第66話 マッサージ

 部費の帳簿を睨みながら、購入すべき道具を吟味していると、首筋に冷たい感触があった。

 ひえっ、と背後を振り返る。

 小宮山さんが私の首の付け根に両手を置いている。

 さっきまで正面のソファに座ってスマホいじってたはずなのに。

 回り込まれたことに気づかないほど私は没頭していたのだろうか? 

 その集中を邪魔された怒りがまず私の中にある。

「何なんですか」

「肩揉んであげる」

「肩凝らないんですけど私」

「いいからいいから」

 小宮山さんがむりやりマッサージを開始した。首から肩にかけての一帯が、冷たい指によって無軌道に指圧される。

「痛っ……痛い!」

「えー? 力入れてないよ?」

「もともと凝ってないんですって」

「痛いのは最初だけ。だんだん良くなるからさあ」

「犯罪者のセリフじゃん」

 ぎゅっ、ぎゅっ、と小宮山さんの指が食い込む。なんか本当に、ちょっとだけ官能的な気分になってしまいそうだ。やばい。よくない。

 とか思っていると。

「ハイここまで」

 マッサージが突然終了する。そそくさと小宮山さんはブーツを脱ぎ、ソファに横たわり、うつ伏せになった。

「今度はしおりちゃんが揉んで。足がむくんじゃってさー」

「それが目的だったのか」

「いきなりマッサージしなさい、はパワハラだからね」

「勝手にマッサージしといて、お返しのマッサージ要求してるんでしょ? 古典的な送りつけ詐欺じゃん」

「早く揉んで。ごちゃごちゃ言ってる暇あったら」

 結局パワハラでは……。

 今日の小宮山さんは34歳。髪はゆるいウェーヴがかかっていて、メイクはナチュラルで潤ってる感じがして、全体的にしっとりした印象だ。グレーのニットもサテンのプリーツスカートも高そう。大人の女性だ。大人の女性の脚を平然と揉んじゃって良いのだろうか? などと変なことを思いながら、小宮山さんのふくらはぎをそっと押す。

「力が弱い! そんなんじゃいつまでも終わんないよ!」

 最悪のパワハラ上司だな……。

「脚がソファからはみ出てるし、なんかやりにくいんですけど」

「わかった。本気出す」

「それ揉まれるがわのセリフですか?」

 小宮山さんは藤田くんのPCデスクからA4のコピー用紙を大量にくすねて床に敷き詰め、その上にうつ伏せになった。

 そこまでやることだろうか……。紙もったいないし。

「まず、足の裏を踏んでくれない? やったことある?」

「お母さんにやったことあるけど……」

 私も靴を脱ぐ。おそるおそる、小宮山さんの足の裏を踏む。ふみふみする。

「おお……いいねえ」小宮山さんがおじさんみたいなうめき声をもらした。「今度は腰のあたりを踏んでおくれ」

「えー? 大丈夫かな」

 そっと腰に体重をのせる。踏んでみると、驚くほど細くて頼りない腰だ。

 体の部品が何もかも私とは違う。

「弱いって。力入れて。何回言ったらわかるの!」

「今日、なんか怖い……」

 私は言われるままに小宮山さんの腰を踏み、背中を踏み、最後には首の後ろ、ほとんど頭のあたりを踏んでいた。小宮山さんは「おふう」とか「ふわあ」とかキモい声を上げて、終始満足そうだった。

「よし。じゃあ今度はしおりちゃんが横になって。私が揉みほぐしてあげる」

「もういいよ。そもそも凝らないんですって」

「いいから寝ろって」

「なんでずっとオラオラしたイケメンの犯罪者みたいなキャラなの?」

「マッサージってそういうもんでしょ」

「違うでしょ」

 小宮山さんが私を押し倒そうとする。私は抵抗する。敷き詰めたコピー用紙の上で私たちは腰の引けた柔道の組み手争いみたいなことになる。コピー用紙はめちゃくちゃに散らばり、私はほとんど組み伏せられるように床に寝そべった。私たちは一応へらへら笑ってはいる。でも息は上がっている。目は野生動物のようにらんらんと輝いている。身をよじって逃げようとする私の脇腹とか腰を小宮山さんが強くマッサージしはじめた。私はさらに身をよじる。とんでもないものが目に入る。

 写真部の湯野ゆの未亜みあさんがドアの近くにしゃがんで私たちを観察していた。

「ちょ!」私は身を起こす。「ノックしてくださいよ」

「したよ。気づかないぐらい熱中してたんじゃない」湯野さんは呆れたように息を吐いた。「2人はそういう仲なの? 日常的に体の関係があるわけ? 週に何回ぐらいですか?」

「ないよ」小宮山さんが笑った。「そんなストレートな聞き方ある?」

「でも今、やろうとしてたよね?」と湯野さん。

「どストレートに言わないでくださいよ」私は乱れた服を直しながら抗議した。「童心に返って遊んでただけ!」

「はあはあ言ってるし、目が血走ってるし、どう見ても童心って感じじゃ……」

「急に運動したからですよ……何の用ですか?」

「何の用って何だよ。コミちゃんに呼ばれて来たの。写真部のこたつが空いたら呼びに来てってコミちゃんが言うから、約束通り来てあげたのに」

「そうだった」と小宮山さん。

 私たちはぞろぞろと写真部の部室に向かう。写真部はこたつを設置したことで一気に訪問者が増えたのだ。まろやかなこたつに入って、3人でみかんを食べた。なんか気まずい味がした。

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