第89話 ふわふわ飛ぶもの
今日の小宮山さんはどこか夢見がちだった。言動がふわふわしている。ちょっと注意が必要かもしれない。年齢は私と同じくらいだと思う。唇は常に魅惑的な半開きをキープしている。瞳はきらきら。ブラウスのフリルもかなり多め。何を着ても似合う人だ。なんかムカついてくる。レオタードとかテニスウェアとか、私だったら着るのをためらうようなスポーティな格好でも似合うのは当然として、工事現場の作業着みたいなものとか、スーパーの2階で売っているような変なポロシャツとかだって似合うに決まっているのだ。アマゾネスとか縄文人とかのコスプレも似合ってしまうに違いない。ゴミ袋すら見事に着こなしそうだ。
逆に、なんで毎日ちゃんとした服を着ているんだ……?
私が顔をしかめていると、ふりふりの服の小宮山さんが「ねえねえ」とスマホを私に差し出した。袖口がグラスに触れて水滴を吸い取っている。ごてごてにカスタムした甘々のラテ。私たちはスタバで向かい合っている。
小宮山さんのスマホには、Wi-Fiの接続画面が表示されていた。
この近辺を飛んでいるネットワーク名の羅列。
大手キャリアのWi-Fiとか、スタバ専用のやつとか、個人のポケットWi-Fiとか。
「これがどうしたの?」
「ほら」小宮山さんはリストの上から6番目を指さす。「山田ユキのiphone、だって」
「ああ。Wi-Fiが自分の名前の人いるよね」
で。それが何だ?
「山田ユキって、私の保育園のときの親友なの。引っ越しちゃって、卒園以来一度も会えてないんだけど。このスタバのどこかにいるのかなあ?」
「山田ユキなんて名前いくらでも転がってますよ。今どこに住んでるかもわからない人でしょ?」
「去年エクアドル人と結婚して、エクアドルに移住したらしいの」
「じゃあ、ぜったい別人ですね」
「里帰りとか、離婚とか」小宮山さんは店内をきょろきょろする。「ねえ。ユキって今、どんな人になってると思う?」
「私にわかると思います?」
「保育園の頃、ママ軍団に『ジャニーズ顔だね』って騒がれてたから、ジャニーズとかに入ってるかも」
「まって、山田ユキって男なの?」
「男の子だったよ。当時の認識ではね。ねえねえ、ジャニーズ入ってるかなあ」
「ジャニーズ入ってないですよ。おじさんみたいな老け顔になっちゃって、太ってお腹も出て、スーパーの2階で売ってるような変なポロシャツ着てるんじゃないですか。洗濯しすぎて首回りユルユルの」
「どうしてそんな意地悪言うの。見たこともないくせに」
「見たこともない人のこと聞くからでしょ」
「すごいカッコ良かったんだよ。ジャニーズじゃなくても、芸能人にはなってると思うな。芸名でやってるから私が気づいてないだけで。顔も大人になってるから私にわからないだけで」
「じゃあ今探してもわからないですね。顔が良い人の職業が芸能人一択、ってのも意味不明だし」
しかし私が何を言っても、小宮山さんの夢見るような瞳は少しも曇らない。
「私はユキに気づかないけど、ユキはすぐに私だってわかるの。そして言うのよ。マキちゃん、迎えにきたよ。僕が君だけに飛ばしていたWi-Fiに、やっと気づいてくれたんだね……って」
「きもい人じゃん」
「素敵な展開でしょう?」
「つまんないウェブ漫画の広告みたいだよ」
そのとき、スタバの店員さんが私たちの隣のテーブルを拭きはじめた。
ちらりと見る。
それは見事な。
ジャニーズ顔だった。
店員さんはそのままカウンターに戻ろうとして……。
驚いたような顔で私たちを振り返った。
私たちも驚いた顔になる。
3つの驚いた顔が、二等辺三角形を描いている。
店員さんの驚いたような視線は、小宮山さんの驚いたような視線と、正面からぶつかっていた。
私も驚いたような視線を小宮山さんに投げかける。
小宮山さんは目を見開き、口もとを両手で覆っていた。
ミスコンか何かで優勝を告げられた人みたいだ。
「お客様」ジャニーズ顔が驚いた顔のまま小宮山さんに一歩近づく。「動かないで。そのまま。じっとして」
店員にあるまじき言動だ。
ジャニーズ顔は驚いた顔から真剣な顔になり、ゆっくりと小宮山さんの真横に移動した。
さっと右手を伸ばす店員さん。小宮山さんの後頭部に手をほとんど接触させ、水をすくうような変な動作をした。
そのままもう片方の手でフタをして、「手の中の空気を逃がさないようにしている人」みたいな状態になる。
そして。
彼は黙ってこの場を去ろうとした。
「ちょっと」さすがに私は呼び止める。「今のは」
今のは何だ?
セクハラか?
宗教か?
小宮山さんの髪の匂いを両手の中に閉じ込めたのか?? あとでゆっくり堪能しようって腹か???(これは私の発想がきもすぎるのか????)
ヘドロのような私の思考を読めない店員さんは、爽やかな微笑を浮かべた。そしてきわめて明瞭な発音で、
「蛾です」
と言った。
それから、何かを密封するような形にしていた手のひらを少しゆるめて、私だけに中身をちらっと見せた。
でっかい蛾がいた。
何のことはない、彼は小宮山さんの後頭部でひと休みしていた蛾を発見し、素早く取り除いてくれたのだ。
「ああ」と私は無感動に言う。
店員さんは会釈して立ち去った。
私は一応、小宮山さんに報告する。
「蛾だった」
報告を受けた小宮山さんは、優雅な挙動でテーブルに突っ伏した。
「そんなの……信じない! 美しいアゲハ蝶だったはずよ!」
そういう問題か?
私は店員さんを振り返る。
店員さんは店の外に出て、日射しの中に蛾を逃がしていた。
眩しいまでのジャニーズ顔の横顔だった。
言い忘れてたけど、名札には「山田ユキ」じゃなくて「大村シンタロー」と書いてあったよ。
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