第4話 もらった洋服

 朝から少しずつ私を蝕んでいた【無】がついに体のすみずみにまで行き渡った。大学に着いてすぐのことだ。予想より進行が速い。教室ではなく学食に直行する。食券も買わず、ただ座って時間を経過させる。

 こんなときに限って小宮山さんが入ってくる。嬉しいけど嬉しくない。私は顔色が最高に悪い状態だし、無でもある。

 でも隠れようと顔を伏せかけた瞬間、たやすく発見されてしまった。

「おーい」

 軽く手を振ってこちらに近づいてくる。今日の小宮山さんは32、3歳といったところ。珍しくメガネをかけている。クラシカルなブラウスに紺色の長いスカート。クリップボードを小脇に抱えたりして、全体の印象はフランス語の非常勤講師。のコスプレのよう。

「あれ? なんか元気ない?」

「小宮山さんは元気そうですね。今日の年齢当ててみましょうか。32歳」

 早口に言うと、小宮山さんは伊達メガネをくいっと動かして「40歳」と微笑み、私の隣に腰掛けた。

「見た目若いな」

「ピラティスのおかげかな」

「ピラティスやってるんですか」

「そうねえ、22歳から。もう15年以上だね。当時はジェニファー・ロペスが広告塔だったな」

 昨日は19歳の姿だったのに……と言いそうになって我慢する。

 無粋はいけない。

「はあー。暑いね」

 小宮山さんがハンカチを取り出して目もとに当てた。

「暑いってほどでは」

「歩いててさ、急に止まるとね。汗がどんどん出てきちゃう」

「そんな汗っかきでしたっけ」

「しおりちゃん」

「下の名前だ」

「あなた今日何歳?」

「20歳です。昨日も明日も」

「自律神経ってね」

「自律神経」

「18歳をピークにどんどん衰えていくらしいんだ。それにともない、体温の調節機能がどんどんバカになっていく。宿命的に。20歳くらいなら汗もすぐ引くと思うけど、私の年齢だと全盛期の6割程度の力しかないんだよ。自律神経に。回復の見込みはない。歯止めが効かないのよ」

 医療ドラマの女優みたいな口調で髪をかきあげる小宮山さん。言ってる内容はアホっぽいが。

 というかこの人、自律神経も年齢に合わせて変化させられるのだろうか。

 やはり宇宙人に何らかの処置を施されたとしか思えない。

 小宮山さんがクリップボードをテーブルに置いた。挟んである書類には何か意味不明の数字の羅列。それ何ですか? と聞く寸前、「その袋なあに?」と小宮山さんに質問されてしまった。私の足もとにはサンタクロースみたいに大きな白い袋が置いてある。

「ああ、これ……じつは朝5時から昼までバイト行ってたんですけど」

「鉄工所だっけ」

「パン屋です。鉄工所? 誰の話?」

「冗談だよ冗談。おばさんの罪のない冗談。で? バイト先で何? いじめられたの?」

「朝のパートさんが1人辞めたんです。今日」

「いじめ……た?」

「そんなわけないでしょ。遠くにお引越しらしくて。もう50歳くらいの主婦の人なんですけど。私ちょっと不注意で、その人と仲良くなりすぎてしまいまして……」

「不注意ってなによ」小宮山さんが少し笑う。「スパイなの?」

「え?」

「何でもない」

「……今日なんか小宮山さんと話あわない」

「機嫌悪いなあ」

「寝不足でバイト行って、お客さんにすっごい嫌なこと言われて、疲れきって、そのあとちょっと重荷になることがあって、無に飲み込まれてるだけ。そのパートさんとは何の問題もないです。仲良いし。仲良いというか、話しかけてくるから強制的に仲良いっぽい感じになってるんですけど……。私、50代以上のおばさま世代に異様にウケがいいんですよ」

「自覚あるんだ」

「あの世代の人って、仲良くなるとすぐ服くれません?」

「お下がりってこと? そんな親ほど歳の離れた人にはもらったことないかな……」

「私はよくもらうんですよ。古いけどモノはいいから、とか言って。モノはよくてもさあ……断るのも悪いし。かといって着るとしても30年後、みたいな服ばっかだし」

「えー、もらえるんなら嬉しくない?」

「嬉しくないです。おしゃれだな、と思う歳上の人には普段から『その服かわいいですね』と言うようにしてます。そしたら後日くれることもあるし。それ以外の人からもらうのは迷惑なんです」

「あ、その袋の中身ぜんぶ服なんだ? まさに重荷だね。サンタクロースのコスプレでもするのかと思ってたよ」

「でしょ。重すぎ。もらいすぎ。肩痛い。無を加速させる。ありがたいけど。着ないし。小宮山さん、いりますか?」

「いります。全部ください」

「すごい決断力だ」

「今からファッションショーしよう。部室で」

「たぶん藤田くんいますよ」

「追い出す」小宮山さんがクリップボードを手にして立ち上がった。

「小宮山さん、その書類って何なんですか?」

「小道具。いま私がコスプレしてるのわからない?」

「やっぱコスプレなんだ。フランス語の非常勤講師ですよね?」

「なにそれ」小宮山さんが小さく吹き出す。「これはオタサーの姫、のコスプレなんだよー」

「オタサーの姫なんて言葉もう誰も使ってないでしょ……」

 あ、でも40歳ぐらいの人なら言うのか……?

 カルチャーセンターとかにもいそうだし。

 オタサーの姫。


 藤田くんはPCの前で寝ていた。徹夜で仕上げた脚本が気に入らなくてイチから書き直していたらしい。半覚醒の藤田くんの足を2人で引きずって外に出す。「2時間くらい立ち入り禁止ね」と小宮山さんが感情のない目で言った。冷たい。自律神経のせいだろうか。藤田くんはコンクリートの廊下で眠りについた。

「さて、着替えるか。一応後ろ向いててよ。ジャーン、って感じで何回もやりたい」

「はいはい」

 無邪気な40歳だ。

 こないだ会った36歳の小宮山さんは枯れ果てていたのに。

 ファッションショーが始まる。



 市松模様のとてもゆったりしたパンツスーツ。

 80年代の英国風ワンピースと寝間着の中間のような服。

 昔のCAさんの制服みたいな、いつ着たらいいのかわからないセットアップ。

 レトロというより古めかしいだけのデニムシャツ。

 遮光カーテンみたいな生地でデザイン終わってるドレス。

 もっさりしたシルエットに乙女としか言いようのない花の刺繍が散りばめられたエンジ色のスカート。

 意外なほどモダンな(私でも着られそうな)ざっくり編みのニットワンピ。

 非常に謎めいた女がこぞって着たがるようなサテンのブラウス。

 出口のない迷路が描かれたトートバッグ。

 脚の形にぴったりくっつくビニール素材のSFみたいなパンツ。

 ジョジョの奇妙な冒険の第一部に出てきそうなジャケット(説明が難しい)。

 スカジャン風だけどシンプルめのブルゾン(なかなか可愛い)。

 思想によって色分けされたアメリカの州地図の柄のチューブドレス。

 GUのオーバーサイズスウェット(今も売ってるやつ)。



 いろいろなポーズを軽やかに決めてみせる小宮山さん。ピラティスのたまものなのか?

 私にはとうてい着こなせないであろう奇抜だったりダサかったり古かったりする服も、小宮山さんが着るとどれもこれも素晴らしくマジカルだ。

 スタイル良いから?

 私のひいき目か?

 夢から醒める寸前のような美の祭典。焦燥感あおられるスリリングな体験。気を抜くとすぐ緩んでしまいそうな涙腺。なんでしょうもない韻踏んでるのもう開演?

 興奮してしまった。

 終演。

 というか、この服くれたパートの桐原さん、ふだんこんな服着るんだ。着てたんだ。いつ頃着てた服なのかな? 若い頃? 最近? 歴代の勝負服なのか? ディスコとか行ったりしたのかな。バブル期? 氷河期? いま何期?

 枯れたパートのおばさんとしか思っていなかった桐原さんの人生が急に立体的に私の胸に迫り、貧しい妄想によって捏造されかける。

「リメイクしたら私ほぼ普通に使えそう」と40歳の小宮山さんが言った。私の意識も現実に引き戻される。

「リメイクなんかできるんですか? 裁縫苦手なのに」

「古着屋やってる友だちによくお願いしてるんだ」

「友だち多いですもんね、小宮山さん」

「でもこれなんか、そのまま今でもしおりちゃんに似合うんじゃない?」

「私もそれは普通にいけそうと思ってました」

「じゃあ、これあげる」

「えっ……いや、まずは小宮山さんが飽きるほど着てからでいいです」

「なんで?」

「えーと、それは……」

 もうちょっとお下がり感が欲しいというか。

 もうちょっと小宮山さんの歴史を刻んで欲しいというか。

 もうちょっと気持ちの悪いことを考えてしまったというか。

「暑いなあ。窓開けられないもんね。汗かいちゃう」

 小宮山さんが意味ありげな微笑を閃かせた。

 私は目をそらす。小宮山さんが脱ぎ捨てた最初の服に視線を落とす。

 小宮山さんの私物。

 あの服がもし私の部屋にあったら。

 と思うだけで少しドキドキする。

 私を満たしていた無が徐々に色づいていく。

 決して清らかとはいえないものによって。

 あるいはこの世で最も清らかなものによって。

 なんつって。

 疲れてるんだな。眠くて頭が動かない。小宮山さんの輪郭は、夢の中で見るときのように淡くにじんで現実味がない。

  

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