第14話 髪型

 小さなノック。ドアが開く。でも部室に入ってきたのが誰なのか、私にも小宮山さんにも一瞬わからなかった。

 その人物は「こんな時間に2人揃ってるんだ。珍しいな」とかぼそぼそ言いながら私たちの横を通り過ぎ、PCデスクに座る。

 藤田くんだ。

 あほの。

 短い沈黙のあと、私と小宮山さんは同時に笑い出してしまった。

 私たちが藤田くんを藤田くんだと認識できなかったのは、彼の新しい髪型のせいだ。

 昨日まで藤田くんの頭部には、幼稚園児がクレヨンでめちゃくちゃに塗った黒、みたいなものがくっついているだけだった。それが今、韓国の男性アイドルみたいな最新のおしゃれヘアに激変している。色も明るいブラウンを基調とした絶妙のグラデーション。藤田くんというマネキンに、どこか遠い場所から髪だけ投影されているみたいだ。

 何があったのだろう。雷にでも打たれたのか? 逆に。

 逆に?

「人の、おしゃ、れ、を笑っ、ちゃ……だめですよ、小宮山、さん!」

「吉野、さん、だって、ば、爆笑! してるじゃん!」

 要するに私たちは2人とも爆笑していた。本当によくないと思う。藤田くんは居心地悪そうに前髪を触っている。

 小宮山さんが笑いすぎてソファに寝転がった。切り替え柄の長いスカートに包まれた脚をばたばたさせている。今日の小宮山さんは26歳。珍しく実年齢だ。厳しめの授業か、ちょっとした試験でもあったのでしょう。そういうときは極端な年齢には変化しない、意外と真面目な小宮山さんなのだ。最低限の常識はあるようです。

 それはともかく、はっきり言って私は26歳の小宮山さんがいちばん好きですね。見た目が。何というか、こう、肉付きが。いやこれは美術的な観点から述べておるわけですが、その、肉付きがじつに良い具合にですな……やめとくか。戻れなくなりそうだ。

 どうやら小宮山さんの笑いもおさまったようだ。

「そんなに変ですか?」藤田くんが困ったような顔で言う。「専門行ってた友達が美容師になったんで、今日お店で切ってもらったんですけど」

「へー。なんて店?」と小宮山さんが顔を上げる。

「表参道のボアルネってとこです」

「ボアルネ!」小宮山さんが上半身を起こして目を見開いた。「めちゃくちゃ有名じゃん」

「そうなんですか?」と藤田くん。私も聞いたことがない。

「予約取れないよ。リタ・オラもこないだ来日したときボアルネ行きたいって騒いでたし。リタ・オラじゃないか。カーラ・デルヴィーニュだったかも」

「高いんじゃない?」まず値段が気になる私。

「今回は友達が奢ってくれました。まあ、練習台ってことだと思いますけど」

「そういうときは払うもんだよ。平然とタダにしてもらっちゃだめだって。友達の初仕事のお祝いじゃん」

「初仕事じゃないんですよ。もう半年前から働いてて。僕おしゃれな店が苦手だから、なかなか行けなかったんです」

「いつも誰に切ってもらってたの? お父さん?」と私は聞く。

「普通に近所の散髪屋。子供の頃から行ってるところで。お父さんって? 僕の父は果物屋なんだけど」

 冗談の通じないやつだな。果物屋さん? 初めて知ったわ。

「うーん、でも」小宮山さんが腕組みして藤田くんをじろじろ見ている。

 んんん?

 なんか嫌な予感がする。

「あまり見ないでください」と私は小宮山さんに注意した。

「そうですよ」藤田くんが同調する。「似合ってないのわかってるんで」

『似合ってはいるよ!』

 私と小宮山さんの声がぴったり重なった。

 そうなのだ。

 最初は笑っちゃったけど、髪型変えただけで、けっこうイケてる感じになっているのだ。藤田くんが。藤田くんのくせに。

「かっこ良いと思うよ、なかなか」小宮山さんが一歩藤田くんに近づく。まだ2メートルほど距離がある。「これからその店で切れば?」

「いや、高いし。近所の散髪屋さんにも悪いし。ああ……この髪型のまま行ったらびっくりしちゃうだろうな。散髪屋のおじさん」

 藤田くんは文字通り頭を抱えた。

「いや、店を変えるべきだね」小宮山さんがもう一歩近づく。「服も、もうちょっと自分に合ったサイズのものを選んでさあ……うん、なかなか。磨けば光るタイプなんじゃない? 余計なお世話とは思うけど」

 小宮山さんは両手で作った四角の中に藤田くんを収め、カメラマンみたいにアングルを探っている。

 小宮山さんの注目が、この3人の中で私以外に向けられるなんて、まあまあ我慢がならない。

 私のことを考えているか、まるで関係ない宇宙のことでも考えていてほしい。

 わがまますぎるか?

 いや、でも本当になかなか良い感じなんだよなあ、藤田くんが。

 完全にハラスメントと認識した上で言いますけど、藤田くん、早く恋人でも見つけてください。

 私と小宮山さんの静かな日常を返してください。

 壁と同化してください。

 私の精神の一部は、おもちゃの取り合いをしていた幼稚園の日々から少しも進歩していないのだ。

 翌日、髪のセットの仕方がわからなかったのか、早くも藤田くんは幼稚園児が茶色のクレヨンでめちゃくちゃに塗ったような頭部で現れたので、私たちはまた笑ってしまったのだけど。

 正直、少し胸がスッとしましたね。私は嫌な奴だからさ。藤田くんの心根が、私とは比べものにならないくらい純朴であることは認めましょう。きみの素晴らしいところは心のけがれのなさだよ。上から言うけど。そう思ったあとで、私は少し落ち込んでしまう。私は小宮山さんや藤田くんとは違って、なんの特徴もなく、なんの輝きもなく、そのくせ自分に都合の悪いことは短絡的に排除しようとするような、器の小さい人間なんですよ。小宮山さんを見ていると、そのことを少し忘れられて、同時にそのことを痛いほど思い知らされてしまうのだ。泣き顔の絵文字100個。保存。終了。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る