第10話 何の音もしない

 非常に苛々する目に遭った。大学で。むしゃくしゃして衝動的な罪を犯したくないので、私は部室に寄ることにする。簡単な縫い物をして心を整えるためだ。今はとくに締め切りもないので、小宮山さんはいるはずがない。落ち着いて作業ができる。無意味にランチョンマットでも何枚か縫えば、私の気も静まるだろう。

 と思ったのに小宮山さんがいる。

 よりにもよってトリッキーなタイプの小宮山さんだ。

 まず、金髪。これは非常にレア。

 しかも胸にギターを抱えている。

 ぼろぼろのソファに腰を沈ませ、どことなく得意そうだ。

 私はローテーブルを挟んで向かいの硬い椅子に座った。

「小宮山さん、今日はおいくつですか?」

 と一応聞いてみる。

「19」

「歳下だ」

「ねえ、しおり」

「呼び捨てだな」

「何か楽器弾ける?」

「弾けないです。そのギターどうしたんですか? バンドでも組むの?」

「ベースだよ」

「ベースなんだ。弾けるんですか?」

「弾けない。まったく弾けないよ。ベースを触ったのも初めてさ」

 弾けないのか! 触ったのも初か! その喋り方はなんだ! と矢継ぎ早に思ったけど、私は静かに裁縫道具の準備をする。

「ねえ、しおり。なんで私、楽器弾けないんだろう」

 遠い目をして小宮山さんが言った。金色の髪がひとすじ、頬に流れて輝いている。そのまま額に収めたいような光景だ。言ってる内容はあほすぎるけど。

「練習したら良いのでは」

「練習、か……」

「軽音の部室でも行ってみたら? 場所知ってます? 向かいの棟の離れにあるんですけど。たぶん小宮山さんが行ったら、みんな喜んで教えてくれますよ。でも軽音ってえ! 痴情のもつれが多いからあ! 気をつけたほうが良いと思いますけどねえ! 小宮山さんなんてさあ! 格好の標的じゃないかなあ! 女慣れした陽キャから、音楽オタクみたいなやつまでさあ! みんな過度に優しくしてくれるんだろうなあ!」

「なんで大声なの」

「いや……」私は我に返った。「声量のあるところを見せつけようと思って。ボーカル向きかな」

「顔真っ赤なんだけど」

「息が足りなくなっただけです」

「ボーカル向きじゃないな」

「で? そのベースどうしたんですか」

「さっき軽音で借りてきた」

「もう行ってる!」

「たしかに浮ついた雰囲気の部ではあったな」

「セクハラされませんでした? 肩触られたりとか」

「軽音をなんだと思ってるんだよ」小宮山さんが少し笑う。「肩は触られたけど」

「なぜそのベースで殴らなかったんですか。ベース破壊のパフォーマンスを見せつける絶好の機会だと思わなかったんですか。今から一緒に行きましょう。ベースごと火を付けて軽音の部室を燃やし尽くしましょう」

「いやギター壊すのは聞いたことあるけど、ベース破壊するやついるか?」

「破壊しないの……?」私はiPhoneで即座に検索する。「いるみたいですよ。まず、クラッシュというバンドの人が1979年にベースを破壊しています」

「名前からしてクラッシュ? いま作ったみたいな話だな」

「作り話なのかな、これ」

「知らないけど」

「とにかく、チャラいバンドマンに接近してはいけない。最低5メートルの距離を保ってください。小宮山さんみたいな愛されキャラが最も危険」

「近づきやしないさ。チャラい奴らなんて苦手だよ」

「チャラい人、苦手なんだ……」

「どうして嬉しそうな顔をするんだい?」

「さっきから何なんですか、その喋り方」

「オレオレキャラ?」

「オレオレ? 詐欺なの? それを言うなら『俺様キャラ』じゃない? それも最近言わないか」

「お喋りな口だな」小宮山さんが、エア顎クイをしながら言う。

 これは……キスする流れだ。

 小宮山さんがあやしく微笑んでベースを床に寝かせた。立ち上がる。えっ、本当に……? と思ったけど、小宮山さんは自分の鞄を取りに行っただけだった。中から何か分厚い本を取り出している。

 ベースの教則本。

 明日はきっと金髪じゃないし、ベースの練習も続けるとは思えないんだけど……。

 まあいい。私は本来の目的であるランチョンマット製作に戻る。四隅の角を斜めに落としたおしゃれなやつを、何枚も狂ったように作ってやる。



「しおり」



 小宮山さんの声ではっと目を覚ます。私は一瞬何がなんだかわからない。

 針と布を握りしめたまま眠っていたようだ。ランチョンマットが2枚できあがっている。

「起きて」小宮山さんが私を見ている。「寝たら死ぬよ」

「雪山じゃないんで」寝起きにしては素早い返しだ。自分を褒めてあげたい。「あと私、雪山に登ったりする人、すごい苦手なんで」

「寝起き早々に機嫌が悪いな」

「小宮山さんは雪山に登る人なの!?」

「そう荒ぶるなよ。登らない人だよ。雪山に登る人は、マラソンやる人と同じくらい意味がわからないよ」

「なるほど。小宮山さんは、軽音の人と雪山の人とマラソンの人が苦手なんですね」

「ざっくりしたまとめだな」

「寝起きなんで」

「しおりはどうなの。苦手なタイプの人っている?」

「私は……情報発信が多すぎる人かな」

「聞いたことない類いの苦手なタイプだ」

「なんかよくいるじゃないですか。SNSとかで価値のある発言しようと躍起になってる人」

「いるけど」小宮山さんは吹き出した。「何かあった? 今日ずっと苛々してたね」

「いや……その」私は口ごもる。苛々に気づかれていた。「ゼミの男の子にもそういうタイプの人がいて。空き時間によく自己啓発っぽい動画とか見せてくるんですよ。さっきも見せられたんですけど。政治問題とかを極端に単純化して、啓蒙というか、パフォーマンスで見せてくる系のユーチューバーとか。ほんと苦手で」

「顔に出るもんね、しおりは」

「そうなんです。すぐ嫌な顔しちゃうから。そしたらその子、私になんて言ったと思います?」

「クイズ形式だ。ヒントもなしに」

「本気で考えなくていいです。『吉野さんって基本、世の中で起こってる問題に興味ないよね』って言われたんです、私」

 一瞬目を丸くしたあと、小宮山さんは爆笑した。お腹を抱えてうずくまる。長い金髪が滝のように垂れ下がって揺れている。私は少し見とれてしまう。

「笑わないでよ」

「いや、だって、しおり……。震えるほど怒ってるから」

 言われてようやく、私は全身の細かい振動に気づく。

「だって……私」今にも泣きそうな声が出てしまった。

「ごめんって。そいつをギターでぶん殴りたかったんだよね?」

「そうかもしれない」ついに目の端に涙がにじんでしまう。鼻水も出そうだ。

「不安定な子だな」

「俺様キャラやめてよ」

 言いながら私は完全に泣き出してしまった。

 小宮山さんはハンカチを貸そうとしたり、指で私の涙をぬぐったり、頭をぽんぽんしたりといった、俺様キャラがやりそうなことを一切やらず、ただおもしろそうに微笑んで私を見ていた。

 私の嗚咽が収まってから、ようやく小宮山さんが口を開く。

「お詫びに私の演奏を聴かせてあげよう」

「そんなすぐ上達しないでしょ」

「睡眠学習さ」

「寝てたの私なんですけど」

 小宮山さんはベースを抱えてソファに座る。悔しいくらいサマになっている。

「暴力では何も解決しない。音楽の力は偉大だ。どんな悩みも消してみせるよ。聞いてください、最後の曲です。ウーバーイーツ」

 オリジナルか?

 身構えた私の目の前で、小宮山さんの長い指がなめらかに動く。

 無音。

 何の音もしなかった。

 小宮山さんがさらに激しく弦をかき鳴らす。

 音が出ない。

 何の音も。

「音楽の力は……偉大……だ」

 と小宮山さんが絞り出すように言った。ついに私たちの何かが決壊する。堰を切ったように二人で大笑いしてしまう。

 いつまでもいつまでも笑い声がおさまらない。

 だって、何の音もしないなんてこと、ある?

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