第84話 ありさ
ちょっとトイレ、と言い残して小宮山さんが部室を出た。私は返事ともつかない「ほぉん」という寝返りのような声で対応して、ろくに顔もあげなかった。
製作物のノルマが今回けっこうきついのだ。
お裁縫マシーンと化す私。
しかしそのとき、目の前に置きっぱなしにされた小宮山さんのiPhoneが光った。
反射的に目をやる。「ありさ」からLINEがきている。
>おーい、こみゃこ
>こないだの写真、やっぱ送っておくれ
>(ダンボが飛んでいるスタンプ)
すぐに画面は暗くなる。
ありさ?
誰だろう。
こみゃこ、というのは小宮山さんのことだろうか。
きも。
舌打ちしかけた瞬間、小宮山さんが戻ってきた。
LINEきてたよ、と言いかけて、やめる。
今日の小宮山さんはアラフォーだ。カルチャーセンターでいちばん人気のある美人講師、のような見た目。MXテレビで小さな番組の司会ぐらいやれそうだ。
小宮山さんはiPhoneを手に取ると、くすっと笑って画面をタップしはじめた。
「こないだの写真」を「ありさ」に送っているのだろうか。
こないだって何……ありさって誰……。
女癖の悪いバンドマンの、たくさんいる彼女の1人になったような気分。それか美容師の。もしくはバーテンダーの。付き合っちゃいけない職業ってあと何だっけ? 売れてない俳優? 配信者? 半グレ? 電通の人?
はっ。手が動いていない。
私は作業を再開する。しかしスピードはさっきまでの半分以下だ。
しばらくLINEのやり取りをしていた様子の小宮山さんは、やがてしびれを切らしたように通話に切り替えた。
「あー、ありさ? いやいや。あの写真で合ってるって。あれ以外なら、ありさが自分で撮ってたはずだよ。そうそう。いやありさだって。写真ぜんぜん消さないもん、私。整理もしないし。2億枚ぐらいあるし。ありさは逆に消しすぎるじゃん? 間違って消したんだよ。『最近消した画像』みたいなフォルダに勝手に残ってると思うよ。いや私のじゃなくて。ありさのほうに。それはわかるでしょ。ふふふ」
すっごい笑顔。
すっごいリラックスしてる。
すっごい何回も「ありさ」って言ってる。
私いつも、こんな頻繁に名前呼ばれてたっけな?
呼ばれてない気がする……。
最大に情緒不安定な時期の私だったら、仕事と私、みたいな感じで「ありさと私、どっちが大事なの!」とか言ってしまうかも。
言っちゃおうかな。ちょっと冗談っぽく。
いや。たとえ冗談にしても質問の純度が濃すぎる。ありさと私の直接対決になってしまう。私は戦闘向きではないのだ。
聞き方を少し変えて。
「仕事とありさと私、どれがいちばん大事なの!」
だな。これだと少し和らぐ。
小宮山さんの答えが、「んなもん仕事に決まってんだろ」だったら、私とありさは同じ敗者の列に並ぶだけ。2位争いなんて、そんな醜いまねはしないよ。
だが、この質問でもまだ危険だ。約33%の確率で答えは「ありさだよ」となってしまい、私はショック死し、その場で燃え尽き、骨だけが田舎に帰還することになる。
もう少しリスクを薄めなければ。
「あなた~、お風呂にする? ごはんにする? それとも、わ・た・し or あ・り・さ?」
昭和すぎるのが気がかりだが、これはなかなか巧妙にできている。
「私 or ありさ」を、セットでひとつっぽく見せているのだ。
まず、小宮山さんの答えが「お風呂」か「ごはん」ならセーフ。
「私 or ありさ」のセットでもセーフ。
「お前だよ」なら私の勝利。
単独ありさのみ、私の敗北だ。
負ける確率は20%。
まだ怖いな。20%失敗する手術とか、ほとんど死を覚悟しちゃうもんね。
だったら、これならどうだろう。
「いやー、CoCo壱に来るのも久々だね。トッピングどうする? ほうれん草? ゆで卵? ソーセージ? なす? きのこ? チーズ? 納豆? オクラ山芋? クリームコロッケ(カニ入り)? 私? ありさ? イカ?」
これはすごいぞ!
敗北の可能性が8%ぐらいにまで低下した。
手術だと思うとまだ怖いけど、これは手術ではない。食いしん坊の小宮山さんのことだ、「うーんとね、手仕込とんかつとエビカツかな」などと揚げ物ダブル、しかも私が提示した選択肢の外から、という二重の禁じ手を平然と用いたりするに違いない。結果、私もありさも勝敗つかず。
平和だ。
よし。これで行こう。
小宮山さんとありさの甘やかなトークはまだ続いている。対する私の目は戦意に燃えていた。いわゆる、かかっている状態だ。
「はいはーい。じゃあ切るね。おやすみ。ってまだ寝ないか。アハハ」
まるでおもしろくないおばさんみたいなことを言いながら、小宮山さんは通話を終了する。
そこでようやく私の鋭い眼光に気づいたようだ。不審そうに「なに? 寒いの?」と聞いてきた。寒いの、という質問は、私の歯ががちがち鳴っていたからだろう。
寒さだと? 馬鹿め。これは怒りだ。
「ず……」と私。
「ず?」
「ず、ずいぶん、仲……が、良さそう、ですね。あ、ありさ……さん、と」
さらっと爽やかに言うつもりが、私は全身から溢れ出る黒いオーラを制御できない。歯も噛み合わない。
「え? しおりちゃん、ありさと会ったことあったっけ?」
「な、ないです、けど……こ、まるで、こ、この部屋、に」
この部屋には私じゃなくてありさがいるのでは? と錯覚するほど生き生きと喋ってましたね、みたいなことを私は言いたかった。
「この部屋に?」と小宮山さんが話を急かす。
「ヘ、部屋と、ありささん、と私」
「部屋とYシャツと私、みたいだね」
小宮山さんは私の語尾を横取りするように素早く言って、キャーッキャッキャッ! と明るく笑った。
なんだそれ。
部屋とYシャツと私?
なんだそれ。
昔のテレビ番組か何かか?
無印の新スローガンか?
アラフォーならわかる冗談か?
何がおかしいのかまったくわからないが、体を折り曲げて笑い続ける小宮山さんをながめているうち、私は自分の気持ちがすーっと冷めていくのを感じました。
縫いものしよ。
時間ないんだ。
てか小宮山さんもやれよ。
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