第11話 プレッツェル
4万7000円の花瓶を購入した。三井住友VISAカードで。小宮山さんが。「近所に花屋ができたからね」だってさ。私は午後の講義をさぼって買い物に付き合っている。今日の小宮山さんは45歳。いかにも高そうな灰色のケープコートに身を包み、まるでOggiの表紙から飛び出してきたようなセレブ感だ。とても私の母親ぐらいの年齢とは思えない。
けど、こんな高い買い物しちゃって大丈夫だろうか?
明日は15歳かもしれないのに。
まあ、年齢によって口座の額が変わったりはしないだろうけど……。
深く考えるのはやめておこう。
私たちは遅めの昼食を取ろうと街を散策する。
「こっちにおいしいドライカレーの店があったな、たしか」
小宮山さんに先導されて路地に入ると、壁一面の巨大な落書きが目に入った。
グラフィティというやつ?
私はあまり興味ない。驚くほどハイレベルではあるけど。文字は読みづらい。kissとかloveとか、なぜここに書く? と思うような言葉ばかりが、過度なデザインでひしめきあっている。
marvel、DAMN、LDH、Big Wave、this is America、天下統一、池田エライザ、プレッツェル、birthday、LOUIS VUITTON、令和……。あとはFワードとかの卑猥な言葉。
「I would love to do to you what the spring does to cherry trees」
という一文がふと目に止まる。何かの引用かな? なかなか鮮烈で、写真に残したい気がしたけど、小宮山さんがずんずん進むので、雑に撮って小走りに追いかけた。40オーバーの小宮山さんは「疲れた」とか「足が痛い」とかぜんぜん言わないのだ。20代の姿だとめっちゃ言うのに。不思議だ。ぴかぴかの黒いパンプスでカツ!カツ!と格好いい音を響かせている。私にはどうやってもあの音が出せない。不思議だ。
路地を抜け、明るい歩道に出たところで急に小宮山さんが私を振り返った。
「ねえ、プレッツェルって何だっけ?」
「小宮山さんも気になってました?」私は嬉しくなってしまう。「お菓子ですよね、たしか」
「ポッキーみたいなやつ?」
「それプリッツでしょ。もっとこう……いや、お菓子じゃないな」
「なんか良い響きだよね、プレッツェル」
「ねー」
「フランスの美しい街って感じがする」
「私はバレエのポーズっぽいと思います」
「わかる。すごい脚上げてそう。プレッツェル。ファッション関係の言葉かもしれないな」
「あー、襟とか肩のデザインでありそう。ロリータ風なのかな」
「ストールの巻き方とかね。大人っぽい感じの」
「秋元康の曲のタイトル」
「ありそう〜」小宮山さんが両手を胸の前で合わせた。「あと、女の子二人組の宅録ユニットとか!」
「宅録ユニット……それはなんか古いな」
「私が若い頃は多かったんだよ!」
「音楽だったらヒップホップ用語とかじゃないですか? プレッツェル。なんか昔の曲を断片的に切り貼りするような。知らないですけど」
「ヒップホップ出せば若者ぶれる思ってる? その考え方は古いよ」
「私は実際に若いんですけど」
「あれだな、ヨーロッパの自転車メーカーだな、プレッツェル。何十万円もするような、真っ白のロードバイクがみんなの憧れなの」
「保湿クリームとか」
「それ何か違うな」
「これ何か違いますね。すみません。気を抜きました」
「真面目にやってね?」
「すみませんでした」
「プレッツェル、プレッツェル……あ、パスタ屋さん?」
「……カプリチョーザでは?」
「それだ」
「でもパスタ麺の種類でありそう。プレッツェル」
「カッペリーニじゃない? パッパルデッレ? ストロッツァプレーティ?」
「知らないですけど。詳しいな」
「何だっけなあ! プレッツェル」
「調べます」私はiPhoneを取り出した。
「もー!」小宮山さんが私を睨みつける。「若い人はすぐ検索だ。冷めるなあ」
「わからない言葉があったらすぐ辞書を引く。お婆ちゃんの教えなので」
「私たちだけのプレッツェルを楽しむ時間だったのに」
「プレッツェルは……と。ドイツの焼き菓子!」
「やっぱお菓子なんだ? しかもフランスじゃないんだ?」
「フランスっぽい響きですけどね」
「ドイツか……」
「小宮山さんドイツ語取ってませんでした?」
「取ってる」
「じゃあ、わかってよ」
「私が大学生だったのって20年以上も前だからね。おほほ」
「めんどくさ」
「しおりちゃんこそフランス語じゃなかった?」
「そうですよ。おほほ」
「あっ、ドライカレーの店、潰れてる」
「えー」
「でも隣におしゃれな店があるよ。ランチメニュー……キッシュだって!」
「キッシュはフランス料理です」私は素早くiPhoneをタップする。
キッシュ(Quiche)。アルザス=ロレーヌ地方の郷土料理だということがすぐわかる。ドイツ帝国の支配下に置かれていた時期もあるせいか、ドイツ語のクーヘン(kuchen)を語源とする説もあるようだ。
「よし」小宮山さんが腕組みをした。「我々のプレッツェルから奪われたフランスを取り戻そう。レコンキスタだ。おごるよ。入ろう」
「わーい」私はわざとらしくジャンプする。「最初からおごってもらうつもりだったけど!」
小宮山さんが私に一瞬笑った目を見せて、シックなデザインの扉を開く。店内から暖かい空気が流れてくる。小宮山さんのブラウンの髪が揺れる。上品なグレーのケープコートに覆われた背中。そこに何か落書きするとしたら、
「I would love to do to you what the spring does to cherry trees」
というフレーズは、非常にふさわしいのではないでしょうか?
何かもっと深い意味がある気がするし、何か元ネタもある気がするけど……。
あとでこっそり調べよう。
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