第6話 水筒の中身は
部室で編みぐるみを猛然と作っている。私が。私だけが。小宮山さんは隣に座って何もしていない。
今日の小宮山さんは17歳だ。
いつもより肩がほっそりしている。どうやって体格を操作しているのだろう。
目の錯覚か?
深く考えるのはやめよう。
そういえば以前にも17歳の小宮山さんを見たことがある。メロンパンをこよなく愛する、おっとりして可愛らしい女の子だった。
今回はそのときの17歳とは違うようだ。
髪は真っ黒で、視線が鋭く、なんだかぴりぴりしている。濃いグレーのブレザーを着ているけど、これは近隣の高校の制服だ(どうやって手に入れたのだろう……)。
小宮山さんはソファに深く沈んでいる。これ見よがしに小難しそうな本を開いたり閉じたりしている。虚空を見つめている。頬杖をついたり外したりしている。小さな声で「まさかね」とか「でも、あんなものかな」とか言っている。
これは……。
完全なる「どうしたんですか?」待ちの姿勢だ。
面倒くさすぎる。
とか思っていると小宮山さんが急に鞄をごそごそやりだした。
まず、雑誌を取り出す。
それから、ドン、とテーブルの上に水筒を置く。
何も言わない。
その銀色の水筒は異様な存在感を放っていた。私が散らかしたハサミや毛糸、かぎ針、ピンセットといった道具たちを従える王のようにテーブルの真ん中にそびえている。シンプルで有無を言わさぬ強固なデザインだ。非常にかっこいい。
あー、なるほど。
新しい水筒を褒めてもらいたがっていますね。
微笑ましいけどさ。
私はあえて水筒をスルーして、横から雑誌を覗き込んだ。
「何読んでるの?」
「え……?」まるで今初めて私の存在に気づいたと言わんばかりの、わざとらしいリアクションだ。「この雑誌、ですか……? さっきまでは澁澤龍彦を読んでいたのですが」
読んでなかったじゃん。開いたり閉じたりしてただけじゃん。
文学少女っぽい感じでいきたいのか?
「これはまあ、普段はまったく読まない類の雑誌です。雑誌じたい読みませんし。古い小説や紀行文なんかをよく読みますけれど」
「だから何の雑誌なの」
「セブンティーン」
17歳の姿だからセブンティーン。ってのは雑すぎない?
と私は思ったけど、「へー。なつかしー。読んでたなー」と言うにとどめた。
「ちょっとした気晴らしにはなりますね。たまには。こういうのも」
わずかに露出した膝の上で、小宮山さんはことさら大きくセブンティーンのページを開いてみせた。というか二度と閉じることはできないんじゃないかってくらい執拗にグイグイ開いている。
「あれ?」そこでようやく気づいた。「これ、小宮山さん?」
Tシャツにパーカー、シックなボタンスカートでアンニュイな表情を浮かべる小宮山さん。らしき女の子がページの端に載っている。
しまった。水筒は陽動だったか。
こちらが本命だ。
「ああ、これですか……」斜めに私を見ながら白々しく小宮山さんは言う。「先日、小さなギャラリーや名画座でもはしごしようかと街を逍遥していたところ、急に声をかけられまして」
回りくどい。喋り方も特殊だ。私は非実在少女と会話しているのか?
「雑誌デビューじゃ~ん。こういうのってモデルの卵みたいな人を仕込んでるのかと思ってたけど、ほんとに街で声かけてるんだね」
「Tシャツのイラストは私が描いたものです」
「自作なんだ」
「ちょっとオーレ・エクセル風で気に入っています」
「オーレ・エクセル」
「まあ、オリジナリティとは無縁です。単なる手すさびですので」
「手すさび」
「たまさか気分が良かったものでね」
「たまさか」
何かのオマージュか? モデルとなる人物がいるのか? 文豪の何とかか? 日本刀か? サンプリング元を知らない私が無教養なのか? そんなものは存在しないのか?
「へえー、でも可愛い」私は矛先を変えた。「ふつうに表紙の子とおんなじくらい可愛くない?」
「そんなことは……」
「いつ撮った写真?」
「3週間前かな」
わざわざその日と同じ17歳の姿で現れ、自分が載っているセブンティーンを見せつける……。
凄まじい圧力を感じる。
「モデルとか目指せるんじゃない?」
「そんな簡単な世界ではないですよ。人前も苦手だし」
「またまた〜。けっこう目立つの好きそうだよ」
「は?」
小宮山さんの口調と顔が急速に冷却された。
「私は日陰を好む人間です。30年以上前に書かれた古い本と、おいしいコーヒー。それさえあれば充分。将来は辞書を編纂したり、フランス文学を翻訳したりする仕事に就きたいと思っています」
小宮山さんは怒っている。ぷんぷん! という擬音が周囲に舞ってそう。私の中に眠るわずかな母性と、強固に隠蔽された変態性が同時に刺激される。
しかし実年齢である26歳の小宮山さんは頻繁には大学に来ないし、留年しまくっているし、フランス文学どころか本なんてほとんど読まないはず。東野圭吾を4ページだけ読んで、「これ新聞記事?」と言っているのを見たことはある。
「コーヒー好きなんだ? その水筒もコーヒー? あれ? なんかその水筒……すっごい素敵だね」
私は子供をあやすように言った。
「ああ、これ」小宮山さんは鼻を少し膨らます。「そうですね、なかなか悪くないデザインだと思いますよ。デンマーク製で。アンティークの。中身はコーヒーではありませんが」
そこはコーヒーじゃないんかい!
という脊髄からの要求をぎりぎり抑える私。
「じゃあ何が入ってるの?」
「私、部屋で一人で泣くことがよくあるのですが」
「ん?」
「この水筒には、50日間に渡って少しずつためた私の涙が入っています」
急にどうした。
アラフォーの小宮山さんがたまに言うような気色悪い発言だ。
「よく泣くんだ?」
「多感な年頃なので」
多感な年頃の子が自分で言うだろうか……。
キャラ作りにブレを感じる。
調子悪いのか?
小宮山さんはおもむろに水筒のフタを外し、そこに中身を注ぎこんだ。
指が細いなあ。
「どうぞ」小宮山さんが真面目な表情で私にそれを差し出した。「私の涙です」
透明の液体が波打ってきらめいている。
受け取ってしまう。
考え込んでしまう。
もし私の前で泣いてくれたら、その涙を直接なめてあげるよ……というセクハラ発言が頭に浮かんだので慌てて打ち消した。気の利いたことを言おうとすると、めちゃくちゃな内容を口走ってしまう傾向が私にはある。
相手を感心させようとか笑わせようとかするとき、人はどうしても異常性の墓場みたいな場所から材料を少し借りてくる必要がある。
だから浮かれている人の失言にあまり目くじらを立ててはいけない。
謝罪や反省はするべきだけどね。
まるで関係ない、自己弁護とも社会批評のなり損ないともつかぬ弱々しい思考が頭の中でぐるぐる回る。
手の中の液体は、それほど私を動揺させているのだ。
とても静かに。波紋すら立たずに。
「冗談ですよ」小宮山さんが吹き出した。「そんな深刻な顔しないで。沸かしただけの、ただの水です」
冗談だったんかい! いやそうだろうけど! てか沸かした水かい!
経済的!
と思わず言葉を連射しそうになったけど、言わない!
私は脊髄を完璧に支配下に置くことに成功した。
「でも一滴くらい入っているかも。私の涙。よく泣くのは本当だから」
小宮山さんが悲しげに微笑む。
だったら。
ここで泣いてよ。私の前で。
一滴くらいなら本当に舐めてあげる。
私はそんな言葉と一緒に水を飲み込んだ。
「涙じゃなくて鼻水って可能性もあるけどね〜」と小宮山さんが私の肩を強く何度も揺さぶった。
突然の無邪気。
私の心も体もぐらんぐらんに揺らされている。
どっちが多感なお年頃だ?
小宮山さんが私の隣で腹を抱えてげらげら笑う。
生命力がまぶしい。
17歳だね……。
水、おいしいよ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます