演日だ。

 といっても、私と小宮山さんは何もすることがない。本番はいつも藤田くんと、藤田くんが毎回どこからか連れてくる謎の人形劇集団の手によって実行される。

 だから私たちは公演を見に行かないこともあるのだが(興味ないし)、今回は2人とも暇だった。

 小宮山さんと大学で待ち合わせて、バスに乗る。

 荷物運びすら手伝わない私たちだ。

 今日の小宮山さんは26歳。久々の実年齢である。なんだかんだいって、実年齢の小宮山さんというのは良いものです。なんか生々しい感じがしてさ……うえっへっへ。

 私がいちばん後ろの席の窓側に座ると、小宮山さんは隣にぐっ、と距離を詰めて座ってきた。

「暑いんですけど」

「私、窓側が良かった」

「替わりましょうか?」

「いい。窓側に座りたかったのに! という気持ちを表現したいだけだから」

 迷惑なことを言いながら、私の体にぐいぐい肩を押し付けるという迷惑行為を小宮山さんはやめない。

 そこで私は気づいた。

「ん? 小宮山さん、ひょっとしてプール行ってきました?」

「えっ」小宮山さんはパッと私から体を離す。「ジムで1キロ泳いできた」

「朝からすごいな」

「なんでわかるの?」

「なんとなく……匂いが」

「におう?」

「いや、匂いというのは直接的な意味ではなくて……質感ですね。小宮山さんの質感が、プール上がりの小宮山さん特有の質感になってます」

「どういうことよ。意味わからないし、微妙に怖いのだが」

「プール行ったの当てただけでしょ。私は何でもお見通しなんですよ」

 バスが揺れる。

「具体的にどういう変化を感じ取ったの?」

「うーん」私は少し考える。「お風呂上がりの人って、服着ててもぱっと見で何となくわかるじゃないですか。あれに近いかな」

「プール上がったあと、ちゃんとシャワー浴びて、それから2時間ぐらい経ってるんだけどな。まだ匂いする?」

「だから、匂いというのは直接的な意味ではなくて……あ、でも匂いもする」

「どんな匂い?」

「プール漬けにした小宮山さんのような匂い」

「怖いのだが。言い方が猟奇っぽいのだが」

「いい匂いですよ」

「あー、でも昔の文豪が言ってたよね。風呂上がりの女の肌はカフェモカに溶かしたセメダインの匂いがするものだ……って。志賀直哉だっけ。バタイユだったかな」

「どっちも書きそうにないですけど」

「カフェモカじゃなくてソルティドッグだったかな。セメダインじゃなくてマックブックエアーだったかも」

「絶対違うよ」

「志賀直哉じゃなくて渡辺淳一だったかも」

「渡辺淳一って何書いたんでしたっけ」

「失楽園とか」

「失楽園はミルトンでしょ。ていうか聖書?」

「渡辺淳一も失楽園書いたんだって。平成になってから」

「遅。失楽園書くの遅」

「遅いとかあるの?」

「ミルトンと比べたら遅すぎですよ」

「内容はミルトンと全然違うんだけどね。中年の不倫エロ小説だから。どろどろの」

「きも」

「渡辺淳一の失楽園だった気がしてきたな。風呂上がりの女の肌が蜂蜜まみれのマックブックエアーに似てるって書いたのは」

「勘違いだと思いますよ」

「あー! 谷崎潤一郎だ!」

「もういいって。私、少し寝ますね」」

「いや、本題はここからなんだよ」

「本題とは」

「しおりちゃんなら、どういう風に表現する? プール上がりの女の肌の匂い。バス降りるまでに考えて。5、6個」

「なんでそんな大喜利みたいなことしないといけないの?」

「暇だから」小宮山さんは私に腕を差し出す。「ほら。匂いかいでみて」

「くんくん」私はふざけた感じを装って、小宮山さんの腕の匂いをかいだ。「はあー。なるほど。こういう匂いね。解像度が上がりました」

「匂いかぎすぎじゃない?」

「髪の匂いとかのほうが表現しやすいんですけど。まあ、私もそこまではしませんよ。変態じゃないので」

「じゃあ良い表現を思いついたら、髪の匂いかいでも良いよ」

「ご褒美みたいに言われても」

「いや、目が望んでたからさ。そういうご褒美を」

「そんな目はしてない。そういうご褒美もいらない。けど、まあ、考えてみましょうかね。ご褒美はいらないけど」

「いるんだろうな……」


 で。

 バスを降りるまでの7分間で私が考えた「プール上がりの女の肌の匂い」の文豪的な表現。


・桃の中心部にオリーブオイルを満たしたような匂い


・新品の本にハッピーターンの粉と、紅茶の粉末をまぶしたような匂い


・雨が降りそうな早朝、森の小道を自転車で走り抜けるときのような匂い。遠くで火事


・病院の床にバニラエッセンスを霧吹きでかけて、そこに寝転んだときの匂い


・エレベータのドアに挟まれて恥ずかしい思いをした瞬間、脳裏に脈絡もなく閃いた、幼いころ親と行ったお祭りで食べた綿菓子と焼きイカの混じった記憶の中の匂い


 最後のひとつを言い終わったとき、ちょうどバスが停車した。

 私たちの目的地だ。

 小宮山さんが何も感想を言わずに降りる。

 私もあとに続いた。

 むわっとした熱気。日曜の昼下がり。街は奇妙に静まりかえっている。

 人形劇の会場まで、徒歩12分。


 4分ぐらい歩いたところで小宮山さんが言った。

「遠くで火事……とは?」

「え? まだそのこと考えてたの?」

「グランプリを決めないと。審査員長だからさ」

「大会でしたっけ? 審査員長でしたっけ?」

「遠くで火事って何よ。私、火事の匂いするの?」

 小宮山さんは怪訝そうな顔で自分の腕をくんくんする。

「文学的な表現を要求されてるわけでしょ? 1キロ泳いで昇華された情動の言い換えが、遠くの火事です」

「なるほど。いいね。渡辺淳一になれるね」

「嫌ですよ。バタイユのほうが良いです」

「変態だよ?」

「でもフランスの変態だから。渡辺淳一は気持ち悪い日本の変態じゃないですか。ねちねちしてそう。バタイユはたぶん、さらっとした変態ですよ」

「さらっとした変態なら良いの?」

「まあ、さらっとしてるに越したことはないんじゃないですか?」

「なるほど。だったら、火事のやつがグランプリかな」

「やったー。私しか参加者いないけど」

「ご褒美いる?」

 小宮山さんが立ち止まって私を見る。

「ご褒美……いらない。けど」

「けど?」

「なんか、今から人形劇見る気分じゃなくないですか?」

「そうだね。まるで見る気にならないね」

「カレー食べに行きましょう。ここの駅前、おいしいカレー屋さんあるんです。終わったら行こうと思ってたんです」


 私たちはUターンしてカレー屋を目指す。

「カレーもさらっとしたほうが好き?」と小宮山さんが聞く。

「カレーはどろっと派なんですよね」

「私も」

「どろっとしたカレーですよ、今から行くお店も」

「ご褒美に奢ってあげるよ」

「それは普通に嬉しいです。変態性もないし」

「一緒にどろどろしよっか」

 小宮山さんが謎のウインクを放つ。

 カレー食べ終わりの小宮山さんは、蜂蜜まみれのマックブックエアーみたいな匂いがするかもしれない、と私は思う。

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