第62話 未完の大作

 大学のカフェの中で最も価格帯の高い店に足を踏み入れると(バイト代が入ったばかりで浮かれているのだ)、すぐ近くの席に見覚えのある顔が。

 たしか、写真部のユノさん。

 分厚い書類の束のようなものを睨みつけている。

 ユノさんは私の名前知らないだろうし、顔も覚えてないかも。と思ったけど、テーブルの横を通り過ぎるときに目があったので、軽く会釈する。

「あ」とユノさんは目を大きくした。「こたつ借りにきた子?」

「えーと。はい」頷きながら、こたつを借りたがっていたのは小宮山さんであって、私はついて行っただけ……と心の中で微弱な抵抗を試みた。

「コミちゃんと待ち合わせ?」とユノさん。

「いや、1人でレポートやろうかと」

「じゃあ、ここ座んなよ」

 ユノさんはテーブルをとんとん、と指で叩きながら言った。


「こたつちゃんはさあ」

 ユノさんが私をこたつちゃんと呼んだので、慌てて自己紹介タイムに入る。

 ユノさんは湯野未亜ゆのみあさんという名前。経営学部の3年生。背が高くて(170はありそう)、髪が短く、全体にさっぱりしている。小宮山さんのことをコミちゃんと呼んではいるけど、一緒に遊んだりしたことはないらしい。「コミちゃん」なんて年下っぽく呼んでいるということは、小宮山さんの本当の年齢も知らないだろう。

 あの人、本当は10万26歳なんですよ……。

 いや、知らんけど。

 私の注文したコーヒーとドーナツが届く。

 ユノさんは再びテーブルにA4の分厚い紙束を広げた。

「卒論とかですか?」

「さすがにまだだよ。これは小説」

「小説」

「小説家目指してるからね。これは賞に応募するやつなんだ」

「へー。すごい。紙に印刷するんですね」

「メールで受け付けてる賞も増えてきたよ。でも紙で読み直すと、不思議とミスが見つけやすいからさ」

「どんな小説なんですか?」

「うーん。人がたくさん死ぬやつ」

「え、戦争ものとか」

「いや、いわゆる広義のミステリに入るかな。歴史物とかSFとかファンタジーの要素もあるけどね。あまりジャンル分けには拘らないんだ、私は。必要なパートをすべて盛り込んでいるだけ。そのせいで多少ペダンティックになりすぎてしまうきらいはあるけどね。SNSやゲームや動画サイトとの時間の奪い合いになるから、小説の文章も時代に合わせて変わるべきだ、なんて議論は私にはどうもぴんとこなくてさ。まあ、まだ何の評価もされていない私が偉そうに言うことでもないけど」

 急に早口になってユノさんはまくしたてた。

 ちょっと得意げに顎を上向きにしている。

 クールっぽい人かと思ってたけど、なんか可愛いな、この人。

 言ってることはよくわからないが。

「賞、取れるといいですね」

「あのー」ユノさんが紙束を胸に抱えて言った。「よ、読んでみる?」

「良いんですか?」

「1ページだけなら……」もごもご言いながらユノさんは顔を背けた。「いや、半ページなら。やっぱ3行なら」

 可愛いけど、なんか少し面倒なことになったと思いました。私は。




研究所から逃げてきたという女の子と出会ったのは浜辺を散歩していたときのことだ。走って僕の目の前までやってきて、「私を匿って。研究所から逃げてきたの」と説明的に言ったのだ。説明的な表情で。必要十分な情報量と言えるだろう。




 というのがユノさんの未完成の小説『死と乙女とワイヤーフレームの神々』の冒頭3行だった。

「えー、おもしろそう。続き読ませてくださいよ」

 テーブルには小説の1ページ目だけが置かれていて、最初の3行以外の部分はユノさんが手で隠しているのだ。

 私はその手をどけようとした。

 動かない。

「ダメ。これ以上は」

 ユノさんの顔は、はっきりと赤らんでいた。

「面白かったって言ってるじゃないですか」

「ダメなものはダメ」

「続き気になるなあ。研究所って何なんですか」

「女の子が監禁されていた研究所は、じつは物語の語り手である『僕』の勤め先でもあるんだ」

「面白そう! 読ませてください」

「ダメだ! 1日の許容量を超えた。私の羞恥心の」

「読めって言ったのユノさんですよ」

「私、いままで自分の小説を誰にも読ませたことないの」

「なんで気安く私なんかに見せたんですか」

「あんま知らない子だったら、ひょっとして恥ずかしくないかも……と思ったんだよ! でも無理」

「無理じゃない!」

 ぐぎぎぎぎ……。

 私もムキになって力を込める。

 何をやっているんだろう。

「何をやっているの?」

 おっとりした声が頭上から降ってくる。

 私たちは手を重ねたまま顔をあげる。

 大学生らしい年齢の小宮山さんが私たちを見おろしている。

「手なんか繋いで。顔赤くしちゃってさ」

 小宮山さんは無表情だ。

「違う!」と私が手を離した隙に、ユノさんは小説を回収した。

「何が違うのさ〜」と言いながら、小宮山さんは私の座っている1人用の椅子にむりやり、お尻をねじ込んできた。

「誤解しないで」ユノさんが小説をカバンにしまってから言う。「コミちゃんを差し置いて、いちゃいちゃしてたわけではないよ」

「じゃあ何してたの」

「力比べ」とユノさん。

「そうですね」私も頷く。「必要十分な情報量と言えるだろう」

 私はユノさんの小説を引用して言った。

 ユノさんが睨みつけているのを左頬に感じる。

「なんだいなんだい」小宮山さんが私の頬をつついた。「しおりちゃんが私の知り合いと、私の知らないところで、私の知らない秘密を持つなんて。許さない」

「やばい束縛女じゃん」ユノさんが笑う。「暴君なの?」

「いかにも」鷹揚に頷く小宮山さん。「私は常に話題の中心にいなければ気がすまない女。鼻持ちならないパーティの花なのです」

 小宮山さんが自分の腰に手を当てて胸を張った。私は椅子から押し出されそうになる。

「そのセリフ、いただこう」

 ユノさんが小声で言ってiPhoneにメモを取りはじめた。

 うかつすぎる。

「セリフ?」と首を傾げる小宮山さん。

「ああ。ユノさんって、しょうせ……」

「わー!わー!ここ奢るから!」

「手を打ちましょう」

「ほんとだね……?」とユノさんは胸を撫で下ろす。

 私はユノさんのおかげで無料になったドーナツをおいしくいただく。

 小宮山さんが私たちの顔を見比べて、頬を膨らませた。

「なーんかムカつくなあ。私の知らない話やめてよ。私に関する話をして。聞いてあげるから」

 女王様か。

 でも、少し気分が良い。

 あと、小宮山さんの身体が私に密着しています。

 意外とないんだよ〜。

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