第90話 おやすみ

 大学のオープンカフェで友人たちとお昼を食べているときのこと。

 遠くに小宮山さんが見えた。

 すごく遠くに。

 私の目には、小宮山さんを見つけるのが少し得意、という便利な機能が備わっているのだ。

 今日の小宮山さんは23、4歳といったところですね。青みがかったグレーのワンピースを着ている。靴とバッグは黒。表情は……真顔。少し怒ってる?

 その顔がどんどん大きくなる。

 ちょっとありえない速度で巨大化している。

 え? 夢?

 と思ったけど違う。小宮山さんが早足でまっすぐこちらに近づいている。ほとんど走っているのに近い。私が発見した段階で、向こうにも捕捉されていたのだ。展望台の望遠鏡から覗いていた下界の人と目が合った、みたいな怖さがある。

 小宮山さんは私の前で立ち止まった。呼吸が荒い。私の友人たちも「何?」みたいな顔でフリーズしている。

「たんこぶ、できちゃってさあ」というのが小宮山さんの第一声だった。「ちょっと触ってみて」

 小宮山さんはかがみ込んで、右の側頭部のあたりを私に差し出した。

 友人たちの息を呑む気配を感じる。

 完全なる狂人に絡まれたと思っているのだろう。

 私は人差し指と中指で小宮山さんの髪に分け入り、たんこぶを探る。

 ぷっくりと小さな丘ができている。

 硬いようで、押すと少し柔らかい。

「痛っ」と小宮山さんが頭を離した。「力入れないでよ」

「ごめん」

「あったでしょ? たんこぶ」

「べつに疑ってないんですけど」

「じゃ、もう行くね。たんこぶのお知らせに来ただけだから」

 そう言い残して小宮山さんは立ち去った。

 たんこぶのお知らせ。

 今後一生、誰の口からも聞くことはないし、私の口からも発せられることないセリフだな、と思った。

 でも、「誰? 今の?」と友人の1人に聞かれた私は、「たんこぶのお知らせに来た人だよ」とすぐ言ってしまった。


 夕方、部室で縫い物をしていると、遅れて小宮山さんがやってくる。

「ねえ、たんこぶ小さくなったかな? もう一回触って?」

 バッグを置く前に頭を差し出してくる。

「そんな気にすることないですよ。髪の毛に隠れて見えないから」

「見た目どうでも良いんだよ。ストレスなの」

 私の指は再びたんこぶを探す旅に出る。

 中指の先端に何かが触れる。

 お昼と同じ、小さな膨らみ。

 なんか。

 可愛い。

 また会えたね。という謎の感情が込み上げてくる。猫の眉間を撫でるときのように、慎重にたんこぶを愛でた。

「いつまで触ってんの? 大きさを聞いてるんだけど」

「精密に測定しているんです」

「昼と比べてどうかって話よ」

「そうですね、まだそんなに大きくなってないです。もっと栄養を与えるべきかもしれません」

「……育てようとしてる?」

 小宮山さんの怪訝な顔。

 育てられるものなら育てたい。


 それから私は2時間ほど縫いものに没頭した。

 私以外の人物、すなわち小宮山さんは縫いものに没頭しておらず、紅茶をいれたり、インスタ見たり、ストレッチしたり、紅茶飲み過ぎたからトイレ近いわ、と何度もトイレに行ったりした。

 6時半すぎ。日が落ちたあたりで作業は中断。2人とも帰ることにする。

 駅のホームで分かれるとき、我慢しきれずに私は言った。

「ねえ、もう一回触らせてくれません?」

「何を?」

「たんこぶです」

「お! やる気あるね! 触って触って!」

「声でか」

「小さくなってるかなあ! 小さくなってると良いなあ!」

「声でか声でか」

 小宮山さんは嬉々として頭をこちらに向けた。小さくなってないと思うし、小さくなっていたら悲しい。

 でも、たんこぶは今までと同じ場所に、今までと同じ状態で、たしかに存在していた。

 か。

 可愛い。

 嬉しくなって、何度もなでなでしてしまう。

「ちょっと。早く大きさの報告をして」

「うん……うん。少し気弱だけど、他人の痛みがわかる、優しい子なんだと思います。今はつらいかもしれないけど、状況は少しずつ上向きになるはずです」

「……たんこぶ占いしてる?」

「たんこぶから伝わってくるエモーションを言葉にしただけ。私の素直な気持ちです」

「ふうん」小宮山さんは、はにかんだ。「ちょっと照れちゃうな。そんな風に思っててくれたんだ」

 小宮山さんのことじゃなくて、たんこぶ単体に向けて言ったんだけど。


 家に帰って、シャワーを浴びた。

 ごはんの準備をしよう……として思いとどまる。気持ちがリラックスし切ってしまう前に、レポートを終わらせたほうが良い。いつになく真面目な私。いいぞ、この調子だ! この調子で粗大ゴミの申し込みとかも済ませるんだ! この調子で立派な人間になるんだ!

 たんこぶから流れ込んできたピュアな情熱が私を変えたのだ。

 私は血走った目で事務処理、勉強、キッチンの掃除、少しのヨガ、友だちに今日教えてもらったスキンケア、などなどをこなした。

 深夜2時。部屋の明かりを消してベッドに入る。

 目を閉じる。

 指先に何かが触れているような気がする。

 これは。

 あの可愛らしいたんこぶだ。

 たんこぶの感触だけを持ち帰ってしまった。

 無から自在にたんこぶを生み出す能力を得たかのようだ。

 でも、この能力も明日にはずいぶん弱体化するだろう。

 小宮山さんのたんこぶも、ほとんど消えているに違いない。

 そしていつか完全に消えてしまう。私がたんこぶを愛おしく思うその気持ちも。

 小宮山さんも。

 私も。

 何もかも、いつかは消えてしまう。

 涙が出そうだ。

 出なかった。

 目を開ける。

 真夜中の闇。小さな部屋。指先の熱。

 愛しいファントム……たんこぶ……感触。

 おやすみ。

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