第88話 ちら。

 朝、大学の正門前で出くわした小宮山さんは20歳ぐらいに見えた。

 それが、お昼に廊下で見かけたときには40代に変化している。

 そして夕方、部室にやってきた小宮山さんは朝よりもっと若く、しかも近くの高校のセーラー服を着ていた。可愛い……じゃなくて。いったい何を考えているのか。

 1日に何回も変化することじたい、非常に珍しい。大学内で変化するのも。ちょっと不用意すぎるのではないか。まあ、秘密を知っているのは私だけ、という優越感もあるのだが……。

 理由を尋ねると、「きのうクーラーが壊れちゃって」などと意味のわからない供述を繰り返すのみだった。

 クーラーと一緒に壊れてしまったのかもしれない。

 このまま変化する間隔がどんどん短くなっていったらどうしよう。

 1時間に何回も年齢が変わってしまって、誰にもコントロールできなくなって、人前にも出られなくなったら。

 引きこもるしかなくなる。

 私が老後まで面倒を見なければ……。

 でも、小宮山さんを檻に閉じ込めておくわけにもいかない。小宮山さんは自由なのだ。小宮山さんが自分の意思で失踪したところで、逃げ出したペットの巨大爬虫類じゃないんだから、捜索隊が組まれるはずもない。

 そんなことにならぬよう、責任を持って育て……。

 そもそも私に何の責任もないんだけど。

 変なことを考えてしまった。

 小宮山さんは部室のソファに横たわり、肘掛けに頬杖をついて、浮かない顔をしている。

 思えば朝からずっと浮かない顔だった。

 何か悩みごとでもあるのだろうか。

 不意に、小宮山さんが、という思いつきが私の頭をかすめた。かぐや姫のように。小宮山さんみたいな変な体質の人ばかりが住む、どこか別の次元の国へ……。

 また変なことを考えている。ちょっと小宮山さんの様子がおかしいぐらいのことで。

 だんだん暗い気持ちになってきた。

「このあと、お酒でも飲みに行きます?」私は裁縫の手を止めて提案する。

「お酒かあ」Switchでマリオカートをやりながら、女子高生の小宮山さんは乗り気じゃない感じだ。「私、未成年だからなあ」

 じゃあ今すぐお酒が飲める年齢になってよ!

 と思ったけど、そんな野暮は言わない。

 そのまま15分ほど、お裁縫とマリオカートで分断された無言の時間が過ぎた。

 急に小宮山さんが「トイレ」と言い残して出て行く。5分後に戻ってくる。30歳ぐらいの姿になっている。黒いTシャツとデニム。この人、服どこから出してるんだろう? 無から生み出しているのか?

「やれやれ」小宮山さんは浮かない顔のまま微笑んだ。「お酒が飲める年齢になってしまった」


 私たちは行きつけの清潔な居酒屋に向かう。そこまでおいしいってわけでもなく、値段もやや高い。でもとにかく雰囲気が完璧に清潔で、精神に良い影響を与えてくれる店なのだ。落ち込んだときに最適。

「きのう眠れなくて」とハイボールを飲みながら小宮山さんが言う。

「なんか憂鬱なことでもあるんですか」

「いや、だからクーラー壊れたんだって」

「ああ」

「暑くてさ。寝返りばかり打って。1日ずっと調子悪いんだわ」

 睡眠の質が翌日の年齢の変化に現れるのだろうか。だとしたら新発見だ。研究ノートに書き留めなければ。

 小宮山さんがトイレに立つ。

 戻ってくる。

 またちょっと若くなっている。

 24歳ぐらいか?

 いちいち指摘しないが……。

 野暮だからさ。

 しかし小宮山さんは「私、今日何歳でいるべき?」と自分で野暮を言った。

「知りませんよ。なんでころころ変わるの?」

「服が決まらないみたいなもんかな。年齢が決まらなくて」

「聞いたことない理由だ」

「やっぱ寝付けなかったせいかなあ。その余波だ」

「聞いたことない余波だ」

「クーラーの修理4日後だから、まだ何日かこれが続くのかあ。ちら」

「ちら? とは? え? うちに泊まる気ですか?」

「ちら。ちら」

「あのー、ごめんなさい。今、実家から母が用事で来てて。無理です。ちょうどあと4日いるから」

「ちょうど4日? うそくさ〜」

 むか。

「こんなので嘘つきませんよ! 扇風機でも買って帰れば? 3000円ぐらいで買えますよ」

「扇風機は嫌。お肌に悪い」

「あっそう」

「ここ、奢ってあげるよ」

「……母が来てるっての、本気で嘘だと思ってます?」

「思ってないよ。奢ってあげるのは、私がしおりちゃんの機嫌を損ねてしまったから。機嫌直しておくれよ……笑っておくれよ……」

 小宮山さんがハイボールをあおり、さめざめと泣きだした。情緒が心配だ。

「もう切り上げましょうか。それ飲み終わったらお開きです」

「なんでよ」

「きのう寝てないんですよね? しっかり寝てください。睡眠不足は万病のもとですよ。お肌にも悪いし。扇風機の100倍ぐらい悪い」

「えー、ゆっくり飲みたかったのに。奢らせてほしかったのに」

「いや、奢ってはもらいますけど」


 駅の改札で別れる。向かいのホームから小宮山さんが小さく手を振っていた。私も笑顔で振り返す。でも小宮山さんの笑顔には、まだどこか陰がある。

 本当は何か言いたいことがあったのでは……。

 電車がホームに入り、視界を覆った。

 電車が去ると、小宮山さんの姿も消えている。

 もう二度と会えないんじゃないかって気が、少しした。


 翌日、小宮山さんは大学に来なかった。

 よくあることだ。

 翌日も。その翌日も。

 まあ、よくある。

 その翌日も。


 さらに翌日の土曜。さすがに心配になって、小宮山さんのバイト先に向かう。

 午後4時の大きなスーパーマーケット。当然のように大賑わいだ。

 入り口に近づくと、ちょうど小宮山さんが出てくるところだった。リオさんと爆笑しながら歩いている。「さっすが、お前は持ってるよなあ!」とリオさんは嬉しそうに小宮山さんの背中をばんばん叩いていた。

 これは……。

 心配して損した、のやつか?

「おー、犬」リオさんが私を見つけて、私のことを、私とは別種の動物の名で呼んだ。しかし、そんなことにつっこんでいる暇はない。

 4日間どうしていたのかと小宮山さんに聞く。

「まるまる4日、ホテル暮らしを楽しんだよ。快適だったあ。体調も良くなったし。扇風機の何倍もお金かかったけど。でも、さっきリオちゃんに無理やり競艇に連れてかれてさ。わけもわからず買わされて。そしたら20万当たっちゃった。あと4泊くらいしようかな。部屋のグレード上げて。やっぱホテルって最高なんだよなあ。夜はルームサービスでワインとか飲んでさ。朝起きたら朝食ビュッフェで生搾りグレープフルーツジュースが飲み放題。はあ〜。これって人間のあるべき姿だよね」

 小宮山さんはつやつやのお肌で言った。

 私はゆっくりと、重々しく息を吐く。

 これほど見事な出来ばえの「心配して損した」は記憶にない。「心配」と「損した」のバランスの良さには特筆すべきものがあり、まさに今後10年はお目にかかれない「心配して損した」の金字塔であろう。ボジョレー。

 心配して損した。

 というか今日から追加で4連泊するなら、私もご一緒させてくれ!

 ちら。

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