第5話 クッキー

 大学構内のまずいカフェで友人たちと午後のひとときを過ごしていたのが30分前までの私。気づけば一人。私一人。ローレン・バコール。みんなそれぞれの授業に出かけてしまった。私だけ次の講義まで時間がある。遠くの席に小宮山さんがいるのには気づいている。私に気づいた様子はまったくないけど。こちらに背を向けていて、私の知らない男女と3人で何か楽しそうに喋っている。

 同学年の子たちだろうか?

 同学年といっても小宮山さんの実年齢よりは確実に下だろうけど。

 というか今日の小宮山さんは何歳だ?

 後ろからではよくわからない。

 小宮山さんは講義に出席するときは大学生らしい年齢から大きく離れることはない。意外と常識があるのだ。いろいろな年齢の小宮山さんを見ている人間はじつは少ないのではないか? と私は睨んでいる。ひょっとしたら私だけに許された特権かもしれない……という期待も少しある。聞いて確かめたりはしないけど。

 無粋は七つの大罪のひとつだ。

 ちなみにあほの藤田くんも小宮山さんの見事な変化をたびたび目の当たりにしているが、藤田くんは小宮山さんの素晴らしさを理解できないあほであるため除外しても良いものとする。


 にしても。

 小宮山さんの楽しそうなこと。お喋りに花が咲くとはこのことだね。あんな屈託ない笑顔を浮かべちゃってさ。

 わ、男の子のほうにボディタッチなんかしてる。

 やーらし。

 あれを計算ではなく天然でやってるっぽいのがなあ……いや計算かもしれないけど。私が親なら厳しく注意するね。ああいう思わせぶりな態度はいけませんよってね。3歳ぐらいから言ってきかせます。女優でいうと小雪さんが静かに怒ってるときの言い方でね。

 私が怖い顔の練習をしていると急に3人は立ち上がった。どこかへ行くようだ。今度はなんだか女の子のほうがやけに小宮山さんにべたべたしている。腕を組んだり、背中からしなだれかかったり。品がないなあ。ああいうのは良くないよ。もっと節度を持った距離感でいないと。まず指紋をつけるな。小宮山さんは芸術品なのだ。私は良いけどさ。学芸員みたいなものだからね。扱い方を心得てるし。触ったらちゃんと拭くし。

 3人は正門を出て信号待ちをしている。そう。私はいつのまにかこそこそ後を尾けてしまっているのだ。ほぼ無意識に。ストーカーまっしぐらか? そんな遠くまでついていかなければ、ストーカーってこともないだろう。ほんのちょっとした悪戯心の範囲内だと思われます。友人だし。

 友人だし!

 3人は大通りを挟んで向かいにある輸入雑貨屋へと消えた。私は店内には入らず外から様子を窺う。大きな窓越しに、ようやく正面から小宮山さんの姿をとらえることに成功した。私の見立てでは今日は23歳ですね。落ち着いたグリーンのお召し物が非常に似合っています。リリブラのワンピースだな。こないだ迷ってたもんね。思い切って買ったんだ? とても素敵だよ。おやおや、そんなはしたない笑い方はよした方が良い……いやめっちゃきもいな私。

 3人は相談しながら品物を選んでいるようだ。

 何を買うのだろう……。

 ラブコメ漫画だったら、こんなにも私をハラハラさせたあげく、じつは小宮山さんは友人たちのアドバイスを参考に私への誕生日プレゼントを選んでいたのでした〜、という脱力の展開になるだろう。

 そんなことはありえない。

 小宮山さんは旅行帰りでも私にお土産を買ってこないし、私の誕生日もたぶん知らないし、そもそも私の誕生日は8か月後だ。

 何かを買ってもらえる理由がなさすぎる。

 ほどなくして3人が店から出てきた。

 小宮山さんだけが大きめの紙袋を提げている。店の前で手を振ってあっさり別れる3人。男の子と女の子はカップルだったようだ。腕を組んで小宮山さんと反対方向に歩いていく。

 結局何だったんだ……?

 小宮山さんが真顔でこちらの方向に歩いてくる。

 すっかり油断していた私と目が合う。

 見つかる。

「なんで隠れてるの?」というのが小宮山さんの第一声。私はあからさまに電柱の陰に潜んでいたのだ。

「あれっ、小宮山さん?」私はいま気づいたような演技をした。「そこにでっかい犬いません?」

「犬?」

「ドーベルマンが。もう怖くて」

 とっさに変な嘘をつく私。

「いないけど?」小宮山さんが周囲を見回す。「ドーベルマン?」

「良かった! 飼い主からはぐれた可哀想なドーベルマンはいなかったんだ!」

「何でドーベルマンがいると思ったの?」

「黒塗りのロードバイクか何かと見まごうたのだと思います」

「見まごうた」

「まあまあ」私はごまかし笑いをしながら小宮山さんの隣に立つ。「何かお買い物ですか?」

「ああ、これ?」小宮山さんが紙袋を少し持ち上げた。「クッキー買ったんだよー。輸入品の」

「クッキー? なんで?」

「食べる以外に理由ある?」

「いや、その。差し入れとか。ご挨拶とか、お土産とか、謝罪とか、あと誕生日プレゼントとか……日頃の感謝とか! 自分が食べないパターンけっこうあるでしょ」

「私が食べるんだよ。無性にクッキー食べたくなってさあ。これ衝撃のおいしさらしいよ。ゼミの友だちが教えてくれたの」

 紙袋から見えるクッキーの大きな箱には不思議な文字が並んでいる。

「これ何語ですか?」

「えーと、インド語?」

「インド語なんてありましたっけ?」

「サンスクリットだっけ? 違ったかな。デーヴァナーガリー? ブラーフミー? 何だっけな。アーユルヴェーダ?」

「犬の種類みたいですね」

「ブラーフミーはかわいいかも」

「毛がふさふさですね」

「絶対ふさふさ!」

「小さい犬だろうな」

「私は大きいと思う」

「インドのクッキーなんですね」

「そうなの。インドのクッキーって想像つかないでしょ。バター効いてるらしいよ。もう無理だ」

「えっ、何が?」

「もう食べたい。今すぐ食べようよ」

「クッキーを?」

「そうだよ」

「私と?」

「そうだよ!」

「食べてくれるんですか?」

「食べてくれるんですかって何? クッキーの気持ちを代弁してるの?」

「まあまあ」

「部室で食べようかね」

「藤田くんいますよ。あほの」

「追い出そう」

「私! 紅茶買ってきます!」私は元気よく手をあげた。「先に部室行っててください」

 小宮山さんが軽く微笑んで指でOKサインを出す。そのサインは海外ではまったく違う意味になるから気をつけたほうが良いですよ。インドではどんな意味になるか分かりませんけど……などといつもの調子で私は言ったりしない。

 走る。

 さっきまでいたカフェとは味が段違いの、構内で最もおいしい紅茶を売っている場所があるのだ。穴場の。敷地の反対側だけど。

 爆発的なスピードで移動する私。

 けなげで笑える。


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