第22話
「アーノルトがこれほどの悪党だったとはね。あたしの見る目がないのはどうにかならないのかな」
みんなを入室させ、ユナムの来訪の理由が管財官から語られ、フィジが嘆息しながらぼやいた。
皆は部屋の中でそれぞれの場所に立ち、椅子に座っているのは、ぼくとユナム。
ぼくの椅子の隣に、ユナムの椅子が並べられていた。
ぼくが、ひざまづいた彼の手を取って立たせたときに、彼の手を離さなかったから。
なにか話そうとすると胸と喉が詰まって言葉にならないし、完全に困惑の表情を見せているユナムを見ても、手を離すことができなかった。
リクは早々にぼくにあきれて、そこで二人おとなしく座ってろ、とユナムの椅子を持って来させてそこにユナムを押し込んだ。ユナムは本当に戸惑っていたけど、だって仕方ないじゃない、手が離れないんだから。
「フィジは人がいいから」
キースが暖炉近くの壁に背中を預けて傍観の姿勢をしていたけど、和やかなその言葉を信じる人はいない。聞いた途端に男たちが胡散臭いものを見るような目でフィジを見た。
フィジはぼくの横に立ち、ぼくの肩に片手を置いてくれていた。
リクは腕を組んで前を見据えている。
なにかを見ているでもない、ただ視線を前方に飛ばしているだけ。
この表情は、見たことがある。
そうだ。
白雉で、初めてアーノルトの名前を聞いたときだ。
クイン・グレッド管財官は、自身の父のことも共に話し、ここにいる皆とアーノルトに関する情報を共有する。
「私の父、ユナムの身内以外に、あの男が関わり、命を落とした者をあげるなら、他にもいる」
管財官の低い声に、ああ、と、セリュフが聞こえないくらいに低く掠れた声を出した。
何人かの目が、ぼくに向いた。
うん。
たぶんそうじゃないかと、思っていた。
ぼくは眼を伏せる。
見てしまいそうだったから。
「カルトーリ様の母上、ルマ様」
管財官なりに気を使ったようで、ひそめたような声音だった。
ユナムが、ぼくの手を強く握ってきた。
ぼくはそれを代わりに受け取った。
眼をつむっていても、目が熱くなって、零れそうになって、ぎゅっとまぶたに力を込める。
奥歯を噛み締めて、ぼくが泣いちゃいけないと自分に言い聞かせる。
きっと他の人には、ぼくが母親を思っているように見えただろう。
本当は違うのに。
ぼくは、本当のカルトーリを想っているだけ。
前を見据えて立つ人を。
「彼女がいる一帯を襲ったという盗賊」
セリュフが言葉を続ける。
「アーノルトの手のものだろう。いつからそういう輩と手を組んでいたのかは知らんが、彼女の行方を独自に追いかけ始めた時点で、野心は持ってはいたんだろう。思った以上に、手広い。どれだけ奴が自覚しているか、その悪業を。明日は、相当に警戒をしなければならんだろう。中止にはできんのか?」
何度か瞬いて、水分を散らして、そうしているとフィジが零れたものを指で拭ってくれた。ちょっと恥ずかしくなってきた。もう、泣かない。
セリュフの声を、エヴァンスが顔をしかめて聞いていた。珍しく不機嫌そうな顔。ル・イースは相変わらず。
ヴィイは腕を組んで無表情だった。静かな面持ちでセリュフとクイン・グレッド管財官の言葉を聞いている。
でも、目が、怖いくらいに据わっている。
リクみたいな目。
シン・レは、気遣わしげな眼をぼくとユナムに時折向けてくれていた。用向きがあればいつでも動ける扉近くで。
ジョーイ・ハーラット管財官補佐が口を開く。
「一度きり。短い時間であっても構わない。カルトーリ様に、アラヴィ様に役目を果たしたと伝えていただく、それだけはどうしても必要だ」
苦々しい表情の管財官補佐は、言っていることと表情があべこべだ。
「蜘蛛の糸に自ら絡んでいく羽虫よりもひどいだろうが」
ハッとセリュフは皮肉に笑ってみせる。
「例えがひどい」
沈黙していたヴィイが嘆息しながら言った。
「警備を強化すればいいだけの話だろうが。あっちがどんな手を使ってこようが、こちらはカルトーリ様の身さえ安全なら」
「それはだめ」
ヴィイの声を遮った。
それは、だめだ。
皆の目が一斉にこちらに来る。
「ぼくだけ逃せばなんて、思わないで」
みんな一斉に盛大な溜め息をつく。
「こういう子だった」
エヴァンスが額を叩きながら下を向く。
「守り甲斐があるようなないような」
ヴィイも上を向く。
リクの表情は変わらない。
みんなカルトーリであるぼくを守ることに重きを置いているのはわかる。
だけど、それだけじゃ、カルトーリとして、ぼくはきっとうまく動けない。
「ここにいる奴らを、信じろ」
リクが、ぼくを見ていた。
「おまえが迷えば、皆も迷う。誰かが倒れても、おまえがしっかりとしていれば、誰かが活路を見出す」
迷いのない金色の瞳。
うん。
「わかった」
みんなを、信じる。
「もうなにも言わないから。よろしくお願いします」
隣のユナムを見る。
彼もぼくを真っ直ぐに見てくれた。視界の端にユナムの後ろにいるコーグ氏の心配げな顔が映る。
「ユナムも、みんなを信じて。ぼくの、大切な人たちなんだ。そして、強い。だから、アーノルトには負けない」
まだ笑顔はぎこちないけど、ユナムはしっかりとうなずいた。
あとは大人たちと、リクにすべてを委ねる。
話し合いは、夜半を過ぎても続けられた。
ぼくはいつのまにか椅子に寄りかかってうとうととしていて、誰かに寝室にと囁かれたけど頑なに首を振った。
毛布やら布団やらをふんだんに持ち込まれて床上に横にさせられていたみたいで、ふと眼を開けると、男たちがまだ真剣に卓上に書類などを広げて話をしていた。
ぼくが眼を覚ましたことに気づいたシン・レは、ユナムたちが館を出て戻ったことを知らせてくれた。
アーノルトの手の者にユナムたちの不在に気づかれたら、うまく誤魔化すようにクラフに頼んではいるものの、不在に気づかれること自体がまずい。ある程度ユナムたちの明日の動きの目処はついたそうで、それを確認してから戻ったということだった。
みんなの話は明日のこと、いや、それ以降のことにも話が及んでいた。フィジも、話に加わらないものの、ムトンとマンダルバの行く末は気にかかっているのか、皆の話をそばで見ている。キースもフィジのそばにいる。
シン・レはぼくに白湯を持ってきてくれて、ありがたくそれをもらう。
まだ二人でちゃんと話をしていないことに改めて気づいて、この機会に声をかける。
「シン」
「はい、カルトーリ様」
男気な少年は、なんの疑いもないようにぼくに笑いかける。
「ぼくに、よくしてくれるけど、シンは、それでよかったの? 領主が誰になっても、その人に尽くさないといけないのだとしても、ぼくみたいな、まだなにができるのかもわからないような奴を、なんで領主と思ってくれるの?」
みんなの邪魔をしないように、声をひそめて言う。
シン・レがぼくをどう思っているか。
ちょっと気になっていて、だけどそれを確認できたからって、きっとシン・レがぼくに対する態度を変えることはないとは思っている。そこはすでにシン・レを信頼している。
ぼくの手から空の茶碗を受け取り、シン・レはそのままふっと笑みこぼす。
「覚えておられませんか。フィジ様とキース様を交えて、敵対しているはずの面々で会食することになったときのこと」
「覚えてるけど」
それがなんだろうと、小首を傾げる。
「カルトーリ様は、一人で所在なさげにしていた俺に、声をかけてくださいました。あのときは、管財官から大まかな指示を受けてはいたものの、急な召集でどうしたらいいのか少し不安で。そんな俺に、カルトーリ様は、一緒にどう?と、訊いてくださって。でも特殊な状況と、あなたのお人柄もまだわからず、一応戸惑ってはいたんです。表情には出してはいなかったとは思うんですが」
うん、全然気づかなかった。シン・レはいつも一人で堂々としていたから。
「カルトーリ様はこう言われました。すごいね、いつも一人で行動できてて。でも、一人での食事はぼくだったら寂しいから、よかったら一緒の席にどうですか、って」
そんなこと、言ったっけ。
リクの態度が気にかかっていたから、自分がなにを思っていたのかはあんまり覚えてない。
「敵対しているはずの相手に、そんなふうに言ってくると思ってなかったので、驚きました。でもあなたを見ていると、それが本心らしいと気づいたんです。ちょっとした行動にも表情にも、あなたが嘘偽りなく思っていることをそのまま行動に出している人で、他人を気遣うことのできる人だと。俺は、お仕えするなら、あなたのような人がいいと思った。あなたがご領主となっている姿を想像できた。俺は、現在の管財官のお父上に、孤児院から拾っていただきました。俺の家族は、このマンダルバで数年前に自然災害が起こってしまったときに亡くなりました」
それは、つらかっただろう。
「俺は大丈夫です。もう随分前に気持ちの整理はつけることができましたから。マンダルバの孤児院は、歴代ご領主の政策によって、子供の保護にしっかりと力を入れてくださってます。俺がいたところも勉学や武芸を普通の子供以上に学ばせてくれた。成績優秀な子は、誰であろうとマンダルバの官吏になる道が拓けています。ザグゼスタ様もよく孤児院をまわってらして、管財官のお父上もそれでぼくに期待をしてくださったのだと思います。カルトーリ様となる方がこのマンダルバに戻られたときに、支えになる者が必要であるとお考えだったのでしょう。俺を自宅に引き取ってくださり、俺に知識と己の経験を授けてくださった。管財官はすでに成人なさっておられたので、別のご住居に移っておられた。それもあってか、俺を実の息子のように扱ってくれていました。その期間は短いものでしたが。ご領主となられる方にしっかりとお仕えしてこそ、ご恩返しになるという思いもあります。それ以上に、俺はありがたいと思ったんです。お仕えするのがあなたなら、俺はどんなことだってできる。人の気持ちがわかるあなたが、ご領主としてマンダルバの民を思ってくださる、これ以上にマンダルバのためになることはない」
ぼくの目を見ながら語るシン・レに、そんなふうに思われていたと知って、なんだかいたたまれなくて、恥ずかしくなっていた。
「そんなふうに、ご自身のことになると謙遜した様子を見せられる。それも、あなたのお人柄。俺に、なんでもお申し付けください。これから先なにが起こっても、そばでお支えします。マンダルバのためもありますが、俺は、あなたのために働きたい」
あの、もうそれくらいに。
ぼくはそんな大層な人間じゃないので。
恐縮する態度のぼくに、シン・レは少し声を出して笑い、寝室に行かれるなら用意しますと言った。
どうしようと迷った。
みんな、ぼくのためにこんなに夜中まで動いてくれているのに、自分一人だけのほほんと寝てはいられない。
「ううん、やっぱり、ぼく一人でのんびりできないよ」
「そうおっしゃると思いました。いま皆さまにお夜食を準備しているところです。この部屋に他の者を近づけさせられませんので、俺も手伝うことになっています。よかったらこのままここでお休みください。横になっておられるだけでも、体は楽になりますから」
シン・レはにこりと、一礼して退室した。
改めて、部屋の人たちを見つめる。
明日のこと、これからのこと、マンダルバの未来、ムトンの未来、ぼくのこと、みんなのこと、いろいろと話をしてくれている。
みんなを一通り見つめて気づいた。
リクがいない。
部屋の中は暖炉の火で暖かかったけど、扉を開けると途端に冷えた空気が入ってくる。
冷たく静かな空気を吸い込み、ちょっと考えて、部屋の中に持ち込まれていた毛布を取りにいったん部屋に戻って、軽そうな一枚を選ぶ。
シン・レが夜食を運んできていて、声をかけられる。
「カルトーリ様、どちらに?」
「ちょっと、リクを探してくる」
シン・レはぼくとリクの特殊な関係性にはなにも言わない。
「わかりました。冷えないうちにお戻りください」
その言葉にうなずいて、毛布を手に部屋を出た。
昼間に探検したから、大体の部屋の場所はわかっていたし、廊下の上のほうには間隔をあけて燭台が灯されている。迷わずに館の中を歩くことができる。
もう夜中なので、すれ違う人はほとんどいない。通いの使用人達はとうに帰宅しているし、ドイレ執事のような住み込みの人もいるけど、警護の人員以外はいまは最小限らしい。そういったことはまた後日お話しさせてくださいと言われていて、この屋敷で働く人たちについても、ぼくは責任を持たないといけない。
館の中は静かで、ぼくが意識を持ち始めた最初のころだったら、こんなふうに一人でこういうところを歩いていたら寂しくて動けなくなっていたかもしれない。
いまぼくは、ある意味満たされていた。
みんなに望まれて、自分もそれを了承して、いろんな人がぼくを支えてくれている。
ぼくが領主だからじゃなく、ぼくだからという理由で。
リクの、おかげなんだよ。
リク、どこにいる?
廊下をほとんど無意識に歩いて、階段を上がって、ちょっと立ち止まって、ある方向に目がいって、そこを目指す。
たどり着いたその部屋の前で立ち止まり、扉の金属の取っ手に手を掛けたまま、少し迷う。
リクは一人になりたいときに、なにも言わずにふっと姿を消す。
いまも。
だから、ぼくがその隣に行ってもいいのか、迷った。
でもぼくは、リクを一人にしたくないんだ。
一人でいさせたくない。
リクは強い人。
ぼくの想いなんて、いらないことかもしれない。
あきれたように笑ってくれていい。
なにしに来たと怒ってくれていい。
なにを思ってもいいから、一人でいないで。
意を決してゆっくりと扉を開ける。
領主の書斎の中は、明かりが灯っていなかった。
それでも明るいと感じたのは、窓の外に映る、双月のせい。
夜の空に浮かぶ二つの月。
小さいけど白く強い光を放つ、白月。
白月よりも大きく、朧げな赤い姿の、赤月。
白月はほぼ毎日夜空に上がるけど、赤月は隠れている日も多いから、双月が空にあって、二つがとても近いときはいいことがあると、この世界では言い伝えられている。
そんな双月で明るめの窓の横に、一部分だけ明かりに照らされ、窓枠に腕を組んで寄りかかっている人の姿があった。
ぼくは声をかけずに近づいて、どれだけここにいたのかわからない冷えたリクの片腕にそっと手を掛ける。
服だけじゃなく、中のほうまで冷えていて、悲しくなって、すぐに持ってきた毛布をリクの肩に掛けた。
リクは、ぼくが見つけてからずっと動かずに、双月で夜でも少し景色が見える外を見ていた。
ぼくにすぐに気づいていたはずだけど、なにも言わない。
やっぱり一人でいたいんだな。
冷えちゃだめだよと心で言って、背中を向けた瞬間に片腕を引っ張られた。
ぼふりと毛布を頭から被せられて、勢いで片腕で肩を抱き込まれる。
リクの冷たい体に寄り添って、被さっていた毛布から頭を片手で救出する。
ひとつの毛布を二人で被って、鼓動が聞こえる距離にいる。
リクの顔は見えないけど、ぼくを引きずり込んだから、怒ってはいないみたい。
とんとんと、規則正しい音。
互いの体温で毛布の内側がだんだんと暖かくなって、安心する。
そのまま、リクの音を聞いていた。
前領主ザグゼスタ様の妻であったアラヴィ様は、領主の館から一刻ほど離れた森の中にある領主の別荘に住んでいる。
これは、表沙汰にはされていない。
領主不在であった昨日までの半年ほどの間、領主の代わりに女主人として館にいなければならなかったはずが、館に寄り付きもできずに長く留守にしていることを、領民にも、領外の者にも、知られるわけにはいかなかったからだ。
アラヴィ様が長く領民の前に姿を現さないのは、領主ザグゼスタ様の逝去により傷心が続いていると、領民たちは信じている。
本日も、ぼくたちはそれなりに仕立てのよい服を着て、馬車に揺られている。
馬車の中にはぼくとリク、フィジとキースが乗っている。
この面々での馬車旅は慣れたもので、フィジはなにかとぼくと話をしてくれる。
ぼくがマンダルバの領主となった日から、マンダルバの警備兵、それからヤトゥ商会からセリュフとヴィイ厳選の男たちが、領主の館の警備と、ぼく自身の警護を、見えないところですでに行なっていた。
ぼくはそうと知らずに、館の中でリクたちとゆったりとお茶を楽しんだり、夜中に一人で館内を歩き回ったり、そんなときもちゃんとぼくの警護はなされている。
通常の護衛の場合、敵対する者にわかるように見えるところに人員を配置することが多いが、貴人など、護衛人の姿が見えることは都合が悪い、あるいは貴人本人に護衛人を認識させないようにする、ふた通りの警護の仕方があるそう。
たとえば、存在感を示して敵に警戒させるヴィイ、闇に紛れるように気配をあまり感じさせないル・イース、二人がわかりやすい例で、そういう多様な人材がヤトゥ商会には多数在籍しているとセリュフから聞いた。
マンダルバの警備は、どちらも対応可能だけど、実際に命のやり取りをしてきたのはヤトゥ商会の男たちのほう。
そういうわけで、ぼくには両方の警護がいまもついている。
馬車の前後を単騎で警備するマンダルバの警備兵と、姿を見せずに裏道のような一つ外れた獣道のようなところを優れた馬術で走るヤトゥ商会の警護人たち。
昨夜半まで続けられた話し合いで、本日の警護は万全の形となった。
ぼくの身近に、フィジとキース。それだけでもぼくの守護となる。
現場はそれでいいけど、事あるときには逃走経路が大切になるらしい。
フィジやキースがぼくを守っている間に敵に馬や馬車を奪われてしまえば、その場から離れることが難しくなる。
逃走できたとしても、その先で交戦となれば、力に限りがある人間である以上、優れた戦士でも、能力の高い魔法士であっても、力を消耗すれば隙が生じる。
フィジとキースは、本来は戦場の人。敵を殲滅させることのほうが能力を発揮しやすい。
誰かを守りながら戦線を離脱することと、役割が真逆なのだという。
「戦場だったら、敵に向かって魔法をぶっ放せば、それでこちらは楽になるじゃない? ちまちまと、少人数を相手にしながら逃げるって、逆にちょっとしんどい」
笑いながら言うフィジだけど、言ってることが過激で怖いと思います。
「キースもねえ、この人どっちかというと、戦端を切り開く役割のほうが多いのね。ど派手に動いて、初っ端から敵を屠って戦意を喪失させるのが特技」
そんな特技ありますか。
恐ろしすぎます。
要するに、二人は本来、守護人には向いてない。
ぼくのために、やったことのないことをしてくれているというわけ。
「だってねえ、悪名高いフィジさんに、誰かを守れなんて、そんな依頼が来るわけないじゃない? リーヴの依頼が珍しすぎて、思わずいいよなんて言っちゃった」
自分でそんなことを言うフィジに笑うしかない。
「でもね、きみの守護じゃなければ、受けてなかった。だから気にしなくていいよ」
ぼくの目を見てフィジが笑ってくれる。
ありがとうございます。
のどかな本都郊外の農地から森の中に移ってから、そろそろ一刻。
アラヴィ様の待つ別荘にそろそろ着く頃合い。
レッテ山の厳しい山岳地よりも穏やかで、本都から南にあるその天然森林は、あまり人の手の入っていない地域。
マンダルバでは、農耕民が多いために、樹精や地精の信仰があつい。水の恵みをくれる水精も人々の感謝の対象。
人の手を多く入れてきたマンダルバの土地だけど、そういう人々の信仰の場として、その森は手付かずで残されている。
「実際、マンダルバは精霊の数は多いほうだと思うよ」
「えっ、本当にいるんですか?」
ぼくの目に精霊は見えないけど、思わず馬車の窓の外を乗り出して見てしまう。
「あはは、精霊なんて、どこにだっているよ。だからこのマンダルバは自然が豊かなんだし。水は豊かで美味しくて、風は自在に行き渡っていて、土は穢れなく実りを恵んでくれて、火は人の支えになってる。他の土地じゃ、こうはいかない。さすが物産の宝庫って感じ。あたしも実際に来るまでただの噂だと思ってた。歴代領主は、ちゃんとマンダルバのために働いてたんだね。他の国じゃ、土地によって荒れていたり、無理やり精霊の力を借りて力の均衡が崩れていたりしてね、ここまで自然と融合しながら発展しているところは少ないね」
「じゃあ、ムトンは」
ムトンは、精霊が少ないから、荒れているの?
隣のリクを見るけど、窓の外を見ているだけで、ぼくたちの会話には参加してない。
「ムトンねえ。豊かだった時代はあったよ。だけど、戦乱が増えてから、人が自然に向き合わなくなっていった。歴史書を読むとわかるよ。人間は、己の欲望のために自然を壊し、その摂理に反し、土地そのものを愛さなくなり、実りのないことを自然のせいにまでする。そんな人間たちに、精霊たちが応えるわけがないでしょ? この世界は、精霊を見ることができる人が多いほうだから、まだ共存していられる。想像してみてよ。誰一人精霊を見られず、自然を無視して人間だけの社会を作って、自然に見向きもしなくなった世界を。精霊がひとつも住まなくなった世界は、きっと滅ぶよ」
それが、いまのムトンの現状。
「だから、ちゃんと自然に向き合えば、精霊は戻ってくる。土地を愛すれば、豊かさもまた作ることができる。人は、努力をして初めて精霊に愛される。人間が精霊を使っているから優位に立っているなんて、そんな勘違いをしている者は、大概早くに命を落とす。そういう未熟な魔法士はたくさん見てきたよ。人は精霊たちの力を借りているだけ。驕ったら、いずれ精霊に見放される。いい精霊使いがいい人だってことには繋がらないんだけどね。あたしだって、依頼があれば人を殺めることもある。キースも戦士だから人を害するのが仕事。精霊は決して人間好きなわけじゃない。人と違って、感情なんて持ってないから。精霊は、自然の持つ力。それを人はうまく使っていかないといけない」
難しく、一人一人の意識だけでは立ちゆかない話だ。
大きな組織と、大いなる教えが必要。
「マンダルバは、いい見本だよ。過去の者たちの努力を、いまの者たちが受け継いでいかないといけない」
「はい」
偉大なる魔法士であり術者がそう提唱するなら、守られなくてはならない。
フィジとのおしゃべりで、緊張感を忘れていられた。
アラヴィ様と会うことには、とくに緊張はしていないけど、そばにいるだろう人と会うのが恐ろしい。
アーノルトは、直接人を殺めてはいない。
だけど、彼が命じて殺されてしまった人は、どれだけの数にのぼるのか。
ちょっと性格が悪いだけの、威張りや。
そんなふうな周囲の人の感想なんて、彼の本当の姿からみればかわいい評価だ。
アーノルトのことを考えている間にも、馬車は進む。
森の中に建てられた別荘は、昔の領主が、自然を愛する妻のためにと、自然豊かなところに建てられた。
その地にいるアラヴィ様。
亡くなってしまった夫が病に倒れてから、その地にこもるようになった。
その昔の領主が愛する妻のために建てたところで、夫に愛されなかった妻であった彼女は、なにを思っていただろう。
馬車が止まって、ぼくたちの馬車の前を走っていた馬車からジョーイ・ハーラット管財官補佐がやってきて、扉を開く。
「着きました。いまのところ異常はありません」
先に下りたキースの手を借りて馬車を下り、辺りを見る。
馬車をいくつか停めるために切り開かれ、奥に建物が見える。
平屋の想像よりも大きな、木製の住居。三角屋根の頂点が高い位置にあるのは、冬場に雪が自然に落ちるように。そういういくつかの棟が繋がり、森の中に溶け込むような佇まい。
管財官補佐を先頭に、ぼくとフィジ、あとからリクがついてきてくれる。キースは外の警護。ヤトゥ商会の男たちは、森の中のどこかに潜んでいる。
クイン・グレッド管財官は本都に残った。最悪な事態が起こったとき、実質領主よりも重要な職にある管財官まで倒れるわけにはいかない。
これはあらかじめ決められた配置。繊細なアラヴィ様への配慮と、アーノルトの思惑には乗るわけにはいかないこちらの事情。
建物から、二人の年配女性が出てきて、管財官補佐に頭を下げた。
「アラヴィ様がお待ちです」
言葉少なに、それだけを告げる。
「新領主になられたカルトーリ様だ。礼を尽くすように」
管財官補佐の言葉に、二人の女性はぼくを見てから深く腰を折る。
この建物にいる使用人たちは、ずっとアラヴィ様に仕えてきた者たち。
見たことのない新領主に、いや、カルトーリに、いい印象はないだろう。
女たちは無表情に建物の中へとぼくたちを導いた。
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