第13話 亜空間ポケット
久しぶりに縫い針で自分の指を刺してしまった。小宮山さんの手つきがあまりに危なっかしくて、そっちを見ながら作業していたせいだ。
即座に小宮山さんが、ハンドバッグから絆創膏を出してくれる。意外だ。「ぼけっとしてるからだよー」と、むかつくひと言をぶつけられたけど。
「珍しいですね、小宮山さんが絆創膏持ってるなんて」
「しおりちゃんがミスするほうが珍しいんじゃない?」
「小宮山さんのせいですよ」
今日の小宮山さんは35歳。ハンドバッグはめちゃくちゃ高そうなロンシャンの黒。ネイビーのワンピースにノーカラーのツイードジャケット。ほんのり香水も漂ってきて、娘のピアノの発表会に行くお母さんみたいだ。
「絆創膏、自分で貼れる?」
「貼れ……」
ますよ!
と言いかけて、やめる。
「貼ってくれるんですか?」
「貼ってあげてもいいけど」
「貼ってくれるんだ」
「だって、私のせいなんでしょ?」
ローテーブルの向かいに座る小宮山さんに手を差し出す。小宮山さんはハンドバッグからウェットティッシュを取り出して、まず私の指を丁寧に拭いた。あらっ、悪くない気分ですね。というか、完全に最高ですね。
小宮山さんの手は冷たい。
その冷気にドキドキしてしまう。
うっとりしていると、小宮山さんはおもむろに絆創膏にハサミを入れはじめる。
「何してるんですか?」
「指先に貼るときは、こうすると剥がれないんだよ」
小宮山さんは絆創膏が「X」みたいな形になるように切り込みを入れ、それを上手に交差させながら私の指先に貼り付けた。
「わー、ありがとうございます!」
と引っ込めかけた私の手を小宮山さんがぎゅっとつかむ。昔の少女漫画のヒロインみたいに、ドッキーン! としてしまう。
「待って。ささくれが気になる」
低い声で言って、小宮山さんは再びハンドバッグをごそごそした。今度は細い布のケースを取り出す。ファスナーをひらくと、そこには謎の金属棒。
「怖っ。なんですか、それ?」
「ささくれ切り」
それはピンセットみたいな形状で、先端に刃がついている。
小宮山さんは王子様のように私の手を取り、
キスでもするみたいに顔の前に持っていき、
熟練のスナイパーの表情で器具を構え、
霊感に満ちた盆栽職人の手つきで、
私のささくれをカットした。
「はい、きれいになった。もうちょっと手のケアをしたほうがいいね。オイル貸してあげようか」
小宮山さんはまたハンドバッグをまさぐり出す。
「今はいいですよ。まだ作業残ってるし」私は自分の手をさすりながら言う。「何でも入ってるんですね、そのバッグ」
「大人のバッグは四次元ポケット、とはよく言ったものよ」
「誰が言ったんですか?」
「私だけど」
「四次元ポケットというより、お婆ちゃんの巾着袋って感じですけど」
「まあ!」
「何その怒り方」
「60年代の女優」
「何なの。機嫌良いの?」
「機嫌はいつでも良いんだよ。四次元ポケットも活躍したしね」
「小宮山さんの場合、四次元じゃなくて亜空間ですね」
「えー」小宮山さんが急に白けた目になる。「私以外の人に言わないほうが良いよ、亜空間とか。変な人だと思われるから」
「いや亜空間は小宮山さんが言ったんですよ! 自分の経歴言うとき必ず亜空間時代のこと言うじゃん! 何年も亜空間をさまよってた時期があるんでしょ!」
「あるけど」
「ほら! それを否定しない人のほうが変な人です! 変な人のくせに私を変人あつかいしないで! 絆創膏貼ってくれたり! ささくれ切ってくれたり! ありがとうございます!」
「最後まで聞いてみたらお礼だった」
「もう。急に大声出したから喉が痛くなっちゃったよ……」
「可愛いやつめ」小宮山さんは微笑んで、またバッグに手を入れる。「のど飴あるよ。ほしい?」
「ほしい」
しかし小宮山さんがテーブルに置いたのは、のど飴ではなかった。
将棋の駒。
銀将だ。
「これじゃなかった」
「どういう間違い方?」
「あ、これか」
と取り出されたのも、またのど飴じゃない。
リップクリーム。
これもテーブルに置かれた。
小宮山さんがバッグに手を突っ込むたびに、亜空間から新たな物質が抽出される。
単3電池、ウェットティッシュ、ビー玉、けん玉、ぐんまちゃんのキーホルダー、目薬、折り紙、生活の木の練り香水、ビーフジャーキー、DARSビター、フリスクネオ、signoの黒の0.38のキャップ、薬局のマスコットキャラのフィギュア、水泳帽、ヒールのかかと、ひとつまみのゴマが包まれたアルミホイル、新品のテニスボール、ヘアバンド、ヘアゴム、トレーニングチューブ、JUJUのベストアルバム、リップクリーム(2個目)、映画の半券、視力検査のとき片目を隠すやつ、筆ペン、便せん、UNO、実印……。
「あった!」小宮山さんがようやく晴れやかな笑顔になった。「でもゴメン、私が持ってたの、のど飴じゃなかった〜。グミだった」
「グミでいいです。ください。一刻も早く何か貰わないと気が済まない状態にあります」
「大変だ。はい、あーん」
「あーん」
と口を開けた瞬間の私には、0.2%くらいの確率で、グミごと小宮山さんの指をパクッとくわえ、甘噛みしてしまう可能性があった。
私がそんなちょっとした奇行に走ってしまうか否かは、神様の振るダイスの目の結果しだい、といったところ。
もちろん順当に、何事もなく、グミは小宮山さんの指から私の口に放り込まれた。
細胞のひとつも接触していない。
「おいしい?」と小宮山さんが聞く。
「おいひい」と私は大きなグミを咀嚼しながら答える。
指ごと噛んだりしていたら、小宮山さんはどんな反応をしただろう。私の気持ちはどう動いていただろう。二人の関係も、ちょっとは変化したのかな。笑っておしまいだったかも。予測できない。平凡な日常のあらゆる瞬間に、状況を一変させる可能性が潜んでいる。私たちの運命は、要所要所を単純なダイスの目に委ねられているのだ。この世界はずっと昔からそうやって、強制的に、暴力的に稼働してきた。たぶん。きっとね。抵抗できるはずもない。それにしても。おいしいグミだ。高級なやつだよ。グレープ味。小宮山さんがにこにこしている。
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