第25話
リクは前と変わらぬ姿勢で、体の目前まで突きつけられている二つの剣を避けることなく、ただその場に立っている。クラフとサットも、アーノルトの指示を待っているのか、リクに剣を向けたまま静止していた。
場が凍りついたように動きのないなか、いきなりその空気を震わし壊すような、アーノルトの爆笑の声が川辺を支配する。
大の男が腹を抱え、体を大きく震わせながら大声で笑うその異様な光景に、ぼくの心まで乱され、胸の奥まで不快感が広がっていく。
「ははは! そんなに、人質を交代させたかったのか? おまえが名もなき者たちの頭領ならば、人質としての価値は確かに高かろうが、苦労して人質を解放させた結果がこれか? どこまで計算していたのだ? ふふ、それとも、こちらを笑わせて油断させる作戦だったか?」
明らかに目の前で無力に立つリクを馬鹿にした口調でアーノルトが嘲り笑う。
二つの剣に対して、リクは武器をなにも持っていない。
川に飛び込んだシチェックとカイのことも心配だけど、リクのほうがより危険に晒されていた。
「森に潜んでいる者がいるのだろう? この頭領とやらに剣先が食い込む前に、姿を表すほうが賢明だ」
アーノルトの笑いを含んだ声に樹々の間から姿を現したのはル・イースだった。
「そのまま口を閉じていろ。魔法を使う気配を少しでも感じたなら、この頭領の身の安全は保証できんぞ。手を上げたまま、背後の者らのところまで下がれ」
アーノルトがル・イースに低い声で命じる。ル・イースが森の中から攻撃を仕掛けてきた者と気づいているんだ。
ル・イースはなにも言わずにその言葉に従う。リクの近くを通るが、二人は視線すら交わした様子がなく、その他の誰も動かない。
「いいぞ。おまえはちゃんと人質としての価値があるらしいな。一緒に船に乗れ」
それはだめだ!
ル・イースがエヴァンスたちの横をも通りすぎ、ぼくの横までやってきた。彼の灰色の目がぼくに向けられていた。ル・イースはアーノルトらに背を向けたまま、口を開いた。
その口から聞こえたのは、声ともいえない、喉の間から空気が漏れるような音。
心配は、無用?
ル・イースの、声にならない言葉。
この人は、声を失っているんだ。
いままでぼくとほとんど視線が合わず声すら聞いたことがなかったル・イースが、それでもぼくに伝えたかったこと。
リクへの心配が、無用って、こと?
どういうこと?
リクへ目を向けると、アーノルトが船に乗り込もうとするのを見ているだけで、リクはその場から動こうとはしなかった。
それにアーノルトも気がつき動きを止め、リクに苛立った声を向ける。
「おまえも腕を引かねば動けないのか? それとも、腕の一本くらい失ってからようやく動けるのかな?」
恐ろしいことを日常のことのように言うアーノルトが、なぜいままで捕らえられなかったのかおかしなくらいに、ここへきて異常性が際立っていた。本性をようやく表面に現し出したということだろうか。
それとも。
こういう人間はどこにでもいて、アーノルトはとくに悪人としての個性が目立つような者ではない、そういうことなのかと考えたら、背筋がひどく冷えてくる。
「おまえと、船に乗る気はない。言っただろう? 人質が解放されたなら、船が岸を離れるしばらくの間は見逃してやる」
リクの声は先ほどまでとは違い、感情のわからないものになっていた。
感情がわからないというより。
アーノルトの存在を、どうでもいいものと考えてる?
ぼくがそう思ったのは、ぼくがよく聞いていた、面倒くさいとリクが思っているときに出す声だったから。
こんな緊迫した場面で、どうしてその台詞なの?
「俺がその言葉を信じるとでも? まだふざける余裕があるとはな。結局は状況の読めん子供だということだ。そんなおまえの言葉に翻弄された俺もまだまだ甘いわけだな」
アーノルトがリクを嘲りながら、顎をわずかに動かし、サットに合図を出す。
リクの真横まで動いたサットが、リクの背後から、突き刺す寸前のところまで剣を突きつけた。その間クラフがアーノルトよりも先に船に乗り込み、先に乗っていた男たちの陰に隠れてしまう。
アーノルトはそれでもまだ動かないリクに、大げさな溜め息をついた。
「おまえを殺せば、そこにいる者たちも動けるようになるか。それはいただけんな。いいだろう。おまえの言葉を信じてやろう。剣を引け」
アーノルトの演技かかった言葉に従い、サットがリクに向けていた剣を下げ、船のほうへ向かった。剣の脅威から脱することができたリクは、場所を下がることなく同じ場所に立ち続けている。
アーノルトはリクの言ったことを試すように、まだ船に乗り込まずに岸辺に立つ男たちを見回した。
「この距離では魔法の威力が届く前に船に乗り込める。弓矢の類はそこのサットが切り払える。そちらの手出しはもはやできないな。ここまでの見送り、感謝する」
アーノルトは極上の芝居をする役者のような、いままでの悪党ぶりが嘘のような笑顔を見せ、船に乗り込もうと足を動かしたとき。
「船から魔法の気配!」
ユナムの治療で言葉を唱えていたはずのフィジが警戒の声を放った。
直後にアーノルトの真横で、船に乗っていた誰かが、リクに向けて巨大な炎を走らせた。
ぼくは息をすることもできなかった。
瞬きもできずに、炎の塊がリクの全身を包み込むのが目に焼きついた。
「俺の感謝の気持ちを受けとれ!」
アーノルトの嘲り笑う声も、耳に届いたのに理解ができない。
リク?
どこに隠れたの?
炎で見えないよ?
それが魔法士の力なのか、その場で炎は留まり燃え続けていた。
渦を巻くように、その炎の勢いが増していく。
どんどん、もっと、もっとと、炎が渦巻く速度が上がって、その中心にいるリクの体が見え始める。
目をそらすことができなかった。瞬きすら。
「リ、ク?」
無意識に声が出ていた。
炎に巻かれている体から、片腕が上がった。
リクにまとわりついていた炎は、リクの体に巻きつきながら速度を上げてその形を変えていく。
「なにが起きているの?」
フィジの茫然とした声が聞こえた。
リクに巻きついている炎が巨大な蛇のように見えた。
リクの舞い上がる髪と、頭が見える。その整った顔も。
ぼくよりも遠い位置にいるはずなのに、その顔にある輝く金色の瞳が見えた。
巨大な蛇のような炎は、渦を巻きながら形を変えていき、速度を上げて地面のほうに集まり出し、次には大きな獣がリクの周りで歩行を始めていた。
リクの顔も髪も、身体も服も、なにも燃えてない。
リクの周りをぐるぐると周っていた獣の炎はそのあと舞い上がり、リクの頭上で何度か旋回してから、リクの片側の肩に降りていく。それは勢いを増し、凝縮するように縮んでいき、翼を休める鳥のような姿でリクの肩に降り立った。リクの髪がその拍子になびくけど、炎はリクの髪を燃やすことはなかった。
リクの上がっていた片腕は下り、リクの目は動きを止めていたアーノルトに向けられていた。
「馬鹿な、なにが」
アーノルトが船に乗り掛けていた足を川辺の地面に戻して、無意識のように呟いた。脅威を見たようにその目は驚愕に見開かれている。
「名もなき者たちの頭領は、その者らのなかで一番強いから頭領なんだと、理解したか?」
いつの間にかリクの近くに来ていたセリュフが腕組みでアーノルトに告げる。
アーノルトの隣にいたサットが無言で動き、リクに向かって剣を振り払った。腕組みを解いたセリュフが面倒そうに腰に下げていた大剣を驚くほどの速度で抜きながらサットの体に振り上げた。サットの剣先は、リクに届く前に地に落ち、あとを追うようにセリュフの力技で斬り裂かれたサットの体が多量の血を吹き出しながら倒れ落ちた。
そのサットの体量の血は、セリュフにかかる前に火の粉のように上に燃えあがって空中に消えていった。
「液体を、瞬時蒸発。なんて威力なの」
聞こえてきたフィジの声に、畏怖のようなものが混ざっている。
「火の神。それとも、精霊の王? あんな桁違いのものをなんて呼べばいいのか、歴史に残してきた者たちが統一しなかったのもうなずける」
フィジが言っていることがわかるようなわからないような、それを意識の片隅で聞きながら、リクと肩に乗る炎の鳥のような塊に目を奪われていた。
アーノルトを待っていた船が、彼を待たずに動き出した。
「あららあ、部下に見捨てられたか?」
セリュフが大剣から血糊を振り払って鞘に納めながら飄々と言う。
岸から離れようとする船から、魔法士らしき者が悲鳴のような声を上げながらまた炎を放った。その炎は先ほどのものよりも大きく、速さも段違いだった。
その炎はリクやセリュフに到達する前に突然方向を変えた。真逆のほうへいきなり弾かれるように速度を増し、炎を放った魔法士に向けて飛び込んでいった。
船は悲鳴と怒号で大混乱に陥っていた。川に飛び込む者も増えていった。だけど船から岸まで距離が離れつつあり、水辺を漂う人たちが岸に到達する前に、穏やかだった川の表面が波打つように隆起し、人々を船まで押し流すように動いていた。
その流れの元を勝手に目が追うと、それはこちら側からのものだと気づく。
岸辺にキースが立っていて、彼の長剣が彼の片手に握られ、その剣先が川の水にいくらか沈められていた。歌うように朗々と、キースの言葉がその剣先から川の流れを劇的に変えていた。
そうだ。この人は水精の使い手。剣技や雹雲と呼ばれる氷の魔法ばかり目立っているけど、水魔法を極めた人だ。こんな凄いことまでできるのか。
あれ? キースでさえ、魔法に言葉を唱えている。フィジも。
でもリクは。
なにも言葉を出してない。
「なんだ、これは」
アーノルトが表情をなくしてつぶやく。
「おまえの終わりだ」
リクが感情なく応える。
「そろそろ覚悟もできただろう。人はいずれ死ぬ。それはおまえも同じだ」
なにか言葉を出したかっただろうアーノルトの声は、リクの肩にある鳥の形の炎の塊が吐息のような細長い火炎を吐き、それが彼に届いた瞬間アーノルトの全身を大きく包み、音となってこちらに届く前に遮断された。一気に上昇する火炎の色は火の色から白く変化し、すべての音まで上空へ吹き上げていく。
それは、とても恐ろしい光景のはずだ。
それでもその炎の色が綺麗だと思ったぼくは、その中でアーノルトが生きながら燃えていることを考えても感情が動かなかったことに恐怖を感じた。
怖いのは、力やそれを持つ者に対してじゃない。
それを目前にしたときの、自分の思いや感情が、自分が正しいと思っているほうへ動くかどうか。
白い炎を身動きせずに見つめ続けるリクを美しいと思ったぼくのほうが、自分の欲望に従って動いていたアーノルトよりもひどい人間なのかもしれない。
ぼくの背後のほうから何人かの男たちがリクのほうへ慌てたように走っていく。
リクはそれに気付いて顔を向け、男たちの様子になにかを感じてかこちら側に歩き始めた。リクの代わりにセリュフがアーノルトの最期を見届けるようにその場に留まっている。
リクはいつもよりも早い速度でぼくの横からもっと向こうの川辺へ歩き続け、ぼくも震える足を動かしてそのあとを追っていく。
少し向こうのなだらかな地面に、シチェックがしゃがんでいた。よかった無事だった。
でも、その小さな体の向こうに、誰かが横たわっていた。
カイ?
リクがその横までたどり着き、シチェックの隣に腰を落とす。
片膝をついたリクの顔の下に、カイの血の気のない横顔が見えた。
どうして、動かないの?
リクの背中に、誰かの声がかかる。
「セリアとタグの奪還時に深い傷を負っていたようで、無理をおして動いていました」
「ああ」
それには気付いていたというように、リクが声を返す。
カイが閉じていた目を薄く開けた。
「キルリク、すみま、せん」
カイの細い声。
あんなに強い人が、どうして。
そう疑問に思う前に、自分の中の答えを知っていた。
失われた血を取り戻すには手遅れなのだと。
「カイルヴァーグ、よくやった」
リクはカイの眼を見ながら言った。片手でカイの髪をくしゃりと撫でる。
カイは薄く口元を上げ、細く開いていた目も閉ざされてしまった。
「カイ、カーイ」
シチェックが濡れたまんまでカイの胸に両手を当てて揺さぶる。
カイは動かない。シチェックの置かれた胸はもう上下に動いていない。
「カーイー、うう」
いつも笑顔のシチェックが、泣いてる。
ぼくの目からも熱くて冷たい滴がいくつも落ちていく。
シチェックはカイの血で濡れた胸にしがみついて、泣き声を上げて彼の名前を呼び続けた。
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