第24話
目の前の許しがたい所業に歯噛みしかできないこちらをよそに、アーノルトは構わずにユナムの腕を強く掴んだまま彼を引きずっていく。
アーノルトに近いフィジとキースは距離を巧みに測り、付かず離れずの間を保っていた。ジョーイ・ハーラット管財官補佐は周囲に目を配り、部下たちや姿の見えない森の中の者たちと無言の会話を交わしている。
それらが視界の端に映っていても、ぼくには、ユナムが苦痛に歪ませている彼の顔と、その原因である男にしか視線がいかなかった。
呼吸が小刻みに苦しく、両手の拳を握る力を緩めることができない。
「ナオ」
この緊迫した場面でも冷静な声が、耳に入ってくる。
「俺の声が、聞こえているか」
聞こえてるよ。
でも。
返事はできなかった。
ユナムを見たままで、かろうじて小さくうなずく。
「この場に、ユナムを見殺しにしようと思っている者は一人もいない。お前もわかってるな?」
リクの声を聞いている間にも、アーノルトが森の中の切り開かれた道の片側にある、見た目ではわからないくらいの獣道に入っていく。あの足元の悪さじゃ、まともに歩くことができていないユナムがさらに苦痛に苦しんでしまう。
「機会を待て。それは必ずくる」
ほんとうに?
リクは、ぼくの知らない数々の修羅場を経験しているはず。そんなリクが言うのなら、信じることができる。
「ただし、ユナムは無傷とはいかないだろう。いまは奴らも逃走のための人質としているが、川で船に乗り込んでしまえば始末される可能性がある。奴らが船に乗るまで、その間の、ほんの少しの機会を待て」
ぼくの背後で、ぼくにしか届かない距離で、静かに囁くリクの声に、再度うなずく。
剣も、魔法も、ぼくは使えない。
使えるのは、この心と、それを伝える言葉だけ。
それすら、いまは使うことができない。
ユナムに声をかけることで、アーノルトに対してどんな刺激になってしまうのか予測がつかない。
獣道に入るアーノルトが樹々に隠れ、続いてアーノルトに腕を引っ張られているユナムの姿が見えなくなる直前、眼が合った。
自分の眼に、込められるだけの願いを乗せる。
互いの視線が離れるまで、そのぎりぎりまで。
ユナムがぼくの願いを受け取ってくれたのかはわからない。
ただ、さっきまで、自分の命を諦めようとしていたときよりも、眼に力があったように見えた。
彼らの姿が皆の視界から完全に消えてしまってから、止まっていた時が突然動き出したかのように慌ただしく周囲が動き出した。
「リーヴ!」
森の陰からエヴァンスが飛び出してきた。
「ル・イースが追ってます。彼が一番気配を殺せるんで。他の者はル・イースよりも遠めで探ってますが、あの状況じゃ迂闊に動けません」
エヴァンスの声は鋭いが、焦っている様子はない。ある意味淡々と状況を報告している。
「森の中に他に戦力はあったか?」
受けるリクも冷静さを保っている。
「いえ。油断してたわけじゃないですが、アーノルトがユナムを連れてきた時点で逃走が計画されていたのを見抜けなかったのは、こちらの不手際」
「クイン・グレッドのアーノルト捕縛計画が漏れていたというより、ユナムとコーグの動きが監視されていたのでしょう。それも、相当前から」
地に伏したコーグの様子を部下が確認しているのを見ながら、管財官補佐が苦りきった声で言う。部下が管財官補佐に首を振る。
「そんなに苦しまずにいったでしょう」
管財官補佐の声に、それが唯一の救いだなんて、思うことはできない。
可愛がっていたはずの少年に手をかけられるなんて、コーグも思ってもいなかっただろう。
アーノルトの残されていた従者たちは皆捕らえられた。身に覚えがないと喚いていた者もいた。それは本当かもしれないが、信じることもできない。
アラヴィ様の住まいに管財官補佐の部下が何人か戻り様子を確認すると、アーノルトが言うようにアラヴィ様は意識を失っており、飲み物に眠る薬を入れたのだろう女達は詰問に口をつぐんでいるという報告だった。彼女らはこれからアーノルトとの関係性について尋問を受けることになる。
管財官補佐やその部下たち、リクと仲間たちがアーノルトとその一味の捕縛に向けて動いている以上、ぼくがいまだここにいるのは、無意味だとわかってはいる。
それでも、ユナムのところに気持ちが行ってしまっている。
「カルトーリ様」
管財官補佐が暗に言う声にも動けない。
ユナムが消えた獣道からずっと目が離せない。
その視界の端に、道向こうからいくつかの馬影が近づいてくるのが見えた。
「あれは」
騎乗した男たちが数人駆けてくる。
「こちらの者だ」
管財官補佐の声にエヴァンスが答える。
「カイだ。でもなんで」
つぶやくエヴァンスの声が不審げだ。
カイは、シチェックを背中に抱えて逃走劇を演じたあのときから、シチェック、セリア、タグたちと共に行動していた。ぼくが領主の館に入ってからも彼らの護衛として本都で過ごしているはず。
近づいてくる男たちの緊迫した顔つきに、心臓が嫌な音を立てる。
男たちはこちらから少し距離をとって馬から下り、少し歩いて近づいてくる。
「キルリク、カイから報告が」
一緒に来た、道向こうで警戒に当たっていた者が言うと、カイがリクの前に進む。
赤っぽい茶髪の短い髪に隠れていない首筋は太く、鍛えられた肉体を持つ屈強な戦士であるカイの顔色が悪い。元々の白めの肌に色が乗っていないくらいに。
「申し訳ありません。こちらの隙を突かれ、襲撃を受けました」
息を飲んだ。
「本都の市場で観光中、シチェックが視界から外れ、その一瞬後に知らぬ男に抱えられておりました。往来の人が多く、状況から無理な奪還を断念、いまも他の者が数人追っております」
シチェックが!?
「セリアとタグは」
リクの声は変わらず冷静だった。
「不審な者らの手にかかりそうになりましたが、なんの怪我もなく無事です」
「アーノルトだな」
「おそらく」
「どういう、こと?」
気持ちがついていけない。
リクを見上げると、眼が、金色に光って見えた。
「シチェックがあちらの人質の一人になった」
頭が理解したと同時に、身体が勝手に走り出していた。
「カルトーリ様!」
管財官補佐の声に構わずに走り、だけど、獣道の前で止まらざるをえなかった。
自然のままになっている森は陽射しを受ける場所が少なく、奥は暗い。
獣が通る道とは名ばかりのようで、どこに足の踏み場があるのかさえわからない。
すぐ近くにいたキースを見上げた。
「連れて行って欲しい?」
フィジの声に。
「キース、ぼくをユナムとシチェックのところまで運んでもらえませんか」
キースの眼を見ながらお願いをする。
フィジにも眼を向ける。
「フィジ、怪我をしたユナムを、救けてください」
リクが隣に来ていた。
「リク」
二人を、ユナムとシチェックを、救けなきゃ。
「こっちは構わないけど、保護者さんたちはそれでいいの?」
「いいわけないでしょう」
フィジの問いかけに、管財官補佐が苦い声で反応する。
管財官補佐に眼を向けると、はあっと盛大な溜め息をつかれた。
「おまえが現場に行っても、状況がよくなるわけじゃない」
それでもかと、リクの眼が言ってる。
そんなことはわかってる!
「シチェックはなんの関係もなかったのに、ほっとけるわけないじゃない!」
アーノルトが言っていたことは、こういうことだった。
「リク!」
リクの眼が少し細まり、ぼくを射抜く。
「川に出られるここよりもましな道がこの向こうにあります。馬もそこならなんとか通れる」
この辺りを事前調査していたらしいヤトゥ商会の男の一人がリクに報告する。
「歩き慣れない獣道を通るあちらを、ある程度先回りできる」
それを聞いてしばらく動かなかったリクが、口を開く。
「フィジ、キース、ナオの身はお前らが守れ」
「了解」
二人が落ち着いた声で同時に返事する。
「ナオ」
「はい」
リクの金色の眼を見ながら返す。
「二人のそばを離れないと誓え」
怖いくらいに、綺麗な瞳を。
「誓います」
ぼくの返事に、リクが動く。
「ついてこい」
リクの動きに従って、他の者も動き出す。
リクはじめ、ヤトゥ商会の男たち、エヴァンス、カイ、管財官補佐と部下たち数人、それから、ぼくを抱えるキース、フィジが最後に、皆馬に乗り、細い道を駆けていく。
スーザから感じていた監視の視線は、思った以上にぼくたちを見ていたんだろう。ぼくの行動範囲を、すべてを。
シチェック!
なんであの子を!
ユナム!
諦めないで!
二人とも、無事でいて!
何度も願いながらひどく馬に揺らされるのを、キースの腕が支えてくれていた。
ほどなく樹々が視界の向こうで途切れる線が見え、馬の速度が緩くなる。
川に到達する前に皆馬から下り、ヤトゥ商会の一人に馬を預けて今度は自分たちの足で川に近づいていく。
この川は中流地帯に位置し、川幅は相当にある。レッテ山岳地を上流に、マンダルバの大地を幾度か曲がりくねって、この地にやってきている。この辺りは緑豊かだが大地はレッテ山からの溶岩地で、土から露出する岩肌も多い。川岸は砂地がほとんどなく、中型の船なら接岸して乗船できるような場所がいくつもある。
どこだ。
リクと他の男たちは、アーノルトたちが出てきそうなところまで樹々や岩を避けて進んでいく。ぼくとキース、フィジ、それにジョーイ・ハーラット管財官補佐は、それを緩やかな歩調で追いかけている。
広めの川の上流から部屋つきの中型帆船が二艘近づいてきていた。川の流れは激しくはなく、魔法の力を借りずとも、いくつかの櫂でその船は動かされていた。
船が川に接岸しようとしている地点、そこに人影が見えた。その向こうの岸に、リクの仲間たちの姿もあった。アーノルトを追っていたはずのル・イースの姿は見えない。
「それ以上近寄らないほうがいい」
アーノルトが淡々と話す声が聞こえてくる。
リクはそれが聞こえているはずなのに、こちら側の先頭としてアーノルトたちに近づいていく。
アーノルトの手にはユナムの腕がいまも掴まれていた。ユナムは両膝ももう一つの手も地につけていて、意識を失っているかのように体から力が失われていた。顔も下を向いていて、少しも動かない。
サットの持つ剣は変わらずユナムに突きつけられていて、クラフは無表情にその横でユナムを見下ろしている。
「ユナム、お前からも言ってやれ。死にたくないからそれ以上近寄らないでくださいとな」
こちらからは見えないが、ユナムは意識はあるのかもしれない。だが呻き声ひとつさえ出さずに、反応がない。
自分の拳に力がこもる。他の人からみれば無力に等しいその力では、この拳はただぼくの身体の横で震えるだけだ。
リクはある程度の距離まで近づくと、アーノルトたちのすぐ横の川岸についた船のほうを見やる。
「こちらの身内を返してもらおう」
リクの静かな声に、アーノルトが意味不明の笑顔を見せる。
「もう知らせが来たか。思った以上に行動力があるな。ユナムだけではそちらの動きを留め置くことは難しいと思ってね、保険を掛けさせてもらっただけだよ。ほら、そこの船に連れてきているはずだ」
リクの隣にカイが歩み進んで並ぶ。
二艘のうちの接岸したほうの船の中から、何人か出てくる。
「リーヴー、カーイー」
男に背後から衣服の首元を掴まれて首が詰まっているのをよそに、シチェックが身を乗り出すようにリクたちに手を振ってくる。
なにもされていない様子にほっと息をつく。
さすがのシチェックも、知らない人に連れ去られたことをわかっているのか、必死な様子でリクたちに手を伸ばすが、首元を掴む男に阻害され、前に出ることは叶わない。船の男たちも腰に剣を下げていて、いつそれがシチェックに向くかわからない。
「おまえの願いは、マンダルバから出ることか」
リクの声は感情が見えず、アーノルトはリクに視線を向けるが、慌てることのないリクにどう思っただろう。
「そうだ。ここにいては、あの優秀な管財官殿に捕らえられそうだからな」
「ならば、その二人の人質は、人質としての価値がない。他の者にしたほうがいいだろうな、おまえのためには」
「なんだと?」
リク、なに言ってるの?
アーノルトも眉を寄せている。
「そこのユナムは命を捨てる覚悟でいる。俺たちも、その決意をむげにはできん。新領主カルトーリの前で、自分が邪魔になるなら自ら首を掻き切ると言い切った男だ。おまえたちがちょっとの隙でも見せれば、いつでも命を捨てるだろう。いまおまえたちを捕らえるためにユナムが死んだとしても、お人好しなカルトーリは悲しむだろうが、俺たちにとっては仕方のないことだ。おまえたちの人質としては役立たずだな」
アーノルトはまだ船に乗ろうとはせず、リクの声に顔を歪めている。
「そこの子供も、人質として役立たずだと言えるのかな?」
「そいつはカルトーリとはなんの関係もない。俺の身内ではあるが、カルトーリにとっては赤の他人だし、知り合ってひと月も経たん。知ってるか? 今年だけで、ムトンでどれだけの子供が亡くなったか。こいつ一人が死んだところで、マンダルバにはなんの関係もないし、ムトンの子供の死者数が増えるだけだ。もっとも、おまえたちへ、俺の身内がどのような報復をするか、俺も予測がつかんがな」
他の者から見れば捨身とも言えるリクの言葉には、多分に真実が含まれている。
それを感じ取ったのだろう、アーノルトは動けなくなった。
「そいつらを殺すがいい。おまえたちも、ここで死ぬだけだ」
リクが本気で言っているのか、ぼくにはわからなかった。
でもきっと、本心だ。
リクは、死に行く命を、軽んじてはいない。
人が生きることも、死ぬことも、リクにとっては日常で、当たり前にあることで、だけどそれを取り引き材料とはしていない。
人の命を、なにかと引き換えにはできない。
「ただ、そいつらを放す気があるなら、少し猶予をやろう。その船に乗り、岸を離れるまで手出しはせん。俺の言葉を信じるも、信じないも、おまえ次第だ。盗賊を雇い、人々を襲い、手にした金品を自由に扱ってきたんだろう? 人の命を駆け引きに使うのならば、この賭けを受けるくらい簡単だろう」
アーノルトがクッと嘲り笑う。
「子供が一人前の口を。何様のつもりだ」
アーノルトはリクの言うことを信じなかったようだ。
「俺が何様、か」
アーノルトに向いているリクの顔は、ぼくからは見えない。
「そうだな。こう言えば、おまえにも分かりやすいか」
リクの声は笑っている。
「おまえが雇っていたか支配していた盗賊たちは、自分たちを名もなき盗賊団だと名乗ったが、ムトンには、そういう勢力は一つしかない。それを、俺は知っている。おまえの知っていた盗賊団が、名もなき者らではないということをな」
「それがどうしたというのだ」
アーノルトの嘲りは変わらない。わかっていて、あの盗賊らと手を結んでいたのか。
「ここにいる者たちが、おまえが認識している、名もなき者らだ」
川岸に、現れる男たちの数が増えていく。
向こう側も、こちら側も。
向こう側にはセリュフやヴィイがいる。
こちら側では、リクのやカイの背後に、エヴァンスが立っているところへ森からぼくの知らない男たちも増えていく。
「名もなき者らの頭領。俺が何様かと問うなら、そう名乗っておこう」
「ほんの子供のおまえが、名もなき者たちの頭領だと?!」
この会話で彼らに隙ができていたかどうか。
そのあとの出来事は同時に複雑に動き出した。
アーノルトが驚いたすぐあとに、サットが苦鳴をあげて手から剣を取り落とした。その腕に遠目のぼくの目には見えないなにかが森の中から放たれ命中したようだった。
うなだれていたユナムが吐き出すような鋭い声を上げながらアーノルトの腕から自分の腕を反対の手で引っ張り出し、リクのほうに懸命に走り出した。途中で突き出した岩に足を取られて膝を地に打ち込んで、新たな苦鳴をあげる。
そんなユナムを拾い上げたのは、サットが攻撃を受けたと同時に動いたカイだった。
ユナムの体を一度抱き上げると、カイはユナムをエヴァンスたちがいる後方へと空中に放り投げた。
それを見たぼくは悲鳴にならない声を喉の奥であげて、エヴァンスがなんて無茶振りと毒づきながらユナムを他の男たちと重なるように受け止めるのを見ているしかなかった。
「これで、そちらの人質は一人減ったな。賭けの勝率は、どんどん下がっていくぞ。いいのか?」
笑みを含んだ声で言うリクにアーノルトがどんな顔をしているのかは見ることができなかった。ユナムをぼくたちのいるほうへリクの仲間の一人の体格のいい男の人が抱きかかえて連れてくる。
ユナムは放り上げられ無理に受け止められた衝撃でか意識を失っていて、ぼくの近くにいた管財官補佐が近寄り、短い草地に寝かせたユナムの体を探って確認していく。
フィジもユナムの前にしゃがみ、その様子を間近で見守る。
「医療の心得があるの?」
フィジの質問に、管財官補佐は短くうなずく。
「ミリアルグ国立司法院高等学部では医学も必須科目で、医師免状は専門学部に移行しないと取れませんが、知識は医師並みにつけさせられるんでね」
慎重にユナムの骨が折れた腕辺りを手で触れて探る管財官補佐の手つきは確かに素人のものではない。部下の一人が森から適度な太さの木の枝を切り出し、他の者から布地も差し出されて一緒にユナムの腕に管財官補佐が手早く巻いていく。
「引っ張られてた肩も脱臼してるかな。意識を失っているほうが都合がいい」
フィジの声に管財官補佐が返事をして肩にも処置を施し、誰かが脱いだ上衣をうまくたたんでユナムの上半身と腕を固定していく。
「あとは任せます」
管財官補佐がフィジに声をかけ、任されたと返事をしたフィジが声を紡いで樹精魔法でユナムを癒していく。
緊張が過ぎて手に力が入り過ぎていて、それでも大きく息をついて、無事に保護されたユナムに安心する。
だけどまだ心はざわめいたままで、リクとシチェックのほうへ視線を戻す。
カイがリクのやや斜め前に立ち、リクの身を守るようにアーノルトたちとの間に立ちはだかっている。その片手に抜身の長剣。刃を下に向け、どの角度から攻撃されても対処できるような姿勢。リクは変わらず丸腰のまま。
その向こうで、アーノルトがリクを歪めた顔つきで睨みつけていた。リクはきっといつもと変わらない表情をしていたのだろうと思う。
リク。
きみは、どうして仇だろう人といつもと変わらない態度で向かっていられるの。
リクが怒ったところを、ぼくはまだ見たことがない。
だけど。
リクの孤独な心は、絶望に似た悲しみを知っている。
リクの金色の眼は、ときに強く虚空を見据えている。
ぼくの目から熱いものが勝手に流れ出して、視界が塞がってしまって邪魔で片手で乱暴に拭う。
リクを見ていると、言葉にならない色んな感情が、叫び出したいとひどくざわめく。
「まだ決心がつかないか」
リクの落ち着いた声に、アーノルトがますます顔を凶悪なものに変えていく。
アーノルトという男は、感情を表しやすい。それがかえって、この男の態度が、本心であるのか、それとも擬態であるのかの判断をつかなくさせている。
ぼくは、アーノルトを信じられない。そしてリクは、たぶん端からアーノルトを認めていない。
「時間を無駄にするのももったいないな。おまえがおまえ自身の正解を選べるようになるまで、ある子供の話でもしてやろう」
いつもはあまりしゃべらないリクが、この緊迫した場面にそぐわない冷静な声で言葉を紡いでいく。
「数年前、二人きりの親子がいた。十を過ぎたころの子供と、その母親だ」
リク?
「父親のことを、子供は母親から聞かされていたが、多くは知らなかった。知っていたのは、父親は生きてはいるが、母親とその子供と一緒に暮らすことはできないこと。だが、二人に対しての愛情を持っていること。母親が子供に言ったのはそれだけだった」
アーノルトの表情は変わらないが、リクがなんの話をしだしたのか、理解できただろうか。
「子供は母親の言うことをよくわかっていなかった。当然だろう。その父親という奴は、子供の目の前にはいないのだからな。普通の父親像など、ムトンに暮らしている子供にはありはしない。両親が揃っている家庭は逆に稀だ。そのときの子供には、そんな判断もつかないくらいに、母親と二人きりの暮らししか知らなかった」
「なにをわけのわからないことを」
アーノルトが苛立ったように声を出すが、リクは構わずに続けていく。
「母親と子供は、拠点を転々と移していた。同じところに長く留まることはなく、その地に馴染んだと思ったころにはまた場所を移した。母親は子供にはそのことについてなにも言わなかったが、子供は幼心に察していった。自分たちは、誰かに見つからないようにしていると。子供が十を過ぎたころには、ムトンのある山の上にある集落の一角で暮していた。人は少ないが、ムトンでは珍しく自生の植物が多い地域で、獣は少ないが小動物はある程度生息している穏やかな土地だった。子供は小動物狩りや、食べられそうな植物の採取に出ることができるように母親に仕込まれた。ただし、他の住民たちとは顔を合わせないようにすることを守るように言われていた。子供はいままでの生活から、母親の言うことには間違いはないだろうと守っていた」
アーノルトが口を挟めなくなったのは、リクの話すことに自分への関連性を見出したからか。
シチェックのほうを目で追うと、最初に見たときと変わらず、シチェックの衣服の首元を男が掴んでいて、近くにも幾人か岸の様子をうかがっているようだった。いつも笑顔のシチェックだけど、さすがにいまは唇をつぼめてリクのほうを見つめている。泣き出したり騒がないのはこの状況では助かる。
シチェック、そのまま何事もなくいて。
「そんな生活も、あるときに一変する。子供は、なにも知らずに狩りに出ていた。いつもよりも少し遠出をしていた。近隣のところはその時期あまり収穫ができずに、歩きの往復だけでも半日はかかるところまで行かざるをえなくなっていたからだ。子供の手では持てるものも限られる。少ない収穫を手に戻ると、見知らぬ男たちが集落のいくつかの住まいに出入りしていた。子供は警戒した。母親の言うように人から見つからないように。自分の住む家までたどり着いた子供は、男たちの気配はわかったが、母親の姿がないことに気づく。その時間には家に必ずいるはずなのに。気持ちが嫌なものに変わった子供は、その気持ちがなんなのかも理解できないまま、人に見られることも構わずに家に戻った。家に母親はいた。姿だけはな。男たちも複数いた。男たちの一人はとてもおしゃべりな奴で、尊大な態度で子供に向けていろいろなことを話した。自分たちが何者で、なにをしにきたのか。なにをしたのか。なにをこれからするのか。子供はその男の話すことを理解した。母親がいままでこういう奴から逃げていたのだと。そして、誰が、男たちにそれを命じていたのかも」
アーノルトは歪めた表情のまま、リクを睨み続けている。本来のマンダルバの男らしさを見つけられないくらいの、醜い顔で。
「この話をなぜ、俺がここでできているのか、わかるか? 子供はその場から生きて去ることができたからだ。集落にやってきた男たちの中で、おしゃべりな男に雇われたばかりの用心棒たちがいてな、その男らはある意味お節介で、母親を失ったばかりの子供を不憫に思ってその場から連れ出した。そうして、子供はいままで生き延びた。親子二人を追うことを命じていた人物は、子供もその場で死んだと思っていただろう。お節介男たちから人を通じて、計画は成功したと伝えられたし、証拠も残っていたからな。あの状況で子供が生き延びることはほぼ不可能だ。そして、おしゃべりな男が余計なおしゃべりをしなければ、子供が真実を知ることもなかった。さて、俺のおしゃべりも聞き飽きたころだろう。どうするのか、決めたか?」
アーノルトは頭の中で様々なことを考えることになっただろう。
シチェックのことなど考える余裕がないくらいに。
アーノルトはリクを見ていた。
リクはアーノルトを見ていた。
他の者たちも二人を見ていた。
カイだけが、シチェックのほうに顔を向けた。
カイの剣を持っていないほうの手が上げられ、シチェックのほうへ向けて軽く横に手首だけを返した。ぼくはなにをしてるんだろうと疑問に思っただけだった。
シチェックがやっと見せた笑顔で、両手を近くにいた男の腰に近づけそのまま横に勢いよく振り払った。
え?
シチェックの衣服をつかんでいた男が悲鳴をあげてシチェックから手を離し、シチェックは手に重そうな抜身の剣を持ったまま少しふらふらとしたあと、剣をもう一度反対側に振り払い、他の男に斬りつけると、悲鳴を上げた男に剣を生やしたままその手を離し、嬉しそうな奇鳴を発してカイのほうへ飛び出した。
シチェック! そこはまだ川!
ぼくの心の悲鳴が声にならないうちに、シチェックの幼い体が川に落下し見えなくなった。
それを見届ける前に動いたカイが持っていた剣を地に放り出し、勢いつけて川に飛び込んだ。
カイならシチェックを絶対に助けてくれる。
願いにも似た気持ちで、川を視界に入れながらリクを見る。
リクは変わらずにその場に立ったままだった。
違っていたのは、クラフと、サット。
サットは自身の剣を傷んだ手とは反対側の手で持ち、クラフは場所を動いてカイの捨てた剣を両手で持ち、前へ突き出していた。
二人の剣は、すぐ近くのリクに向けられていた。
「リク!」
自分の悲鳴だけが、その場で響いていた。
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