第23話



 石造りの館とは違い、大部分が丸太を組み上げたような建物は、入り口からして大きな建物ではない。ただ、一つの建物内に壁をあまり設けず、それを何棟か連ねていることで居住空間としては十分に広い。

 アラヴィ様の使用人の女性二人は、まず最初の棟内にぼくたち来訪者を招き入れると、武器類は持ち込まぬように依頼をした。あくまでも依頼であり、こちらはそれを飲まなくてもいいものだが、アラヴィ様への配慮ということで受け入れる。

 最初の棟は、客人や従者を一時的に留め置くところで、立派な煉瓦の暖炉や一枚板の卓席、厚めの布張り椅子などが置かれ、十人くらいは余裕で休息ができる。

 女性たちはそこにぼくたちをいったん留め、しばし休憩をと申し出てきたが、ジョーイ・ハーラット管財官補佐はそれについては断った。

「新ご領主はお忙しい。こちらへの訪問はアラヴィ様への最敬意の表れである。ご挨拶が済めば、色々な執務をこなされる御身、アラヴィ様に即刻お目通りいただく。案内せよ」

 ジョーイ・ハーラット管財官補佐の言葉は強い内容だが、彼らしい飄々とした言い回しで、女性たちに不快感は与えない声音だ。

 こちらから手の内を明かす気はないので、いま建物内にぼくと共に入った、ジョーイ・ハーラット管財官補佐とフィジ、もちろんリクも、いまはまったく普通の態度で、これから危険人物と会うなんて微塵も感じさせない。やっと緊張をしてきて内心焦っているのはぼくだけ。

 女性たちはしばし態度を見せなかったが、揃って一礼したあと、立ったままでいるぼくたちに改めて目線を寄越した。

 女性の一人が口を開く。

「奥の間にアラヴィさまがおいででございますが、いったんお声をかけてまいります。少々お待ちくださいませ」

「アーノルト様もお越しであろう」

 管財官補佐は、ある種自己演出のできる人なので、演技も上手い。警戒心のかけらも表情や声には乗せない。

「はい。お連れ様と共に、早朝よりお越しになりました。共にお待ちです」

 アーノルト氏の行動は、自身の宣言通り、ユナムにも昨夜聞いた通りのものだ。

 女性たちは、扉で繋がれた棟の奥へぼくたちを案内していく。

 男の使用人の姿はいまのところ見られない。事前に聞いた話では、彼女らは武芸の心得があり、ここにいる女性たちは皆そういう万能な者たちだ。女性の身でも男性に引けを取らないくらいに強い者でないと、領主やその家族の世話はできないことになっている。

 マンダルバの女性は、いざとなれば女性でも戦に参加できる。そういう教育の環境が整っていて、女性だから男性の庇護の元にいなければならないという女性蔑視は少ない。その分、男性は子孫繁栄のため第二夫人や妾の存在を認められ、マンダルバの女性は、自己をしっかりと持った活発な人と、男性の庇護を受ける人とがはっきりと分かりやすいらしい。

 アラヴィ様は、大人しい方だといろんな人から聞いている。マンダルバの女性には珍しい、気持ちの細い方とも。

 彼女を傷つけることは本意ではない。

 ぼくは、いままで以上に言葉に気をつけないといけない。

 案内する女性のうち一人がアラヴィ様の待つ部屋に先に入り、一度木扉を閉める。

 ほとんど間を置かずに姿を表した女性は、どうぞと、開いたままの扉にぼくたちを促した。

 先にジョーイ・ハーラット管財官補佐が中に入り、少し立ち止まり中の観察をしているようで、半身だけこちらを向いて、ぼくたちに視線を寄越した。

 目つきが、強い。

 ぼくは息を飲み込んで、ぼくの後ろに立つリクを振り向きたい衝動を抑える。

 ゆっくりうなずく管財官補佐を信じ、その部屋に足を踏み入れる。

 あまりものを置かない質素な様子の部屋の中は、大きめの暖炉など、待合のための部屋とあまり変わらないものがまず目に入るが、中にいる人物たちを見回す前に見えてしまった人物に、驚きの表情を抑えるという自分の意思を総動員することになった。

 視界のうちに暖炉横の椅子に座るアーノルトが映っていたけど、その隣の椅子に座るユナムに目がいかないようにするのは、かえって怪しまれないかと、頭の中が大混乱だった。


 ユナムはぼくに柔らかな笑みを見せると、立ち上がって礼をほどこす。

「カルトーリ様。先にアラヴィ様にご挨拶させていただいておりました。ご対面の場に居合わせることになってしまい、大変申し訳ございません」

 ユナムがちらりと視線を向ける先に、小柄な女性が椅子に座っていた。

 少し緩やかな肩を越えるくらいの髪は束ねず、使用人の女性たちが丁寧に梳いたものかふわりと整えられていた。衣服はゆったりとした体の線を出さないもので、それでも上流の女性だと一目でわかる仕立物。佇まいは淑やか。顔表や衣服から見える手の肉付きで、線の細い女性とわかる。

 ひとことで言えば、美女。

 あごは細く、唇は薄く、鼻はスッと小ぶりに高く、目は大きめ、眉は適度に整えられているがマンダルバの女性らしくしっかりとしている。

 マンダルバの女性の象徴のような人だ。

 ただ、少し痩せた頰と無表情さが、彼女から健康さを損なわせている。

 ユナムのことは気にかかりながらも、その女性に向けて立ちながら礼を取る。

「カルトーリと申します。アラヴィ様にお目にかかれたことを、ありがたく思います」

 丁寧に、言葉を放つ。

 顔を上げると、彼女は何度か瞬き、ゆるりと立ち上がった。

「前ご領主であられた、ザグゼスタ様の妻、アラヴィです。このようなところまでお越しいただき、申し訳なく思います。カルトーリ様、マンダルバ領主ご就任、おめでとうございます」

 女性らしい礼をしたアラヴィ様に、いまだ腰を上げないアーノルトが姉に険しい顔を見せる。

「姉上。姉上がそのような礼を取らずとも」

「アーノルト」

 顔を上げたアラヴィ様の眼には、それなりに意思の光がある。

「カルトーリ様は、このマンダルバでは、もうわたくしよりも上の立場のお方なのです。失礼は許されません」

 ゆっくりと、静かな声で話しているけど、言葉にはちゃんと力があった。

 この人が、気持ちの細いと言われていた方?

 アーノルトが、少し動揺しているように見える。

 視界の端に映る管財官補佐も、少し表情を変えたかもしれない。

 渋々というのが丸わかりに立ち上がるアーノルトの表情が、気骨な姉に従うやんちゃな弟くらいに見えるのが不思議だった。

「弟が失礼をいたしました。よろしければ、どうぞこちらへ。お連れの皆様も、体を楽になさって」

 アラヴィ様の近くに用意されていた個椅子のほうへ指し示されたことに従い、その席に腰を下ろすと、背後でもフィジとリクが離れたところにある椅子に座る気配がした。管財官補佐は立ったまま、ぼくやアラヴィ様たちとの間くらいにいて、いつもの飄々とした表情ながら目を配っている。

 座り直したアラヴィ様は、ぼくを真っ直ぐに見つめてくる。

 ぼくを、拒絶も、受け入れもしていない、心を閉ざしたような眼。

 それでも、もっとぼくに対して反応があるかと思っていただけに、彼女の言動には想定外なことばかりだった。

 ユナムから事前に彼もこの場に来るようなことを聞かされていなかったが、そのことを考えている暇がない。

「昨日は、そちらに行けずに申し訳ございませんでした。いまだ、ザグゼスタ様との思い出の強く残るあの館に、あの方が亡くなった場所に、足を踏み入れる勇気が出ないのです。お許しください」

 まさかカルトーリに頭を下げられるような方だとは微塵も考えてなかった。

「いえっ、あの、こちらこそ、ぼくが領主になってしまって、あの、アラヴィ様が、どのように思われるかと、心苦しくて、いろいろと考えてしまって」

 頭が混乱しているのはこの部屋に入ってからずっとだけど、どうにもこうにも頭の中がまとまらないまま話をしてしまっている。

 どうしようどうしようと、誰にも頼れずに思ったままをそのまま口にしてしまう。

「アラヴィ様はどのような方だろうとか、怒っておられるんじゃないかとか、でもとてもお綺麗な方でびっくりしてしまって、なに言ってるんだろ」

 恥ずかしくなって、うつむくと、くすりと笑い声がして顔を上げる。

 アラヴィ様が可笑しそうに笑っていた。

 美女が笑うと、場が一気に華やぐ。

「素直な方で、安堵いたしました。初めてお会いしたときの、あの方のよう。ザグゼスタ様とお会いしたのは、あの方がまだ十の頃。私が十二ほどでしたかしら。背丈もいまのあなたほどの、可愛らしい少年でした」

 幼き日のことを思い出しているのか、くすくすと笑いながらアラヴィ様は語った。

 ザグゼスタ様よりも、アラヴィ様のほうがお姉さんだったのか。

 えーと、四十四歳にしては、お若い。

「あのころは、まだお互いに結婚する相手だなんて思ってもいませんでした。シスレイン様のことは聞いておられるかしら? ザグゼスタ様のお母上、当時のご領主であられたシスレイン様のお誕生祝いの席でした。ええ、いまでもよく思い出せます。ザグゼスタ様は、わたくしにとってはとても近寄りがたいところにおいでのお方。我が家はマンダルバではそれなりの家柄でしたから、父がその祝いの席に招かれ、私たち姉弟も、同年代のザグゼスタ様のお話相手にと、きっと当時は願われて一緒に呼ばれたのだと思います。この弟はまだ幼かったので勝手に歩き回っておりましたが、わたくしは内気なもので、人にはあまり近づくことができずに、一人で会場の片隅にいました。そこに」

 またくすくすとアラヴィ様が楽しそうに笑う。

「やんちゃな一人の男の子が、わたくしにぶつかってきました。それで、男の子が手に持っていた食べ物が、わたくしが着飾った衣装にべったりと。男の子が慌てて謝罪して、自分の衣服で衣装を拭きだして、一緒に汚れがひどくなる始末。おかしなことになったと、お互いに顔を見合わせて、直後に笑い合いました」

 ふっと息をつき、アラヴィ様は儚げにほほえむ。

「わたくしにとって、その男の子との思い出は、とても素敵なものでした。あの方は、幾つになられても、どこか少年のようで、あたたかい人。そして、妻として、わたくしを愛してくださいました。女として愛されたかったと、思った時期もありましたが、ザグゼスタ様の妻であることだけで、わたくしは十分に幸せでした。領主の妻として至らなかったことを、申し訳なく思うことのほうが多かった」

 アラヴィ様は思い出の中にあった表情から、現実に戻ったように、ぼくを薄い笑みで見つめる。

「カルトーリ様がここにお越しになられたのは、わたくしに領主の妻でいることを降りるようにお申し出になられるためでしょう。わたくしは、現時をもって、領主の妻の権利をカルトーリ様に返上し、一人の領民として、こののちのときを過ごしていくことをお約束いたします」

「姉上!」

 アーノルトが立ち上がって、姉に詰め寄ろうとするのをかろうじて抑えたようだった。

 アラヴィ様は、ほほえんで弟を見つめる。

「あなたが、わたくしのためと、いろいろと考えてくれているのは知っています。しかし、わたくしは、もう、疲れたの。あなたが何度も、ユナムと会わせてくれたり、いまも、わたくしの養子にと言ってくれましたが」

 そういうことだったのか。

「ザグゼスタ様のお子であられるカルトーリ様の妨げになるようなことは、わたくしはできません。わたくしには、もうなんの権限も必要ない。ただザグゼスタ様の思い出があれば、それだけで、他はなにもいらない。ごめんなさいね、ユナム」

 ユナムはいいえと、小さな声で返す。

 アーノルトは音を立てて椅子に座り、不機嫌な顔をあらためようとはしなかった。

 アラヴィ様は、ザグゼスタ様を、心から愛していた。

 いまも、他の女性を愛した夫を想っている。

 この人の愛は、けっして報われない。

 愛する人の側にいたくても、その願いが叶うことがなかった人。

 思い出だけで生きていくなんて。

 気づけばほろりと雫がこぼれていて、慌てて頰のそれを拭う。

「同情してくれたのね。ありがとう」

 ほほえむアラヴィ様の声に、違うとは言えなかった。

 自分ならばと、考えてしまった結果だと。

 でもそれも、同情っていうのか。

「管財官補佐殿」

 アラヴィ様がジョーイ・ハーラット管財官補佐に目を向ける。

「カルトーリ様のわたくしとの用事は、これでお済みでしょう?」

 管財官補佐は少し躊躇したが、はいと、素直に答えた。

「カルトーリ様にとって、わたくしと長くいることは好ましくないでしょう。あなた方がこの方を守りたいと願っているのなら」

 そのことに対してさすがに管財官補佐はなにも言えない。

「カルトーリ様、ひとつだけ、わたくしからお願い事があるのですが、お聞き届けいただけると嬉しいです」

「なんでしょうか」

 控えめで、亡き夫を愛し続けるこの人の願いは、叶えてあげたいと思う。

「この住まいを、これからも使わせていただきたいのです。ここには、一度だけ、ザグゼスタ様からお連れいただいたことがありました。結婚したてのころに、数日間だけでしたが、ほとんどを二人きりで過ごすことができた。ここでならば、わたくしが大切だったものを失ってしまったことも、なにも考えずに、過ごしていられるのです。どうか、お願いいたします」

 泣きそうな顔で笑う女性の願いを、叶えなければならない。

「わかりました。ぼくの権限のうちからお約束できるなら、これからもここにお住まいください。いいでしょうか、管財官補佐」

 管財官補佐はうなずいた。

「承知いたしました。カルトーリ様からアラヴィ様への譲渡物として、書類を整えさせていただきます」

「ありがとう。さあ、もうおゆきください。ここにいてはいけません」

 ぼくは立ち上がり、アラヴィ様に深く礼を取る。

「長らく、マンダルバのために、ありがとうございました」

 心から出た言葉だった。

 顔を上げ、一目だけ見るアラヴィ様の表情は柔らかだった。

 それにすぐに背を向け、歩き出す。

 アラヴィ様がそれを願っているから。

 過去に生きる人と、これからを生きる人、共にいてはいけないと。


 アラヴィ様の終の住処より昼の日差しが溢れる外へ出て、長く息を吐いた。

 胸の奥に、いろんな感情が湧き上がってきて、きゅっと拳を握る。

 ザグゼスタ様と、アラヴィ様との間には、二人なりの愛があったに違いない。

 性質の違う二人の想いは、交わることなく、やがてザグゼスタ様には唯一の人が現れた。

 誰が悪いと、軽々しくは言えない。

 だけど。

 ぽんと、頭を背後から手を置かれる。

 リク。

 ぼくは、アラヴィ様に恨まれることを、受け止めるつもりだった。

 あの方が、それで気が済むのならと。

 アラヴィ様のザグゼスタ様への深い愛の前では、そんな浅はかな考えは、愛とはなにかも知らない子供の自己満足に過ぎなかった。

 隣に立ったリクを見上げて、口を開こうとしたとき。

「お待ちください、ご領主様」

 アーノルトの堂々たる声がぼくたちの足を止めさせた。




 鼓動が嫌な音を立てて跳ね、リクの手がぼくの背中で暖かく留まる。

 ゆっくりと振り向くと、マンダルバ人の男らしさを体現したような容姿のアーノルトがぼくを直線的に見ていた。

 小さく呼吸をしてから、軽く頭を下げる。

「先程は、ろくに挨拶をできずに、失礼しましたアーノルト殿」

 幼くても、ぼくはマンダルバの領主。

 態度に誤りがないよう、気を使っていかないといけなかった。

「こちらこそ、いまだ領主の義弟という立場でものを申してしまう。お許しください」

 しおらし気に話すアーノルトの顔は笑っている。

 その後ろに、ユナムが曖昧な表情で立っていた。

 呼び止められた意図が読めずに、アーノルトの言葉を待つ。

 ぼくが行動することに追従する仔細は、みんなに任せてある。

 大まかに決められたことと、絶対にするなと言われていること以外は、ぼくの思う通りに行動するように言われていた。

「あなた様とお話がしたいのです。いままでの俺の行動にご不満はお持ちでしょうが、前領主義弟だった男に、少し散歩に付き合ってやっていただけませんか、カルトーリ様」

 ジョーイ・ハーラット管財官補佐の眼が受けるなと言っているように思えたが、ぼくは断ってはいけないと感じていた。

「構いません。今日はいい陽気になりました。森を歩くにはちょうどいいでしょう」

 ぼくはアーノルトに背を向けて歩き始めた。リクも肩が触れ合うような距離で隣を歩いてくれる。

 アーノルトは足音で追ってきていることがわかる。

 アラヴィ様の別荘の横手には小さめの小屋と厩舎があって、そこにはここに訪れる者の従者たちが馬の世話をしながら過ごす場所になっていた。そこから何人かが馬車を操作しこちらへやってくる。建物からも何人かこちらへ向かってくる。アーノルト陣営の者たちだった。

 アーノルトは活発な男で、単身でどこにでも行っていると話を聞いていたが、ここに来るのも最低限の共のものだったようだ。

 ユナムの関係者は、いつもの三人。年配の男性コーグ、屈強な護衛人らしいサット、ユナムより年上の友人の少年クラフ。

 彼らはユナムの背後につくと、アーノルトの後ろについていくユナムの背後で共に歩き始めた。

 管財官補佐は、アーノルトとぼくが接触しないような間を歩いていく。

 アーノルトが急に声を立てて含み笑いをし出して、横目でそちらを見る。

「いや、失礼。クイン・グレッド管財官も人が悪いと思ってね。ああ、申し訳ない、砕けた口調に戻ったのを見逃してくれるとありがたい。あなたが新しいご領主であると頭ではわかっていても、年下の偉い方にあまり接したことがない田舎者でね、なかなか染み付いたものはあらたまらないようだ」

「気にしません」

 アーノルトになにを言えばいいのかわからない。

 ただ言葉だけを返すくらいしかできない。

 アーノルトはぼくを見てうなずいた。

「あなたとカルトーリ候補としてスーザでお会いしたときは、ユナムが領主となると考えていた。管財官主導で義兄上のお子の捜索が行われたとき、それまでも独自にルマ殿の捜索をしていたときに見出していたユナムを候補にあげる機会だと確信していた。ユナムこそが本物であると。他の者が出てきたとしても、すぐに正体は暴かれる、そう信じていた」

 この人の口は、どのようにできているのだろう。よくも流暢に作り話ができるものと、感心すればいいのか。

「残された候補者三人は、そちらと、もう一人がいましたな。あれは管財官の調べでカルトーリ様ではないと判明したからと、結局はそちらのほうにいつの間にか取り込まれていて、あなた様も知らぬ間に管財官と密接に関わっておられるようだ。いつから、クイン・グレッド管財官と結託しておられたのか?」

 言葉に、大きな尖を感じて、アーノルトに視線を向けずにはいられなかった。

「なにを、おっしゃりたいんですか」

「そちらに、そのように術者フィジ殿と、ああ、おいでになったな、キスリング殿もついておられる。あの場で、初めて顔を合わせたものだと思っていたが、彼らとも、そのように共に行動している。ムトンで一人生活していた少年が、短期間にそれだけの人物たちを味方に引き入れたと、考える者がどれだけいると思うか? すべて管財官殿の思惑通りと、俺も、他の者も考えたとしても、不思議はあるまい?」

 見ようによっては、その通りかもしれない。

 ぼくだって、いまだになんだか現実のものとは思えないくらいだから。

「アーノルト殿。それはクイン・グレッドに対する嫌味ですかな」

 ジョーイ・ハーラット管財官補佐が笑い声で応戦する。内心はどう思っているだろう。

 キースはぼくたちの先を行くフィジの横に並び、フィジがキースの腕に自分の腕を絡めて二人きりの散歩のように振舞っている。キースの背の長い皮袋が目に入っていなければ、ぼくにもそう思えたかもしれない。

 男たちのそれぞれの腰には鞘に収められた剣が下げられている。ユナムの従者、サットやクラフでさえも。

 いつ、どんな動きが出るのかわからない。

 どんな刺激が、劇薬になるのかさえ読めない。

「それだけの才覚が、あの男にあると、そういう意味だよ。格別嫌味を言っているつもりはない。それが事実だろう?」

「まあ、そうですな。それができる男ではあります。しかし」

「いまさら、あの男の陰謀を暴こうとしたところで、俺ごときが敵う相手ではないな。認めているさ。マンダルバ管財官の有能さは」

 管財官補佐の言葉を遮り、そのように話すアーノルトに、少し彼の意図が見えてきた気がした。

「だが、いいのですかな? あの男がこのマンダルバを自由にしていくのを見ていかれるということで。あなたがいかに動きたくとも、あの男がやんわりと制限していくでしょうな。あなたにとって、マンダルバ領主とは名ばかりの、生きた人形として動かされていく人生となるのを、許していかれるのですかな」

 ぼくに、疑念を抱かせたいんだ。

 誰を信じればいのか。

 誰をも疑い、誰をも信じられないように。

 それもひとつの戦術なんだろう。

 だけど。

「はい。それこそが、マンダルバ領主として、ぼくが立つ意味でしょうから」

 心からの笑顔を見せて言うこの言葉は、この思いは、この男に伝わらなくとも構わない。

 アーノルトはぼくの視線の先で、大きく目を見開いていた。

 本当に、ぼくがこう言うなんて思っていなかったと言う顔だった。

 横で吹き出し笑う声がする。

 なんで爆笑するのリク。

 フィジ、肩が揺れてます。

「う、ひ、キース、おなか痛い」

 恋人の腕に掴まって、とうとうフィジが声を出した。

「うん、我慢しなくていいんじゃないかな」

 キース。

 直後に爆笑する美女の後ろ姿を見ていても、ぼくはちっとも楽しくないんですけど。

「お前たち」

 なにを思ったのか、アーノルトが表情を険しくする。

「あー、けっして、アーノルト殿を馬鹿にしたつもりはないんですよこの人たちは。いやあ、新ご領主のいいところは、天然な素直さでして。さきほどのお言葉はカルトーリ様の御本心ですよ」

 笑いながら言っても説得力はありません管財官補佐。

「ぼくは、この通り、ただの子供です。なにもできません。管財官のような知略も、補佐殿のような有能な補佐力も、キースのような戦闘力も、フィジのような魔法力も、リクのような統率力も、ぼくは、なに一つ持ってない。ただ、守りたいものはある。守りたい人がいる。それさえできるのなら、ぼくはマンダルバ領主という人形でいい。操る人が優れているのなら、ぼくに意思はむしろ必要ない。ぼくがいまここにいることに意味があるのだとしたら、彼らのために、ぼくは喜んで人形になります」

 無表情になっていたアーノルトは、しばらくすると徐々に笑い出し始めた。

「ははっ、堂々と、そのように宣言できる者が、ただの子供だと? ふはっ、久し振りにこれだけ笑ったわ」

 まだ喉の奥でくつくつと笑うアーノルトに、ぼくは笑えなかった。

 アラヴィ様の別荘から、だいぶ離れてきていた。

 森の中に潜む味方たちは、この様子をどこからか見ているはずだが、様子をうかがっている段階だろう。

「あなたは、よいご領主になるだろうな。いまマンダルバにいる管財官、管財官補佐、共に有能な者たちだ。だが、ただの人形が、すべての権力を保有することには、マンダルバ領民の一人として異議を唱える」

 アーノルトの気配が硬く変わる。

「マンダルバの領主制。これを享受している者がほとんどだが、疑問に思っている者も、このマンダルバにいることはご存知だったかな。幾度か有志の奏上があったはずだ。あなたも目にしていたはずだが、管財官補佐」

「それは」

「まだ新ご領主に申し上げていなかったか? ああまだ就任して二日目だったな。いや、マンダルバの問題ごとを新ご領主をお見せしたくなかっただけか? 民主制にするように嘆願書も出ていたはずだが。義兄上は握りつぶされたのだったかな?」

「マンダルバ領主が一部の者の嘆願書に従うことはないと、あなたもご存知のはずだ」

 管財官補佐が認めながらも、アーノルトを牽制する。

「他の地ならば独裁と言われるようなことも、マンダルバなら領主の意向である、その一言で済ませられてしまう。そんな体制を、憂える者もマンダルバにはいる。その声を無視してきたのだろう? なにもできないと?」

 アーノルトの言葉は、正当なようで、どこか屁理屈のようにも聞こえる。

 どこまで本気で言っているのか。

「不満があるなら、マンダルバから出て行けばいい、そう思っているのだろう?異端者は異端者だけで、どこかで理想の邦を興せばいいと?ああそうだな、隣に理想の場所があったか。ムトンにでも住めばいいのかもしれないな」

 笑いながら言うアーノルトの声に、気分が悪くなってくる。

 足が止まっていた。

 心が軋んでくる。

 なにが本当で、なにが嘘か。

 真っ当なものはどれか、歪んでいるものはなにか。

 どれも彼自身かもしれない。

 でも、どこかがおかしい。

 息が、苦しい。

「そこまでだ」

 リクの、清涼な声。

「あんたの屁理屈に新領主が付き合っている暇はない。言いたいことがそんなことなら、話は終わりだ」

 リクはぼくの背中を支えて馬車が後続してきているほうへ戻ろうとする。

「ご領主には耳の痛い話だろうからな」

 アーノルトの嫌味にも構わずにリクはぼくを歩かせることをやめない。

「領民一人の声、一人の人間の命も、新領主様にはちっぽけなものらしい。領主にならなくてよかったのかもなユナム」

 アーノルトの声に、足が止まる。

 リクの背中にかかる手の力が増すけど、動けない。

 振り返ると、ユナムの近くにアーノルトが立っている。

 誰も、なんの動きもしていない。

 ユナムの近くにコーグやサット、クラフもすぐそばにいる。

 みんなこちらを見ているだけ。

「ナオ。戻れ」

 リクがそばで鋭く囁く。

 リク。

 だめだ。

 戻れない。

 ごめん。

 リクに、俺の言うことは絶対にきけと、言われていたのに。

 だって、ユナムが。

「昨夜は、どこに遊びに行っていた? ユナム。人の話を聞かない新ご領主のところだなんて、まさか言わないよな」

 ユナムの腕を、アーノルトが掴む。

 ユナムが表情をなくしていた。

「お前の話を聞いてくださったのか? どんな話をした。管財官になれるよう頑張ります、か? 」

 ユナムの眼がぼくを真っ直ぐに射る。

 その口元が音もなく動いている。

 逃げて、と。

「それとも、カルトーリ候補となったときのことかな。お前がカルトーリだと信じていたが、それは俺の調査違いだったみたいだな。悪かった。巻き込んでしまって。それを愚痴ってでもいたのかな。それなら俺に直接言ってくれればいいものを。お前に責められても仕方がない。お前にとってはとんだ重圧だったろう。管財官となれと俺が願ったから、領主になるよりも苦労するかもしれないしな。もう解放されたいなら、それでも構わないぞ」

 どういう意味で言っている。

 腕を掴まれる痛みに耐えているのか、ユナムの顔が痛ましく歪んでくる。

「アーノルト様!」

 動いたのはコーグだった。

 ユナムの顔が歪んできたことを見て、耐えられなくなったのだろう。やめさせようとアーノルトに近寄ろうとする。

 何人かが同時に動いた。

 大柄なサットが自身の剣を抜いてコーグとユナムの間に遮るように突き出し、クラフもコーグを庇うようにコーグの前方に体ごと体当たりする。

 こちらが思っていたように、サットはアーノルト側の者だった。

 ユナムに手が届かなかったコーグはなにをするだろうと、彼を見ると。

 胸から剣を突き立てられ、コーグは虚ろな目で体が斜めに傾いでいく。

 ぼくの喉の奥で悲鳴があがる。

 リクに肩を抱かれて引っ張られようとするのに体が抵抗を起こす。

 顔に返り血を浴びて振り返ったのは、ユナムの友人クラフだった。

「コーグ! コーグさん!」

 ユナムが思わずといった声でコーグに呼びかけるが、声もあげずに地に伏せたコーグはもう動くことはなかった。

 彼に駆け寄ろうとしても、前面にはサットが邪魔をし、ユナムの腕を強くアーノルトが掴んで離さない。

「ほら、俺の言うことをきかない奴は、そんなふうになってしまうんだ。なぜ、俺の言う通りにしないんだ? ユナム。お前を領主にすることはできなかったが、管財官にはなれたかもしれない。コーグにも、お前を支えてもらおうと思っていたのに、俺を欺くなんて愚かなことをした。ああ、申し訳ない、新ご領主。内輪の揉め事をお見せしてしまった。お見苦しいところを。ユナムには、躾をしてやらねばなりません。親の言うことはよく聞くようにと」

 吐き気がしてくる。

 淡い褐色肌のはずのユナムの顔色が目に見えて悪い。

 いまにも崩れ落ちそうなところを、かろうじて足を地に踏みしめている。

「リ、ク」

 どうすればいい?

 ユナムを、見捨てることなんて、ぼくにはできない。

 できない!

 少し離れたところにいるフィジやキース、ジョーイ・ハーラット管財官補佐に目をやり、動きを待つように願いながら目を合わせる。

 返事はないけど、強い目で動きを止めてくれている。

 リクは相変わらずぼくを馬車まで下げようとしている。

 それでも、無理やりには動かそうとはしてない。ぼくの意思を尊重してくれてる。

 だけど、きっと長くは保たない。

 ぼくがどう言おうと、ぼくの身を守ることを第一に、みんなが動くことになる。

「賢明ですな。動かないほうがよろしい。親子喧嘩に首を突っ込んでもよいことはありませんぞ。まあ、ユナムへの折檻が過ぎてしまったとしても、向こうには姉上がおられるしなあ。俺の癇癪が姉上にも及ばなければいいが」

 この男は、なにを言っている?

「いまごろ、侍女たちが出すお茶を飲まれて、ぐっすりとお休みだろうから、ここでの声は聞こえておられないのが幸いだな。こんな見苦しい親子喧嘩をあなた方が抑えようとして失敗して姉上に被害が及ぶとしても、侍女たちも姉上を身を呈して守ってくれるだろうから、安心して喧嘩ができるってもんだなあ、ユナム」

 怖い。

 この男の言うことが、なに一つ信じられない。

「カルトーリ様。すみません。あなたがご領主として活躍され、俺が管財官としてお支えする、そんな夢を一瞬でも見てしまいました。許されるはずがないものを。こんな俺など、お捨て置きください。もともと、生まれるべきではなかった俺です」

 諦めたようにユナムが笑った。

「だめだっ!」

 ユナムがサットが向けている剣に向かって首を突きつけようとするのを、ぼくの声の前にアーノルトがユナムの腕を引いて阻止する。

 バキッとユナムの腕のどこかが折れる音が聞こえて直後からユナムが強い声をあげて呻く。腕を掴まれたまま崩れ落ちるユナムが断続的に苦鳴をあげ続ける。

 痛々しくて聞いていられない。

 フィジやキースたちが彼らを攻撃するのはきっと簡単で、一瞬で勝負はつく。

 それでも動かないのは、ぼくがユナムを助けたいと知っているからだ。

「だめじゃないか。動くといいことがないと言っただろう? 父の言うことをききなさい」

 苦しむユナムに優しく囁くアーノルトが、得体の知れない化け物に思えてくる。

 顔が地に近くなって、倒れているコーグが目に入ったのか、ユナムが顔を歪めながら涙を流す。

「クラフ、クラフ!コーグさんに、よくしてもらったじゃないか、なんで!どうして!?」

 悲痛なユナムの声に、クラフが冷えた面差しを向ける。

 アーノルトが何かを思い出したような顔で、口を開く。

「ああそうだったユナム。俺にはマンダルバでは妻がいて、彼女の間に二人の子もいるが、それはお前も知っていたな。お前には言ってなかったが、俺には他にも大切な人がいてな。マンダルバの人ではなかったから、領外にいてもらっている。その人を愛しているから、子供も生まれたんだ。クラフ、弟に正式に挨拶なさい」

 この男は、おかしい。

 どうして普通の顔で、いや、笑顔で。

「ユナム。俺を兄だと思ってと、言ったことがあったな。あれは心からの言葉だった。それを言いながら、お前が父の言うことをきけるように、素直な子になるように願った。なぜ父に逆らった。父のいうことを聞いていれば、生きていくことはできた。それ以上を願えば」

 無表情に言う初めて聞くクラフの声は、淡々として、物事に執着がないような、無機質な声。

「そうだよ。過ぎた願いは、その心に灯すべきじゃない。さあ、そろそろ行こうか。船も到着するころだろう」

 森の中には、マンダルバを横断する広めの川が流れている。

 そこから海へ脱出する気か。

「すぐその近くから、川への獣道がある。そこから川に渡って、船に乗り、どこかいいところに家族で旅行に行こうと思っているんですよ。新ご領主、あなたが賢いお方なら、俺たちが新天地へ赴くのを邪魔なさらないほうがいい。俺の癇癪が届く範囲は、意外と広いんですからな」

 ユナムの体を引きずるように歩き出すアーノルトは、キースのすぐ近くを通るのになんの躊躇も見せない。

 ユナムの首元には常にサットの剣が突きつけられていて、アーノルトの動きを誰か阻止するだけでその剣先はユナムの首を間違いなく斬る。

 涙で濡れるユナムの眼が、ぼくに自分を殺せと訴えてくる。

 アーノルトの余裕は、ぼくがそれを絶対にできないとわかっているからだ。

 ぼくは、ユナムを諦めないといけないのか?

 それで彼も救われると?

 腹も喉も胸もこんなに熱くなって、アーノルトを許せないと全身が叫んでいるのに。

 ユナムを絶対に死なせたくないと、なぜぼくになんの力もないのかと、悔しくて仕方がないのに!


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