第64話 きみのほうがきれいだよ
小宮山さんと大学の廊下でばったり出くわす。
ばったり出くわしたのに、「今日フレンチおごってあげるよ。こないだのお礼」というのが小宮山さんの第一声だった。
そのまま小宮山さんは立ち去ってしまう。私も友達と教室移動しているところだったので、引き留めることはしなかった。
こないだのお礼、というのが何なのかわからない。でも、お礼なら1000回ぐらいしてもらわないと割りに合わないので、わーい、フレンチ。と思い、その場で小さくバンザイをしました。私は。
放課後、部室に行くと小宮山さんが待ち構えていた。
「来たか」
微笑みながら立ち上がる。今日は30歳くらい。個性的なデザインのコートに分厚いニット。手袋、ストール、だてメガネ。ロシア人みたいな帽子までかぶっている。重装備だ。
小宮山さんが大学の正門前でタクシーを止めた。
「電車じゃないんですか?」
「お金あるからね」
颯爽とタクシーに乗り込む。テレビ局を退社してフリーになった直後の人気報道アナウンサーみたいにクールな表情だ。
タクシーの車内で、小宮山さんは黙って景色を見ている。私はその横顔を見る。
「髪切りましたね」
「ああ。6センチくらいだけどね」
「私も切りたいなー」
「切れば良いじゃん。思い切って、めちゃくちゃ短くしてみたら?」
「そうですね。もういっそ坊主にしてみようかな。アートっぽいやつ。若いうちしかできなそうだし」
「それいいね」小宮山さんは笑った。「イメージなさすぎる」
「私いっつも同じ髪型ですもんね」
「坊主にするなら私が切ってあげるよ」
「いやいや。ちゃんとした美容院に行きますよ。女の坊主ほどちゃんとしたところでやらないと。なにせアートっぽい坊主なんですから」
ん?
私、本当に坊主にする流れになってないか?
小宮山さんが予約した店があるビルの前でタクシーを降りる。
広いエレベータに2人きり。
全面ガラス張りで、夜景がきれいだ。
「きみのほうがきれいだよ」と小宮山さん。
「私まだ何も言ってないんですけど」
「心の声が聞こえたから」
「これ、おじさんが若い女つれていくタイプの店じゃないですか?」
「きみのほうがきれいだよ」
「ロボットなの?」
テーブルも窓際の席。エレベータで見たのが予告編だったみたいに、今度は大パノラマで目の前に夜景が広がる。
小宮山さんが注文したのは24000円のコース。2人で5万。食前酒(アペリティフっていうんですか?)は聞いたこともない名前のシャンパーニュだ。さすがに小宮山さんの懐事情が少し心配になったけど、ホタテと何かと何かのオードブルを食べはじめた時点で、私はすっかり楽しい気持ちになっていた。
ズワイガニとトリュフのフラン、何か分からない透明のものすごくおいしいスープ、何かの小さな包み焼き……何か分からないおいしいものが次々に運ばれてくる。おとぎ話のようだ。
「さっき、坊主にするって言ってたじゃん?」鴨肉にナイフを入れながら、小宮山さんが言う。「あれ、やっぱやめといたほうが良いよ」
「あれは冗談ですよ。私、アート感出したら終わりなタイプって自覚あるから」
私はボルドー産赤ワインのソースに浸された黒毛和牛のフィレ肉を口に運びながら言った。あまりにも柔らかく、あまりにも重奏的な味わい。グルメポエムのひとつも吟じたくなってしまう。
「でも髪は切るんでしょ?」
「うーん。多少短くはしたいかな。それも今すぐってわけでは……」
「私さあ」小宮山さんが2杯目のワインに口をつけた。「しおりちゃんの髪を切ってあげたくて。切りたくて切りたくて仕方ないんだわ。さっきから」
ガラス張りのエレベータに再び乗る。いちじくの低音ローストに甘いソースをかけたデザート(デセールっていうんですか?)の余韻が口の中にまだじんわりと響いている。
こんな素敵なディナーをご馳走してもらって、力いっぱいお礼を言いたいのだが、小宮山さんの様子がさっきから不気味なので、なんとなく言えずにいた。
なんか変なんだよ。酔っ払ってるわけでもなさそうだし。
「しおりちゃん」小宮山さんが私をじりじり壁際に追い詰める。
「な、なに……」
「前髪2ミリとかでも良いからさあ」ついには壁ドンされてしまう。「切らせてよ。髪。今」
エレベータが停止し、ドアが開く。
1階ロビーの大きくてきれいなトイレに連れ立って入る私たち。
結局、少しだけ髪を切らせてあげることにした。
2万円のディナーを食べさせてもらっては無下にできない。でもこれが権力を持ったおじさんだった場合、若い女の子にそういう迫り方をするのは、絶対によくないことだと思いました。
にしても、なぜ小宮山さんが私の髪を切りたがるのかわからない。
その衝動の源は何なんだ。
まあ、ただの気まぐれだろうけど。
気まぐれと、自分が思いついたことは実行せずにいられないわがままさと。
なんかちょっとムカついてきたな。
小宮山さんがメイクポーチから小さなハサミを取り出す。
小宮山さんの真剣な表情。
すぐ目の前にある。
思わず息を止める私。
「じゃあ」小宮山さんが囁いた。「1本だけ切るね」
私はこくこくと頷く。少し怯えている。
小宮山さんの香水の匂い。
まつ毛が震えて見える。
パチ
この世でもっとも微かな音がして、憐れな私の髪の毛は小宮山さんの手のひらの上に落ちた。
小宮山さんは、ふっ、と息を吹いてそれを飛ばす。
どこかに消える私の髪。
「あー、すっきりした!」
小宮山さんが子供みたいに健やかに笑う。
まるで邪悪な憑き物が落ちたみたいな様子だ。
私もほっとする。
「あの、今日、ごちそうさまでした」
私はなんかよそよそしいお礼の言い方をしてしまった。
「たまには高級ディナーも良いよね」小宮山さんが明るく微笑む。「でも今度はリーズナブルなイカスミパスタでも食べに行こうか」
「お腹いっぱいのときに、よくそんな発想になりますね」と言ってから気づく。「もしかして私の髪が黒くて太くて安いからですか?? それでリーズナブルなイカスミパスタを連想しましたか??」
美しいビルの清潔なロビーに、小宮山さんの爆笑が響いた。
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