第55話 ペットボトルの水

 大学からホームセンターに向かうなだらかな坂道をくだっていると、両手に大きな袋を提げた小宮山さんが苦悶の表情でのぼって来るのが見えた。

「小宮山さーん。何してるんですか?」

 私に気づくと、小宮山さんは袋をおろしてその場に座り込む。

 慌てて駆け寄る私。

 小宮山さんの巨大な荷物は、どちらもエコバッグだ。

 とりあえず、片方を持ってあげることにする。

「重っ」

 中身を覗くと、2リットルのペットボトルがぎっしり。

「なんですか、これ」

「ゼミの、イベントで、使う、お客様、用の、飲み物」

 ハアハア言いながら、途切れ途切れに答える小宮山さん。

「それを何で小宮山さんが1人で運ぶんです?」

「打ち合わせのとき、私が車で運ぶよ〜、って安請け合いしちゃって」

「なぜ車で運ばないの」

「車持ってなかった」

 今日の小宮山さんは大学のイベントに出るくらいだから、当然20代前半の姿だ。

 この年齢の小宮山さんにもいろいろなパターンがあって、車を持っている小宮山さんもいれば、免許すらない小宮山さんもいる。

 打ち合わせのときは車持ってる小宮山さんだったけど、今日は免許がない小宮山さん。ってことか?

 ほんと、ややこしくも馬鹿馬鹿しい人だ。

 今更ながら。

「にしても、誰かにお願いすればいいのに。手伝って〜、って小宮山さんが泣きつくだけで、男の子たちがその役を取り合いするよ。絶対に。小宮山さんは何も持たなくていいし、なぜかちやほやもされるし、お姫様のような気分で超すてきなひと時を過ごせると思うんですけど!!」

「何で大声なの」

「いや……気にしないで。喉が声を発しすぎただけ」

「何だその表現」

 小宮山さんの呼吸も落ち着いてきたので、エコバッグをひとつずつ持って、私たちは坂のぼりを再開する。

 重い。

 指がちぎれそうになって、数歩ごとに袋を置かなくてはならない。

「途中まででも、よく1人で運べましたね」

「意外と力あるんだよ」

「ジム行ってるから?」

「あと、ピラティスとヨガとボルダリング。と、太極拳」

「なんなのその生活。貴族なの?」

「これ見てもそんなこと言える?」

 と私に力こぶを作ってみせる小宮山さん。なんか柔らかそうだけど……触って確かめたりはしなかった。二の腕があまりにも神々しく見えて、気後れしてしまったのだ。

 私たちはバス停のベンチに座って、いったん本格的に休むことにする。

「あと100メートルくらいですよ」私はGoogleマップを見ながら言った。

「100メートルがこんなに長いとは……泳げば一瞬なのに」

「どこを泳ぐの」

「この地面が水だったらの話」

「いや無理でしょ。水だったとしても。荷物持って泳げます?」

「これ全部ペットボトルだよ。水に浮くんじゃない?」

「中身入ってたら沈みますよ」

「じゃあさ、中身全部捨てて、カラのペットボトルでいかだを作ろう。それに乗って大学まで行こう」

「ペットボトルの水捨てたら意味なくないですか? 水を運んでるのに」

「いかだは水に浮いてるんだよ? 最後にその水を汲めばいい」

「そんな水をお客さんに飲ませるの?」

「そんな水って……きれいな水なんだよ!」

「……だめだ。無駄な仮定を重ねるのはやめましょう。オッカムの剃刀って言葉知ってますか? 地面は水にはならないよ。永遠に」

「永遠にってことはないんじゃない?」

「永遠にってことはないですけど」

「でもまあ、ゼミのイベントまでには無理か」

「そうですよ。私たちは自分の力で水を運ぶんです。あと100メートル」

「音楽でも聴くか」

 小宮山さんがiPhoneをベンチの上、私たちのあいだに置いた。

 iPhoneユーザーなんだな、今日は。

 小宮山さんのケータイがころころ変わるせいで、私たちはお互いの連絡先を知らないのだ。

 小宮山さんが音楽を再生する。

 いまの情景にぴったりなイントロのあと、ぐっと襟元を掴まれるような、なんだか印象的な女性の歌声が流れだす。

 夏の終わりの風が吹いている。汗が引きはじめる。

 いい感じだ。

「なんて曲ですか?」

「知らない」

「なんで知らないの」

「適当に押しただけだもん。iPhoneが勝手に選曲してるんじゃない?」

「自分の好きな曲とか入れてないの?」

「うーん。どうだろ」

 どうだろ?

 と思ったけど、小宮山さんは目を閉じて黙り、何も受け付けないモードに移行した。

 どうだろ……?

 って何だ?

 ケータイの話になると、急に浮気男みたいな変なはぐらかし方するんだよな……。

 まあいいけど。

 私はベンチに置かれたiPhoneを覗き込む。


  中村佳穂 / SHE’S GONE


 目の前にはのどかな学生街の景色。犬の散歩をする女性。ランニングをする老人。大きなトラックが続けざまに通り過ぎた。松葉杖の高校生。自転車に乗った中年女性。じゃれあいながら帰宅する小学生。

 音楽が変わった。


  Shirley Théroux / Un goût de soleil


 今度は読み方もわからない。フランス語かな? 1971年。とても古い曲だ。

 私たちが生まれていない時代の音楽が、私たちのあいだに流れている。

 iPhoneには小宮山さんの右手が添えられていた。ネイルはミルクチョコレートのような色。黄金の二の腕。ゆっくり、わずかに上下する肩。

 小宮山さんは小さな寝息を立てている。

 BGMが変わった。さらにレトロな曲調。お婆ちゃんの時代の音楽のような。

 でも、すごく心地良い。


  ジャッキー・デシャノン / What the World Needs Now Is Love


 私も目を閉じる。大洪水に襲われて、ペットボトルのいかだで漂流する私たちを想像する。

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