第63話 フランスパン

「あーあ」小宮山さんがため息をついた。「もうすぐ私40歳か……。なんかやっぱり、落ち込むな。もう若くないだなって」

 あーあ。ため息を追加する小宮山さん。

 まともに相手する気になれない話題だ。

 小宮山さんは昨日、48歳だった。

 明日は14歳かもしれない。

 そんな人が「もうすぐ40歳か」じゃないよ。

 まあ、過去に100万回ぐらい思ったことではあるが……。


 私たちは新しい商業施設にいる。2人とも靴が欲しかったので、いろいろ見て回った。

 私はバイト用のニューバランスを買った。

 小宮山さんはグレーの4万8000円のショートブーツ。

 気分が良くなった私たちは、同じ施設内のタイ料理店でごはんを食べた。ヤムウンセンとかトムカーガイとかガイヤーンとかカオトムクンとかガイ・パット・メットマムアンとか、呪文のような不思議なタイ料理を食べまくった。

 大満足して、今、デザートのクルアイトートをおいしく食べている。

 それなのに。

 小宮山さんが急にいじけ出したのだ。

「40歳って、何して遊んだらいいんだろうね」と力なく言う小宮山さんに、「普通にスマブラとかマリオカートとかやればいいんじゃないですかね」と冷たく返そうとして、私は踏みとどまる。

 小宮山さんの年齢がころころ変わることに対して、私は慣れすぎじゃないか?

 こんな異常なスキルに慣れてしまうとは何ごとだ。

 もっと宝物のように思わないと。

 初心を取り戻さないと。

 謎のストイックさが私の中でむくむく育ち始める。

「40歳になっても、私と遊べばいいんですよ!」私は務めて明るく言った。

「遊んでくれるの……?」小宮山さんが弱りきった顔で言う。「私がおばさんになっても?」

「もちろん! 20歳の私が若者の流行を小宮山さんに教えて、40歳の小宮山さんが大人の知識を私に教えてくれるんです。すごくいいバランスだと思いますよ」

「ほらあ」突然、小宮山さんの目が死んだ。

「えっ、なんで」

「私がオバさんになっても、ってのが森高千里のヒット曲だってわかってないじゃない。そんな子と遊んでたら私、傷つくだけじゃないかな」

「いや、それは知らないですけど……」

 ていうか、なんでこんなにネガティブなんだ?

 高い靴買って、めちゃくちゃタイ料理食べて、完璧に気分爽快なはずなのに。

 40歳ってそんなに重いのか?

 しばらくテーブルの上にうなだれていた小宮山さんが、急に顔をあげ、「ここ出たら、イートインあるパン屋行こうか」と言った。脈絡もなく。

「いま食べたとこなのに?」と私は顔をしかめる。

「パンは別腹じゃん?」

「えっ、パンはしっかり本腹かも……」

 本腹って言葉あるのか? と私は自分で思った。

「食パンとか塩パンは本腹だね。でもデニッシュとかマフィンは別腹でしょ。あとフランスパンも。私フランスパン食べたい。フランスパン食べよ?」

「えー」私は難色を示した。「フランスパンかあ。固いじゃないですか。私、固いパンあんまり好きじゃないです」

「パン屋でバイトしてるくせに」

「あー、でもたしかに、フランスパンって年配の方しか買っていかないかも……」

 言い終わらないうちに私は後悔していた。

 小宮山さんが青ざめている。

「フランスパンって年寄りしか買わないの?」

「年寄りって……いや、勘違いだったかな。若い子もフランスパン買ってますよ。なんか、おしゃれな子ほどフランスパン買うかな。生ハム好きそうな子とか」

 適当なことを言いすぎた。

 小宮山さんの疑いの眼差しは濃くなるばかりだ。

「食わず嫌いじゃない?」と小宮山さん。

「いや私だってそれなりにフランスパン食べてきましたよ。実家のお母さんとおばあちゃんがフランスパン大好きなんで」

「やっぱ年寄りの女しか食べてないじゃん……」

「年寄りの女」

「あと、そんなに食べてきたのにフランスパン好きじゃないんだ……」

「固くてたまに口の中ケガするし」

「弱すぎる。若いやつは。これだから若いやつは。若いやつは何をやってもだめだ。鶏ムネを固いと言い、固ゆで卵を固いと言う」

「皮膚が柔らかいんでしょうね。私まだ若いから。小宮山さんはもうカチカチなのかな。皮膚も発想も。フランスパンってそういう意味では、カチカチに凝り固まった大人の食べ物かもしれないですね」

 私もついに開き直った。

 40歳なんて年寄りでもなんでもないし、小宮山さんに年齢なんてあってないようなもんだし、なぜこんな不条理な難癖を付けられなければならないのか?

 楽しいお買い物なのに。

「わかった」と小宮山さんが立ち上がる。

 え?

 怒った?

 もうすぐ40歳なのに?

「やっぱ今からフランスパン食べに行こう。私が本物のフランスパンを食べさせてあげる」

 小宮山さんは私に手を差し伸べる。

 私はその手を取った。

「グルメ漫画みたいなセリフじゃないですか」

「グルメ漫画は、『明日もう一度来てください。おれが本物のフランスパンを食べさせますよ』だよ。まったく。若いな」

 小宮山さんは少し笑った。

「ここ払ってくれるんですよね。もうすぐ40歳だから」

「もちろん。ここも払うし、フランスパンも払う。もうすぐ40歳だからね」

「わーい」私は小宮山さんに手を引かれて立ち上がる。「そんなにおいしいフランスパンの店、知ってるんですか?」

「もちろん。もうすぐ40歳だからさ。うふふ」

 なんだか小宮山さんの機嫌が直っている。

 もともと意味不明の不機嫌さではあったけど……。

 なんにせよ良かった。

 立ち上がらせてもらった流れで、ちゃっかり手も繋げてるし。


 


 

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